“渡る世間に鬼はない” の真意　北村孝一【著】

北村孝一（きたむら よしかつ）先生
ことわざ研究者（ことわざ学会代表理事）。エッセイスト。学習院大学非常勤講師として「ことわざの世界」を講義した（2005年から断続的に2017年3月まで）。用例や社会的背景を重視し、日本のことわざを実証的に研究する。

よく「渡る世間に鬼はない」と言いますが、どういうことでしょうか。この「鬼」は、もちろん、地獄の鬼ではなく、心が鬼のようで思いやりのない人、することが鬼のようで容赦（ようしゃ）ない人のことです。

ことわざを文字どおりに受け取ると、そんな人は世の中にいないことになりますが、あなたはどう思いますか。

鬼のように冷たい仕打ちをする人、他人を傷つけたり害しても平気な人がこの世にいるのは、残念ながら事実です。なのに、なぜ「渡る世間に鬼はない」と言うのでしょうか。

ことわざは、その文句を読むだけでは、なかなか真意がわからないことがあります。ことわざの意味は、文字の背後にある使われる場面や使う人の気持ちと密接に結びついているので、実際に使われる場面を身近に見聞きすることで理解が深まります。

しかし、特定のことわざが使われる場面に居合わせることはそうないので、小説やエッセイなどの適切な用例をじっくり読むことも大切です。

ここでは、井上マス『人生は、ガタゴト列車に乗って……』の用例をみてみましょう。作家の井上ひさし氏の母親が晩年に書いた自伝です。マスさんは、夫を結核で亡くし、婚家を出て三人の男の子を育てながら東北地方を転々とし、さまざまな職業に従事し、パーマ店の共同経営者の裏切りや土建業者の下請け切りなど、多くの苦難にもめげず、後に水商売に転じて貧しい時代を生き抜いた、たくましい女性です。

しかし、岩手県一ノ関での貧しい暮らしのなかで長男が過労で肺結核を病んだときは、治療費もなく豆腐一丁買うにも不自由し、気も狂いそうでした。そんな時、豆腐売りの老婆が「おらっちも、昔そんなこともあったよう。金はいつでもいいがに」といってくれたいいます｡

「渡る世間に鬼はないというけれど、一ノ関には、こんなふうな気のいい人たちが多かった」と当時を回想しています。本当に苦しいときに思いがけない人から親身な言葉をかけられ、ほっと一息ついて気を取り直したのでしょう。その後、民生委員を訪ねて相談するなど積極的に行動したことから、長男の療養の途（みち）もひらけていきました。

マスさんだけでなく、このことわざを口にする人の多くは、不運がかさなったり、他人にだまされたり、ひどいことをされるなど、何度も辛（つら）い目にあっています。その上で、善意の人に出会ったときの感慨をことわざに込めて表現するのです。

いくつもの絶望的な体験の後に、素直に心から信じてよい人がいる、この世に生きていく希望があることを実感し、ことわざでその喜びと感動をあらわしている、といってもよいでしょう。

冷静に論理的にいえば､「渡る世間は鬼ばかりじゃない」ということになるでしょうが、そう言ったのでは、この喜びと感動は伝わりません。

ことわざは、ものごとの一面を強調し、好んで断定的な表現をします。「渡る世間に鬼はない」は、そうした表現の典型的な例といってよいでしょう。

ことわざは、その一方で「人を見たら泥棒と思え」ともいい、近年は「渡る世間は鬼ばかり」ともいいますが、これらについては、また別の機会にふれることにします。　（2025/12/23）

多くのことわざ資料集を監修し、『故事俗信ことわざ大辞典』第２版（小学館、2012）を編纂・監修した。後者を精選しエッセイを加え、読みやすくした『ことわざを知る辞典』（小学館、2018）も編んでいる。視野を世界にひろげ、西洋から入ってきた日本語のことわざの研究や、世界のことわざを比較研究した著書や論考も少なくない。近年は、研究を続けるほか、〈ミニマムで学ぶことわざ〉シリーズ（クレス出版）の監修や、子ども向けの本の執筆にも取り組んでいる。

主な編著書
『故事俗信ことわざ大辞典』第２版(小学館)、『ことわざを知る辞典』(小学館)、『世界のふしぎなことわざ図鑑』(KADOKAWA)、『ミニマムで学ぶ　英語のことわざ』(クレス出版)、『ことわざの謎　歴史に埋もれたルーツ』(光文社)、『世界ことわざ辞典』(東京堂出版)、『英語常用ことわざ辞典』(武田勝昭氏との共著、東京堂出版)など。
北村孝一公式ホームページ
ことわざ酒房（http://www.246.ne.jp/~kotowaza/）