“有名なことわざ100″ の選定にあたって
このサイトの“有名なことわざ100 ”は、アクセス数のとても多いコーナーです。このコーナーをさらにグレードアップするために、ことわざ研究者の北村孝一先生に収録項目の選定を見直していただきました。
また、本記事の解説の作成にあたって、北村孝一先生著書の『ことわざを知る辞典』(小学館、2018)を参考文献として使用しました。
よく使われることわざ約1,500個について意味・用法をわかりやすく解説されており、ことわざを初めて勉強する学生から社会人までの幅広い世代の方に手に取っていただきたい1冊です。
ことわざ研究者(ことわざ学会代表理事)。エッセイスト。学習院大学非常勤講師として「ことわざの世界」を講義した(2005年から断続的に2017年3月まで)。用例や社会的背景を重視し、日本のことわざを実証的に研究する。多くのことわざ資料集を監修し、『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館、2012)を編纂・監修した。後者を精選しエッセイを加え、読みやすくした『ことわざを知る辞典』(小学館、2018)も編んでいる。
あらたな選定の基本方針は、次の3つです。
1.多くの人によく知られているもの
有名なことわざは、ふつうの人が知っていて常識とされ、いちいち説明せずに使われます。意味だけでなく、どのような場面で使われるかに注意し、必要なときに使えるように身につけましょう。
2.日常生活で使われるもの
特に古典や文学にくわしくなくても、生活のなかで自然に使われるものです。ふだん使われる口語の形を主に採用しましたが、漢文的表現や文語でも現在使われているものは、見出しにしたり、説明文で補足しています。
3.ことわざのレトリックになじみ、センスを磨けるもの
ことわざは、短い表現で、口調がよく、深い意味をあらわすものが少なくありません。比喩や対句、反語など、多様なレトリックが用いられています。ことわざによく使われる表現方法になじみ、論理的理解力とともに、ことばのセンス(感性)を磨けるものを選びました。丸暗記ではなく、声に出して、ゆっくり味わってみてください。
有名な慣用句は、【慣用句100選】有名な慣用句意味付きをご覧ください。
有名な四字熟語は、【四字熟語100選】有名な四字熟語と意味解説付きをご覧ください。
小学校で習うことわざは、【小学生用】小学校で習うことわざ312選をご覧ください。
当サイトに収録してある全てのことわざは、ことわざ検索(ことわざ集)をご覧ください。
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目次
「あ行」のことわざ意味・解説付き
後の祭
【意味】
物事が終わった後に後悔をしても手遅れであるということ。
「後の祭」とは、時機を逸してしまった後で、後悔してももう取り戻すことができない状況を表すことわざです。
この表現は、文字通りには「祭りが終わった後」という意味ですが、比喩的には「時すでに遅し」と同じような感じで使われます。何かを成し遂げるべき適切な時がすでに過ぎてしまい、後からどんなに後悔しても、もはやそのチャンスを取り戻すことは不可能である、という状況を指摘しています。
たとえば、試験勉強をするのが遅れてしまい、試験の当日が来てしまった後で「もっと早く勉強しておけばよかった」と悔やむような場合に、「後の祭」という言葉が用いられることがあります。このように、適切な行動をとるべき時にそれを怠り、結果として機会を失ってしまった場合にこの表現が適しています。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざの解釈には、二つの考え方があるとされています。一つは、「六日の菖蒲十日の菊」と同様に、比較的軽い意味で時機に遅れたたとえとするものです。もう一つは、「死んだ後の祭」と同義とするもので、織田信長の教育係を自任した平手政秀が自刃して諫めた話を引き、信長が大いに悔いて寺まで建てて供養したのも後の祭とされているようです。
このように、「後の祭」は、単なるタイミングの失敗から、深い悔恨や無力感を伴う状況まで、広範な意味を持つことわざです。
雨降って地固まる
【意味】
争いごとなど悪いことがあったあとに、前よりもよい関係になること。
「雨降って地固まる」という言葉は、雨が降った後に地面がより固く、しっかりとした状態になる様子から来ています。
このことわざは、人間関係や社会的な出来事において、何らかの困難や問題が起こった後で、その困難を乗り越えることで関係が以前よりも強固になるという状況を表しています。
つまり、争いや苦難があったとしても、それを経験し克服することで、人々の絆が深まり、組織や集団が一層団結する効果があるという教訓を含んでいます。このたとえは、逆境を乗り越えることの重要性や、試練が絆を強化する機会にもなり得ることを教えてくれます。
案ずるより産むが易い
【意味】
何かをする前はあれこれと心配するが、実際にやってみると案外簡単にできるものだということ。
「案ずるより産むが易い」ということわざは、事前に過度に心配したり不安になったりするよりも、実際に行動に移したほうが、思ったよりもスムーズに事が進むことが多いという意味を持っています。この表現は、文字通りには「考えるよりも産む方が簡単」と訳せますが、ここでの「産む」は、物事を実行に移すことを指しています。
例えば、試験勉強や部活の大会、または新しいことに挑戦する際に、「うまくいくかな?」「失敗したらどうしよう?」と心配することがよくあります。しかし、実際にはその心配をしている時間がもったいないことが多く、実際に勉強を始めたり、実際に試合に出たりすると、心配していたほど難しいことではなかったり、思いの外、上手くいくことが多いのです。
このことわざは、行動を起こすことの大切さや、行動することで得られる成果や経験の価値を教えてくれます。何か新しいことを始める時や、大きな課題に直面した時、不安に思うのは自然なことですが、それに囚われ過ぎずに、思い切って一歩を踏み出す勇気も大切だというメッセージが込められています。
「ことわざを知る辞典」によると、昔の日本では、「産は女の大厄」「産は女の命定め」などといい、出産が女性にとって非常に大きなリスクを伴うものとされていたため、このことわざは不安を感じる妊婦を励ます表現であったとされています。
しかし、現代では出産以外のさまざまな場面で使われるようになり、主に何か新しいことを始める時や大きな決断を迫られた時に、無駄な心配をせずに行動を起こすことの重要性を伝える言葉として使われます。
石の上にも三年
【意味】
どんなにつらいことでも、がまんして努力を続けていれば、必ずむくわれるという教え。
「石の上にも三年」ということわざは、継続は力なりという意味が込められています。これは、どんなに厳しい状況や困難な環境であっても、長く耐え続けることで最終的には良い結果が得られるという教えです。
たとえば、冷たい石の上に座り続けることが、始めは非常に辛いことかもしれませんが、時間が経過するにつれて体温で石が暖まり、座ることが少しずつ快適になると考えられています。
このことわざは、特に新しいことを始めたり、難しい目標に挑戦しているときに心に留めておくと良いでしょう。最初は結果が出なかったり、思うように進まないこともあるかもしれませんが、諦めずに努力を続けることが大切です。
仕事や学業、部活動などで挑戦する際にも、このことわざは大いに役立つはずです。三年という期間にこだわる必要はありませんが、継続することの重要性を教えてくれる言葉です。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸初期には「石の上にも三年いれば温まる」といったようです。この「いる」はすわるという意味で、十七世紀末頃から後半を略した現在の形がしだいに定着したとされています。
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急がば回れ
【意味】
急いでいる時は、少しぐらい危険でも近道をしたくなるが、遠回りでも安全な道を行ったほうが結局は早いことが多いということ。急ぐ仕事はかえって丁寧に、確実なやり方でやれという意味でも使われる。
「急がば回れ」ということわざは、直訳すると「急ぐ場合は遠回りをしろ」という意味ですが、これは文字通りに受け取るのではなく、もっと深い教訓を含んでいます。
この言葉の本質は、「急いで物事を成し遂げようとするとき、時には一見遅くて回り道のように見える方法が、結果的には一番はやくて安全な方法になることがある」ということを教えています。
例えば、大事な試験の前日になって徹夜でたくさんの勉強をしようとすると、情報の整理が間に合わず、寝不足で頭が回らなくなってしまいます。そうではなく、試験の何週間も前から少しずつ計画的に勉強を進める方が、焦ることなくしっかりと準備でき、結果として良い成績を得ることができるでしょう。
このことわざは、単に時間の使い方だけでなく、人生の様々な場面での判断や行動にも応用することができます。短期的な成果を急ぎ過ぎることなく、長期的な目標や安全を考え、堅実な方法を選ぶことの重要性を、この言葉は教えているのです。
「急がば回れ」は、急ぐことが必ずしも最短や最良の方法ではないことを思い出させてくれる智慧の言葉と言えます。だからこそ、目の前の課題に対して冷静に、かつ慎重に取り組むことの大切さを、このことわざは伝えているのです。
一富士二鷹三茄子
【意味】
縁起が良い夢を順に並べた語で、一番目が富士山、二番目が鳥の鷹、三番目が野菜の茄子。特に、新年の初夢に見ると縁起が良いとしていう。
「一富士二鷹三茄子」とは、日本の伝統的な表現で、初夢に見ると非常に縁起がいいとされるものを富士山、鷹、茄子の順に並べたものです。特に、新年の初夢にこの三つが登場すると、その年が幸運で豊かなものになるとされています。
「ことわざを知る辞典」によると、この表現の語源にはいくつかの諸説があるとされています。
一つの説は、駿河(現在の静岡県あたり)の名物を順に挙げたものというものです。
もう一つの説では、富士山(一番高い山)、鷹(高く飛ぶ鳥)、そして茄子(初茄子の値段)という、それぞれ「高さ」を象徴するものが選ばれたとされています。
さらに、富士山の「高大さ」、鷹の「つかみ取る」、茄子の「成す」という意味合いから、これらが縁起の良い要素として選ばれたとも言われています。
江戸時代には、この表現が現在の形に確立される前には、「一富士二鷹」までで終わることもあり、「三」の要素がまだ固定されていない例も見られます。しかし、時間が経つにつれて、「三茄子」というやや意外性のある要素が加わり、現在に至るまで人々に愛され続けている形になりました。
このように「一富士二鷹三茄子」は、ただの縁起物としてだけでなく、日本の自然や文化に対する敬愛の念を表しているとも言えるでしょう。そして、これらが夢に現れることは、新たな始まりや希望を象徴し、その年の幸運を予感させる特別なサインとされているのです。
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一寸の虫にも五分の魂
【意味】
どんな弱小なものにも、それ相応の意地や考えがあるのだから、ばかにしてはいけないということ。
「一寸の虫にも五分の魂」ということわざは、どんなに小さい存在であっても、その命には価値があるという教えを含んでいます。ここで「一寸」(いっすん)は約3センチメートルを指し、とても小さいものを意味します。「五分」(ごぶ)はさらに半分、つまり1.5センチメートルを示しています。
この表現では、小さな虫の体の半分が魂であると言っているわけですが、これは文字通りに受け取るのではなく、小さな虫でさえも大切な魂を持っているという比喩的な意味で理解する必要があります。
このことわざからは、すべての生き物には尊厳があり、生命を大切にすべきだという教えが伝わってきます。例えば、虫や小動物を見下したり、無駄に傷つけたりすることは、その生き物が持つ価値を否定することになります。それはまた、どんな人にも固有の誇りや価値があるため、他人を軽視したり、侮辱する行為がいかに不適切であるかを示しています。
学校でのいじめや、友達間でのからかいなど、人を小さく見る行動はこのことわざを通じて考え直す良い機会になります。どんなに小さな存在であっても、その命には大きな意味があると理解し、尊重することが大切です。このように「一寸の虫にも五分の魂」は、日常生活の中で互いに敬意を持って接することの重要性を教えてくれる言葉なのです。
犬も歩けば棒に当たる
【意味】
①行動すれば、思いがけない幸せにめぐり会うことがある。
②出しゃばって何かをしようとすれば、思いがけない災難にあうということ。
「犬も歩けば棒に当たる」ということわざは、二つの意味で使われることがあります。
一つ目の意味は、「努力を怠らずに活動していると、思いがけず良いことや幸運に遭遇する」というものです。これは、ただ歩いている犬が道中で棒に当たるように、何かをしていれば予期しない良い結果に出会うことがあるという例えです。
もう一つの意味は、「積極的に行動する人は、その分、トラブルや困難にも遭遇しやすい」ということです。これは、犬が歩いているときに棒で叩かれるかもしれないという危険も含まれていると解釈できます。つまり、何かをすることにはリスクも伴うという教訓が込められています。
江戸時代からあるこのことわざは、江戸いろはかるたの最初の句としても知られています。
「ことわざを知る辞典」によると、自分を卑下して「犬」に例え、その上で幸運を「棒に当たる」という表現で逆語的に述べることで、意外な幸運という逆説的な解釈が成り立ちます。このようなユニークな表現は、自らを控えめに見せつつも、好きなものや素晴らしいものを否定的に表現する、江戸っ子特有のひねくれた言葉の感覚と逆境に屈しない精神から選ばれたとされています。
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命あっての物種
【意味】
何事も命あっての上のことで、命を大切にしなければいけないということ。
「命あっての物種」ということわざは、「命があるからこそ、他のすべてのことが成り立つ」という意味を持っています。つまり、何事をするにもまずは生きていなければならない、生命が最も大切なものであるという考えを表しています。
例えばスポーツや勉強、遊びなど、私たちが日常で楽しんだり、頑張ったりすることがありますね。これらの活動もすべて、私たちが健康で生きているからこそできることです。もし健康を害したり、大きなけがをしたりすると、好きなことも、大切なことも、十分にはできなくなってしまいます。
このことわざは、健康や安全を大切にし、無理をせず、自分の命を大事にすることの重要性を教えてくれています。日常生活で安全に注意を払ったり、健康的な生活を心がけたりすることが、長い目で見て自分の夢や目標を達成するためには不可欠だということです。
井の中の蛙
【意味】
自分の身の回りのことしか知らないで、もっと広い世界があることを知らないこと。世間知らず。
「井の中の蛙」という表現は、自分の知っている世界や経験だけが全てだと考えてしまっている人を指すたとえです。
この言葉は、文字通りには「井戸の中にいるカエル」という意味ですが、そのカエルは井戸の狭い空間しか知らないため、外の広い世界のことを知りません。同じように、この表現を使って、自分の周りの限られた環境や経験にしか基づいて物事を考えられない人を表しています。
「ことわざを知る辞典」によると、平安末期に漢籍から故事熟語を抜粋して編まれた「世俗諺文」に「井底の蛙」があり、漢文の比喩に由来するものとされています。また、「後漢書-馬援伝」または「荘子―秋水篇」が出典と推定されています
また、このことわざには「大海を知らず」という続きがしばしば付け加えられます。これは、井の中の蛙がその小さな世界しか知らず、大きな海の存在すら想像もつかないという意味を強調するための言い回しです。
このように、「井の中の蛙」ということわざは、自分の知識や経験の限界を自覚せずにいる人を戒めるために使われる表現であり、その根強い普及は、そのシンプルながらも深い教訓が多くの人々に共感されたからにほかなりません。
魚心あれば水心
【意味】
自分が相手に好意をもてば、相手も自分に好意をもってくれること。自分の心の持ち方しだいということ。
「魚心あれば水心」ということわざは、一方が他方に対して親切や好意を示せば、相手も自然と同じように親切や好意を返してくれるという意味が込められています。
この言葉を少し分解してみると、「魚心」とは「魚の気持ち」、つまり魚が何かしらのアクションを起こす意志や心情を表し、「水心」は「水の気持ち」として、その魚のアクションに対して水が応じる心情を示しています。
このことわざは、人間関係においても使われることが多く、友達やクラスメート、家族などに対して優しくすると、相手もまた優しくしてくれるという期待を込めていることが多いです。
例えば、クラスで新しい生徒が転校してきたときに、最初から親しく接することで、その生徒もまた自分に親しくしてくれるかもしれません。これは相互作用とも呼ばれ、お互いの行動が連鎖反応を引き起こすことを示しています。
このように、「魚心あれば水心」とは、私たちが日々の生活の中でどのように振る舞うべきか、どのように他人との関係を築いていくべきかを教えてくれる教訓とも言えるでしょう。互いに尊重し合い、親切にすることで、より良い人間関係が築けるという素晴らしいメッセージが込められています。
馬の耳に念仏
【意味】
何か注意されたり意見を言われたりしても、ぜんぜん聞く耳をもたず、効き目がないこと。
「馬の耳に念仏」ということわざは、どんなに意味のあることを言っても、相手に全く理解されない、または興味を持ってもらえない状況を表しています。
この表現は、文字通りに解釈すると、「馬の耳にお経を唱えても」という意味ですが、馬はお経の意味を理解することができませんし、お経の価値も感じることができません。だから、どんなに大切なことを言っても馬には伝わらず、無駄になってしまうというわけです。
このことわざは、人間同士のコミュニケーションにおいても使われます。たとえば、親が子供に大事なアドバイスをしても、その子供がまったく聞く耳を持たないときにこの言葉を使うことができます。また、教師が生徒に重要なことを教えているのに、生徒が興味を示さず理解もしない場合にも使うことがあります。
このように、「馬の耳に念仏」は、どれだけ価値のあるメッセージを伝えようとしても、受け取る側がそれを受け入れないときに使う表現です。それは、言っていることが相手にとって無意味であるかのように感じられ、努力が空回りしてしまうことを意味しています。
噂をすれば影がさす
【意味】
ある人の噂をすると当人がそこに現れるものだ。
「噂をすれば影がさす」ということわざは、人々が誰かの噂をしている時に、その話題の人物が偶然にも現れるという現象を指しています。
この表現は、私たちが他人について話している時、その人が予期せず現れることがしばしばあるという経験に基づいています。
また、このことわざは、人が他人のことを話す時には注意深くなるべきだという教訓も含んでいます。なぜなら、その人が意外な形でその場に現れるかもしれないからです。
「ことわざを知る辞典」によると、この「影」という言葉はここでは人影を指し、その人の姿がちらりと見えるという意味です。日常会話で使われる際には、「噂をすれば影がさす」と全部を言うことは少なく、よく「噂をすれば影」と短く言ったり、「噂をすれば何とやら」と言葉をぼかして言うことが多いようです。
これは、話の途中でその人が現れるかのような不思議な偶然を楽しむ表現と言えます。
海老で鯛を釣る
【意味】
あまりお金をかけたり苦労したりせず、大きく得をすること。
「海老で鯛を釣る」ということわざは、小さな投資や労力をして、それよりもずっと大きな利益や報酬を得るという意味です。
この表現は、文字通りには釣りの状況を想像させますね。通常、釣りで餌として使われる海老は小さく、価値が限られていますが、それで鯛のような大きくて価値のある魚を釣り上げることができれば、大きな成功と言えるでしょう。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざは、江戸時代の中期から使われるようになったとされており、商売では「損して得とれ」といいますが、このことわざは、継続的な商取引というより、主に一度きりのことや贈答について使われるとされています。
また、日常会話では「海老鯛」と短縮して使うこともあります。
「海老で鯛を釣る」ということわざを通じて、私たちはリスクとリターンのバランスを考える重要性を学ぶことができます。そして、それが上手くいく場合もあれば、そうでない場合もあるという現実も理解することが大切です。
縁の下の力持ち
【意味】
目立たないところで、人のために力をつくすこと。また、その人をさす。表舞台には出ないが、重要な役割を果たしている人のこと。
「縁の下の力持ち」ということわざは、目立たないけれども重要な役割を担っている人のことを表しています。具体的には、表舞台に出ることなく、支えや裏方作業をしている人たちを称える言葉です。
たとえば、イベントを成功させるためには、ステージ上でパフォーマンスをする人たちだけでなく、照明を設定したり、音響を調整したりする技術スタッフの存在が不可欠です。これらの人々は直接表には出ませんが、彼らがいなければイベントは成立しません。
このように、「縁の下の力持ち」は目に見えない場所で努力し、大きな影響を与える人々を指す言葉で、チームワークの大切さや、表に見える成果の背後には多くの人の支えがあることを教えてくれます。この表現は、それぞれの役割が如何に重要かを理解し、人々が協力し合って何かを成し遂げる過程の価値を再認識するために使われることが多いです。
実はこのことわざの意味は、時代の変化によって変わってきました。
「ことわざを知る辞典」によると、明治大正の頃までは、他人のために骨を折るばかりで報われないこと(人)をさし、おおむね否定的な文脈で使われていたそうです。しかし、今日では、目立たないが重要な裏方を称賛するのが普通の用法になっています。
負うた子に教えられて浅瀬を渡る
【意味】
時には、自分よりも年下の者や未熟な者から教えられることがあることのたとえ。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」ということわざは、直訳すると「背負った子どもに浅瀬を教えてもらいながら川を渡る」という意味ですが、ここから派生した教訓があります。このことわざは、年下や経験の浅い人からも新しいことを学べるという意味を持っています。つまり、年齢や経験の多さだけが知識や能力のすべてではなく、時には若い人や見習いの段階の人からも貴重な教えを受けることがあると教えてくれます。
例えば、現代では技術の進化が速く、新しいデバイスやソフトウェアについては若い世代のほうが詳しい場合が多いです。そのため、仕事で新しい技術を使う際には、若い同僚や部下から指導を受けることがあるかもしれません。このことわざは、そうした状況で謙虚さを持ち、開かれた心で学び続ける重要性を伝えています。
また、この教訓は単に技術や知識に限らず、人生のさまざまな局面で応用できます。新しいアイデアや異なる視点は、予想外のところから得ることが多いですから、常に周りから学ぶ姿勢を持つことが重要です。これにより、自分自身の成長につながり、より広い視野を持つことができるでしょう。
鬼に金棒
【意味】
ただえさえ強い人が、何かを得たり、良い条件が加わったりして、さらに強さを増すこと。
「鬼に金棒」ということわざは、もともと強い者がさらに強力な手段や支援を得て、無敵の状態になることを表します。この表現を使う際は、何か強力な要素が加わることで、その人や物が他の誰にも負けないほど強くなる様子をイメージします。
例えば、すでに学業成績が優秀な生徒が、さらに質の高い指導を受けることが「鬼に金棒」の状態と言えます。このように、強い者がさらに強くなることを強調して、その組み合わせの強さや相乗効果を表現するのに使われます。
また、この言葉は、何かがその人や物にぴったり合っていて、それによってその人や物がさらに価値を増すような場合にも使います。たとえば、すでに魅力的な人が洗練されたファッションを身につけた場合も、「鬼に金棒」と表現することができます。
「ことわざを知る辞典」によると、古くは「鬼に鉄撮棒」の形でも使われていましたが、江戸時代にはほぼ「鬼に金棒」の形式になったとされています。
帯に短し襷に長し
【意味】
どちらつかずで、中途半端で、何の役にも立たないたとえ。
「帯に短し襷に長し」ということわざは、どんな状況にもぴったり合わない、中途半端なものを表現するときに使われます。このことわざを理解するには、まず「帯」と「襷」の意味を知ることが大切です。
帯(おび)は、着物を着るときに腰に巻く長い布のことを言います。一方、襷(たすき)は、肩から斜めにかける紐で、物を持つときや作業をするときに袖が邪魔にならないように留めるために使います。ことわざでは、布の長さが「帯」には短すぎて使えず、「襷」には長すぎて使いづらいという例を出しています。つまり、その布はどちらの用途にも適していないわけです。
このことわざは、物事や人材などが、求めている条件にちょうど良いものが見つからず、どの役割にもぴったり合わない時に使われます。たとえば、ある仕事に必要なスキルを持つ人がいなかったり、問題を解決するのにちょうど良い方法が見つからなかったりする状況です。
このように、「帯に短し襷に長し」は、なかなかうまくいかない状況や中途半端なものをうまく表す言葉として覚えておくと、さまざまな場面で使えることわざです。
溺れる者は藁をもつかむ
【意味】
とても苦しんだり、困っていたりする人は、どんなに頼りないものにもすがりつき、救いを求めることのたとえ。
「溺れる者は藁をもつかむ」ということわざは、非常に困った状況にある人が、どんな小さな助けでも求めようとする様子を表しています。
例えば、水に溺れている人が、もし周りに何もなければ、たとえ浮くかどうかもわからない小さな藁(わら)が流れてきても、それにすがろうとするほどです。
このことわざは、本当に困っているときには、普段では考えもしないような、頼りがいのないものにも期待をかけてしまう心理を表しています。
「ことわざを知る辞典」によると、明治10年には、このことわざが「水に溺れんとするときは蘆の葉にもすがらんとす」という形で訳されました。明治30年代に入ると、徳富蘆花をはじめとする新聞小説で頻繁に使われるようになり、徐々に現在の形で日本に定着したとされています。
思い立ったが吉日
【意味】
なにかをしようと思いついたら、すぐに実行したほうがいいというたとえ。
「思い立ったが吉日」ということわざは、「何かを始めるのに最適な日は、それを思い立ったその日である」という意味です。この言葉は、行動を先延ばしにしないで、思いついたらすぐに行動に移すべきだと助言しています。
例えば、新しい趣味を始めたいと思ったときや、勉強を始める決意をしたときに、それをすぐに実行に移すことが勧められています。このことわざは、迷ったりためらったりするよりも、行動を起こすことで新たなチャンスをつかめるという考えを示しています。
仕事や勉強など、新しいことに挑戦する際の心構えとして参考になる言葉です。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざの背景には、古い時代の日本で行われていた風習があります。昔の人々は、陰陽道という考え方に基づいた暦を使って、日々の吉凶を判断していました。つまり、何か重要なことを行う際には、暦を参考にして縁起の良い日を選び、不吉な日は避けていたのです。しかし、このように吉凶を選びながら日を選んでいると、実際に行動を起こす機会を逃してしまうことがよくありました。時には、その間に状況が変わってしまったり、最初の意欲が薄れてしまったりすることもあったのです。
そうした背景から、「思い立ったが吉日」ということわざは生まれました。
この表現は、16世紀中期の謡曲「唐船」に登場しており、戦国時代から使われていることがわかります。
このように、「思い立ったが吉日」はただ単に行動を促すことわざではなく、長い歴史を通じて日本人の行動観に影響を与えてきた深い意味を持つ言葉です。それは、最適なタイミングを見計らうことも大切ですが、何よりも重要なのは行動を起こすことだと教えています。
親の心子知らず
【意味】
子供は親の気持ちをちっとも理解せず、勝手な振る舞いをすること。また、実際に親になってみなければ、親の気持ちというものは理解できないという意味。
「親の心子知らず」ということわざは、親が子供のために抱いている愛情や、子供の幸せを願って負っている苦労が、子供にはなかなか理解されないという意味を持っています。
この言葉は、親がどれだけ子供のことを思っていても、子供はその深い愛情や親が経験する困難を完全には感じ取ることができない、という状況を表しています。
たとえば、親は子供が健康で安全に育つようにと、仕事で忙しい中でも時間を作り、子供の世話をしたり、学費を稼ぐために一生懸命働いたりします。しかし、子供はまだ経験が浅く、世界を十分に理解していないため、親のそうした努力や心配をなかなか理解することができないのです。
このことわざは、子供が成長して大人になり、自分自身が親になることで初めて、自分の親がどれだけ自分のために尽くしてくれたかを実感することが多い、ということを表しています。だからこそ、この言葉は子供たちに対して、親の愛や努力を当たり前だと思わずに、感謝の気持ちを持つことの大切さを教えるために使われることがあります。
また、「親の心子知らず」は、親子の間柄だけでなく、師弟など親子に似た間柄についても使います。
「か行」のことわざ意味・解説付き
蛙の子は蛙
【意味】
子どもは、幼い頃は親と異なる特徴を持ったり、親の職業に関心がないこともあるが、最終的には親に似る傾向があったり、親が歩んだ道を選ぶことがよくある。
「蛙の子は蛙」ということわざは、日本の古くからある言葉で、「子どもは親に似る」という意味があります。
このことわざは、親がどんなに愛情を注いでも、子どもが親の期待通りにならないことや、自分の道を歩むことを示しているように聞こえますが、実際は「親の特徴や性質は遺伝する」ということを表しています。
もともと、カエルの子どもであるオタマジャクシは、親とは全く異なる姿をしていますが、成長するにつれてカエルの形になっていきます。この変化は、親とは異なって見える子どもも、やがては親に似た大人に成長するという自然の法則を象徴しているのです。このため、このことわざは、子どもがどのように成長しようと、根本的なところでは親に似るということを巧みに表現しています。
「ことわざを知る辞典」によると、歴史的には、「蛙の子は蛙」には「平凡である」や「特別な才能がない」といった否定的な意味も含まれていました。このため、他人の子どもに対してこの言葉を使うときは、あまり良い印象を与えないこともありました。しかし、現代ではそうした否定的なニュアンスは薄れ、子どもが親と同じような道を選ぶことを肯定的に評価する文脈で使われることも多くなっているようです。
結局のところ、「蛙の子は蛙」ということわざは、子どもが成長する過程で親の影響を受けるという自然な現象を、親子のつながりや似ていく過程を通じて表現している言葉なのです。親がどのような人物であれ、その影響は子どもにとって大きなものとなり、多くの場合、親の特性や性格が子どもに引き継がれることを意味しています。
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壁に耳あり
【意味】
内緒話をするときは、どこでだれが見たり聞いたりしているかわからないので、気をつけた方がよいという教え。
「壁に耳あり」ということわざは、文字通りに解釈すると「壁にも耳がある」という意味ですが、その本質的な意味は、人がいないように見える場所でも、秘密の話や個人的な情報が他人に聞かれる可能性があるという警告です。
この表現は、どんな状況でも周囲に注意し、プライベートな会話や情報を漏らさないようにしましょうと促すために使われます。特に、人がいないと思っていても、予期せぬところから監視されたり、盗聴されたりするかもしれないので、慎重に行動することが求められます。
この言葉は、秘密を守ることの重要性や、プライバシーを守るための警戒心を持つことの大切さを教えてくれます。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸後期には「障子に目あり」のほか、「徳利に口あり」などと続けることもありました。しかし、今日では、「徳利」のユーモアが忘れられ、「障子」も日常生活では珍しくなって、しだいに耳にしなくなっているようです。
亀の甲より年の功
「亀の甲より年の功」とは、年長者が長年の経験を積んでいるために、若者が持つ知識や技能を超える、特別な知恵や能力を持っていることを称賛することわざです。
年長者が多くの年月を通じて得た知恵や技能、経験は、若者が持ち得ない貴重なものであり、この長い時間にわたって培われた能力や見識は尊重されるべきだという考えを表しています。年齢を重ねることでのみ得られる洞察力や冷静さ、人生のさまざまな局面での対応力などが、このことわざを通じて評価されるのです。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざは江戸時代中期から使われており、「亀の甲」は、「功」と語呂を合わせるために引き合いに出されたもので、特に意味はないが、語呂を合わせることと軽いユーモアが添えられ、場がなごみ、耳に残る表現になっているとされています。
可愛い子には旅をさせよ
【意味】
親は、子どもを手元においてあまやかさずに、世間に出して苦労をさせたほうがよいということ。
「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、愛する子どもには厳しくすることが大切だという意味が込められています。
「可愛い子には旅をさせよ」とありますが、これは文字通りに「子どもを旅行させる」という意味ではありません。むしろ、子どもが自分で困難に立ち向かい、乗り越えることで成長する機会を与えるべきだと教えています。
例えば、親がいつも子どもの面倒を見てしまうと、子どもは自分で考えたり行動したりする力を育てることができません。しかし、子どもにある程度の自由と責任を持たせることで、自立心や解決能力を養うことができるのです。
このことわざは、親が子どもを甘やかすことなく、時には厳しい愛をもって育てることの大切さを伝えています。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥
【意味】
自分の知らないことはそのままにせず、積極的に聞いたほうが良いという意味。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざは、もし何かわからないことがあったら、その時に質問をするのは少し恥ずかしいかもしれないけれど、質問しないでずっと知らないでいる方がもっと恥ずかしい、という意味です。
この言葉は、知識や情報を得るためには、恥ずかしさを乗り越えてでも積極的に質問することが大切だと教えています。
例えば、学校で授業中に先生が説明している内容がよくわからなかったとしましょう。その時に質問するのはちょっと恥ずかしいかもしれません。でも、そのまま質問せずにいると、その後の勉強にも影響して、もっと困ることになるかもしれません。だから、その場でちょっと恥ずかしい思いをしてでも質問することが、長い目で見ると自分のためになるということです。
このことわざは、何事も知りたいと思ったら勇気を出して聞くべきだと教えてくれています。知らないことは恥ではなく、知ろうとしないことが本当の恥だということです。
「ことわざを知る辞典」によると、古くは、「聞くは」ではなく、「問うは」の形が一般的でした。異形が多く、「一時」は「当座」「一旦」、「一生」は「末代」「万台」「一期」などともいうとされています。
腐っても鯛
【意味】
本来価値のある人や物は、時間が経ったり条件が変わったりしても、それなりの値打ちがあるものだというたとえ。
「腐っても鯛」ということわざは、元々高い価値を持つものや立派なものが、たとえ状態が悪くなったりしても、その本質的な価値や品格を失わないという意味を表しています。
この表現は、直訳すると「腐ってもまだ鯛」という意味になりますが、これは鯛が日本で非常に価値がある魚とされていることに由来します。つまり、高級魚である鯛であれば、腐ってしまっても、その元の価値がある程度認められるということを象徴的に示しています。
このことわざは、人に対しても使われることがあります。例えば、かつては成功していたが現在はそうではない人物や、状況が悪化したにもかかわらず、その人の能力や経験、内面的な価値は変わらないことを表現するのに用いられます。
このように、「腐っても鯛」は、外的条件によって価値が揺らぐことのない本質的な価値を称賛する表現として使われるのです。
苦しいときの神頼み
【意味】
普段は信仰心をもたないものが、病気や災難などにあって苦しいときにだけ、神に祈ってあてにすること。
「苦しいときの神頼み」ということわざは、普段から神様や仏様とは疎遠であるにも関わらず、困難や危機的な状況に直面したときに初めて神様や仏様に助けを求める人々の行動を表しています。
具体的には、例えば、日常生活で特に宗教的な行動を取らない人が、大きな試験や重要な面接の前に突然神社やお寺にお参りするような状況がこれにあたります。
このことわざは、単に宗教的な行為に限らず、広い意味で用いられることがあります。例えば、普段はあまり連絡を取らない友人や知人、または仕事上の関係であまり親しくない人に対して、自分が困った時だけ急に接触して助けを求める行動を指して使うこともあります。
これは、いざという時のみ便利な存在として他人を頼る、という人間の自己中心的な側面を浮き彫りにする表現です。
「ことわざを知る辞典」によると、安土桃山時代から「せつない時の神頼み」の形でよく使われた古いことわざで、「苦しい時」は、「せつない時」のほか「かなわぬ時」「ずつ(術)ない時」などともいわれるようです。
怪我の功名
【意味】失敗したと思ったことや何気なくやったことが、思いがけずにいい結果を生むこと。
「怪我の功名」ということわざは、本来の意図とは異なる方法や失敗、間違いから意外な良い結果が生まれることを表します。
この表現でいう「怪我」は、普通に使われる「けが」や身体的な負傷を意味するものではなく、誤りや失敗、計画とは異なる行動の結果としての「しくじり」を指しています。
例えば、何か新しいことに挑戦した際に、思いがけず間違った方法をとってしまったとします。しかし、その間違いが原因で、予想外にもっと良い結果や発見につながることがあります。そうした時に「怪我の功名」という言葉が使われるのです。
このことわざは、失敗やミスが必ずしも悪い結果に終わるわけではなく、時にはその過ちが新たな成功を生み出す可能性を秘めていることを教えてくれます。新しいことに挑戦する時には、失敗を恐れずに、どんな結果も学びの一部として受け入れる良い機会と考えることができるでしょう。
後悔先に立たず
【意味】
すでにしてしまったことを、後から悔やんでもどうにもならないということ。また、取り返しがつかないので、最初からよく考えて行動しようというときにも使う。
「後悔先に立たず」ということわざは、「後で後悔しても始まらない」とか「事が起こった後で悔やんでも時すでに遅し」という意味を持っています。
この言葉は、何かを行動する前に十分に考え、計画を立てることの重要性を教えてくれます。
例えば、テスト勉強をサボって悪い点数を取ってしまった場合、テストが終わった後で「もっと勉強しておけばよかった」と後悔しても、そのテストの点数を変えることはできません。
つまり、何かをする前にしっかりと考え、準備することが、後悔を避けるためには非常に大切だという教訓が込められています。
このことわざを念頭に置くことで、私たちは日常生活の中でより賢明な選択をするようになり、失敗や後悔のリスクを減らすことができるでしょう。
弘法にも筆の誤り
【意味】
どんな名人でも、まちがえることがあるということ。
「弘法にも筆の誤り」ということわざは、たとえどんなに技術が高い人でも、完璧ではなくミスをすることがあるという意味です。
弘法大師(空海)は、非常に才能のある僧侶であり、書道の名人でしたが、そんな弘法大師でも時には書き誤ることがあったとされています。
このことわざを使うことで、誰でも間違いを犯すことが自然だと受け入れやすくなります。特に専門家や達人であっても失敗をすることがあり、それが人間である証でもあります。
人間だれしも、仕事や勉強、普段の生活の中でミスをしてしまうかもしれませんが、それが成長の一部であると理解することが大切です。自分だけが間違いをしているわけではなく、誰にでも起こり得ることなので、失敗を恐れずにチャレンジを続けることが重要です。
転ばぬ先の杖
「転ばぬ先の杖」という言葉は、事前に準備や対策をしておくことで、将来起こりうる問題や困難を防ぐためのことわざです。
この表現は、文字通りには「転ばないように前もって杖を用意しておく」という意味ですが、実際にはさまざまな状況で使われます。
例えば、試験の前にしっかりと勉強しておくこと、旅行の前にしっかりと計画を立てておくこと、重要なプレゼンテーションの前に内容を何度も確認しておくことなどが、このことわざに該当します。これらの行動はすべて、未来における不確実性やリスクを最小限に抑えるために行われるものです。
学生にとっても、この言葉は非常に役立つ考え方です。例えば、将来の進路を決める際には、事前に多くの情報を集めたり、体験入学に参加してみたりすることが「転ばぬ先の杖」となります。このように、何事も前もって準備をしておくことで、より良い結果を得ることができるようになります。
紺屋の白袴
【意味】
商売に忙しくて、自分のすることをする暇のないこと。
「紺屋の白袴」という言葉は、他人のために忙しく働きながら、自分自身のことはおろそかにしてしまう状況を表します。
この表現は、江戸時代に繁盛していた紺屋(藍染め業者)が、他人の衣服は染めることに忙しく、自分の袴(はかま)を染める時間がないためにいつも白い袴を着ている様子から生まれました。紺屋は他人の衣類を美しく染め上げることには熱心ですが、自分の袴は白いままで、これが自分のことを顧みない状況を象徴しています。
このことわざは、職人が他人のためには熱心に働く一方で、自分の事は後回しにするという職人気質を風刺的に示しているとも考えられます。紺と白という色の対比が印象的で、その視覚的なインパクトからも広く覚えられ、使われています。
また、染料を扱いながらも自分の袴を汚さない技術の高さを示すという解釈もあるものの、この説は広くは受け入れられていません。
「さ行」のことわざ意味・解説付き
猿も木から落ちる
【意味】
どんな名人でも、たまには失敗をすることがあるということ。
「猿も木から落ちる」ということわざは、直訳すると「猿でさえ木から落ちる」という意味です。この言葉は、猿が木登りが得意であるにも関わらず、時には木から落ちることがあるという事実に基づいています。
これを人間に当てはめると、どんなに技術や知識がある人でも、時には失敗することがあるという教訓を伝えています。たとえば、スポーツの世界でトップクラスの選手がミスをしたり、学問の分野で一流の学者が間違いを犯したりすることがあります。
このことわざは、失敗を恐れずに挑戦することの大切さを教えるためにも使われます。完璧を求めるあまり行動を起こさないよりも、挑戦して失敗から学ぶことが重要だというメッセージが込められています。
人間だれしも、仕事や勉強、人間関係などで時にはうまくいかないことがありますが、それでも前に進む勇気と経験を積むことが成長につながるということを理解するのに役立つ言葉です。
三人寄れば文殊の知恵
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざは、ひとりひとりは普通の能力しかない人たちでも、三人集まって協力し合えば、普段思いつかないような素晴らしいアイデアや解決策が出てくるという意味です。
このことわざに出てくる「文殊」とは、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のことで、知恵と学問の神とされています。つまり、文殊菩薩のような聖なる知恵に匹敵するほどのアイデアが、人々が集まって話し合うことで生まれるということをたとえています。
一人だけでは見つけられなかった視点や知識が、他の人々との議論を通じて得られることを教えています。
例えば、会社や学校などでの会議や話し合いでは、この「三人寄れば文殊の知恵」の精神がとても重要になります。みんなで知恵を出し合うことで、より良いアイデアが形になるのです。それは、新しい視点や異なる意見を受け入れ、それを自分の知識や経験と結びつけることによって、全体としてより優れた成果を生み出すことができるからです。
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざを通じて、協力の大切さや他人の意見を尊重することの重要性を学び、日常生活や学びの場で活かしていくことが期待されます。
親しき仲にも礼儀あり
【意味】
とても親しく仲の良い関係であっても、礼儀は守るべきであり大切なことであるというたとえ。なれなれしくなると、それが喧嘩のもとになるので、親しいからとあまえてはいけない。
「親しき仲にも礼儀あり」ということわざは、どんなに親しい関係であっても、礼儀やマナーを忘れてはならないという教えを含んでいます。親友や家族のような、とても親しい間柄でも、相手を尊重し、礼儀正しくふるまうことが大切です。この教えは、人間関係を長く良好に保つための重要な要素です。
たとえば、親しい友人同士でも、相手の家に遊びに行く時は事前に連絡を取る、借りたものは返す、秘密を守るなど、基本的な礼儀を守るべきです。これによって、お互いの信頼関係を保ち、尊重し合うことができます。
このことわざは、親しさが深まるほどに、時に礼儀を怠りがちになることを警告しています。親しいからといって相手をないがしろに扱ったり、無礼な行動を取ったりすることは避けるべきです。親しき仲だからこそ、礼儀をもって接することが、その関係をより豊かで持続可能なものにする鍵となります。
釈迦に説法
【意味】
その道を知り尽くしている相手に、不必要なことを教えることのたとえ。
「釈迦に説法」という言葉は、簡単に言えば「経験や知識が少ない人が、その分野の専門家や達人に向かって教えを説く」という意味のことわざです。
この表現は、仏教の開祖である釈迦に対して説法するような場面を想像することから、どれだけ場違いで無意味な行為かが伝わるでしょう。釈迦は仏教の教えを説いた最も尊敬される人物であり、釈迦に何かを教えるなどというのは明らかにその場のバランスがおかしいことを意味します。
この表現は、特に若い人たちが年配者や専門家に対して無遠慮に意見を言う場面などで使われることがあります。また、自分の知識や理解が相手よりも劣るにも関わらず、教えようとすることの虚しさや不適切さを戒める意味合いも含まれています。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざは、相手が専門家と知らなかったり失念していたときに、失礼を詫びる場面や、知っていながら自説を述べるときに一言ことわっておく場面で、多く使われているようです。
朱に交われば赤くなる
【意味】
交際する人間や置かれた環境で、人は良くも悪くもなるということ。
「朱に交われば赤くなる」ということわざは、人が自分の周りの人々の影響を受けやすいことを表しています。
このことわざの直訳をすると、「朱色に触れれば赤くなる」という意味ですが、ここでの「朱」とは鮮やかな赤色を指し、「赤くなる」とはその色に染まることを意味しています。
つまり、この言葉は、私たちがどんな人たちと交流するかによって、その人たちの影響を受けて性格や行動が変わってくることを教えています。
例えば、勉強やスポーツが得意な友達とよく時間を過ごすことで、自分もその分野に興味を持ったり、努力するようになることがあります。逆に、ルールを守らない人たちと一緒にいると、自分もルールを破ることが普通だと感じるようになるかもしれません。
これは、みなさんが友人を選ぶときに、どんな影響を受けるかを考える良い機会になるでしょう。
知らぬが仏
【意味】
知れば腹も立ち、悩んだりもするけれど、知らなければ仏のように心を動かされずに穏やかでいられるということ。
例えば、何か問題が起きている時に、その事実を知らない人は、何も気にせず普通に生活を送ることができます。一方で、事実を知ってしまった人は、その問題について考えたり、悩んだりすることになります。この言葉には少し皮肉なニュアンスも含まれていて、知らないことが必ずしも良いとは限らないが、知らないことで心の平和を保てる場合もあるということを示しています。しかし、重要なことは、時と場合によっては真実を知ることが必要であり、その情報をもとに適切な判断を下すことが大切だという点です。
好きこそ物の上手なれ
【意味】
好きなことは一生懸命取り組み、工夫したり勉強したりするのでおのずと上達するというたとえ。好きであることが、上手になるためのよい条件になるというたとえ。
「好きこそ物の上手なれ」ということわざは、何かを熱心に好むことがその活動や技術を上達させる最も重要な要因であるという意味を持っています。
つまり、何かを学んだり、技術を習得したりする際には、単に練習するだけではなく、その活動を心から楽しむことが重要です。本当に好きなことであれば、困難や挫折に直面しても、それを乗り越えるためのモチベーションが自然と湧いてきます。
このことわざは、単純に練習の量や質を重視するのではなく、個人の情熱や興味がどれだけ影響を与えるかを強調しています。
例えば、音楽やスポーツなど、初めは技術が未熟でも、その活動を本当に楽しんでいれば、時間を忘れて没頭できるため、自然と上達していくことができます。また、好きなことに打ち込むことは、新しいアイデアや創造的な解決策を見つけるきっかけにもなります。
皆さんが将来何かを選ぶ時には、「何が得意か」だけでなく、「何が好きか」を考えることが、長期的に見て成功への鍵となるでしょう。
このことわざは、自分の興味や情熱を大切にし、それに基づいて努力を続けることの価値を教えてくれます。好きなことには自然と時間を費やし、楽しみながら技術を磨くことができるので、結果的にその分野での達人になる可能性が高まるのです。
文法的には、強意の係助詞「こそ」を受け、「なり」の已然形「なれ」で結んでいます。
「ことわざを知る辞典」によると、古典文法でおなじみの「係り結び」が、現代に生きて使われている珍しい例とされています。
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過ぎたるは及ばざるが如し
【意味】
物事をやりすぎることは、足りないことと同じようによくない。過不足なく、ほどほどがちょうどいいというたとえ。
「過ぎたるは及ばざるが如し」ということわざは、「やり過ぎることは、やらないことと同じくらい良くない」という意味です。この言葉は、何事も適度が大切であると教えています。
例えば、仕事や勉強においても、休息やリラックスの時間をすっかり忘れてしまい、頑張りすぎるのは、健康を害したり、逆に効率が下がることがあるため、良くない結果を招くことがあります。
また、人間関係においても、相手に対して過剰に気を使いすぎると、かえって関係がギクシャクすることがあります。自然体でいることが、お互いにとって心地よい関係を築く上で重要です。
このことわざは、バランスが大事であるという普遍的な真理を示しています。何事も極端に走るのではなく、中庸を保つことが、最終的には自分自身のためにも、周囲の人たちのためにも最善の結果をもたらすという考え方です。
雀百まで踊り忘れず
【意味】
子供のときに覚えた習慣やくせは、年を取っても直らないということ。
「雀百まで踊り忘れず」ということわざは、人が若いころに身につけた習慣や技能は、年を取っても忘れることがないという意味を持っています。
この言葉の中の「雀」は小鳥のスズメを指し、「百まで」とは非常に長い期間、つまりスズメが生きることができる限りの年月を表しています。そして、「踊り忘れず」という部分は、スズメが生涯を通じて活発に飛び跳ねる習性を持ち続ける様子を、人間の習慣や技能に例えています。
このことわざは、人間が一度しっかりと学び身につけたことは、老いても変わらずに保持し続けることができるという教訓を含んでいます。例えば、ピアノを弾くこと、言語の使用、あるいはスポーツなど、若い時に習得した技術は、長い時間が経過しても、その技術を忘れることはないとされています。
それが良い習慣であれば、一生の財産となりますが、逆に悪い習慣であれば長い間苦労することにもなり得るので、日々の行動を見直す良いきっかけにもなります。
「ことわざを知る辞典」によると、「踊り」の連想から、かつては道楽者や浮気者に対して使われることが多かったみたいですが、近現代の用例は若いときに身についた習性全般について使われています。
背に腹はかえられぬ
【意味】
さし迫った苦痛を回避するためには、ほかのことを犠牲にしてもしかたない。不本意でも、大きなことをするためには、小さな犠牲には構っていられないというたとえ。
「背に腹はかえられぬ」ということわざは、とても困難な状況に直面したときに、最も大切なものを守るために、他の重要でないものを犠牲にすることがやむを得ないという意味を持っています。
この表現は、文字通りには「背中とお腹は交換できない」という意味ですが、実際には「どちらか一方を選ばなければならない状況で、より重要な方を守るためには、他方を犠牲にすることも仕方がない」と解釈されます。
例えば、経済的に困難な時に、食費や家賃などの必要不可欠な支出のために、趣味や娯楽の費用を削ることが考えられます。これは不本意かもしれませんが、生活を維持するためには避けられない選択となります。
このことわざは、特に選択肢が限られている状況で、何を優先すべきかを判断する際の指針として使われることがあります。
地震雷火事親父
【意味】
世の中でおろそしいとされるものを、順番に並べた言葉。
「地震雷火事親父」という言葉は、日本で江戸時代から使われている表現で、世の中で最も怖いとされるものを挙げたものです。
この言葉では、地震、雷、火事、そして親父(お父さん)が並んでいます。これは自然災害の地震、雷、火事がとても恐ろしいものとして認識されていることを示していますが、それに匹敵するほど怖い存在として親父が加えられています。
もともとこの表現は、お父さんが家庭内で持つ厳格で怖い存在としてのイメージを強調するために使われています。特に昔の日本では、家長であるお父さんが家族に対して厳しい態度を取ることが多く、その厳しさが他の恐ろしいものと同じくらい、あるいはそれ以上に恐れられていたことからこのような表現が生まれました。
ただし、この言葉が使われる現代では、そのような家庭の形態や親の役割が多様化しており、必ずしもお父さんが怖い存在であるとは限りません。この表現を使う際には、その背景や文化的な意味も理解しておくことが大切です。
「ことわざを知る辞典」によると、この表現が収録されている最も古い文献は「尾張童心遊集」(1831)なので、江戸後期に名古屋近辺の子どもたちが声をそろえて口ずさんでいたことになり、口調がよいのも納得できるということです。
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船頭多くして船山へ上る
【意味】
指図する人が多すぎると、方針が統一できずに、物事がうまく運ばないこと。
「船頭多くして船山へ上る」ということわざは、指示を出す人が多すぎると、結局は混乱を招き、まったく意図しないような悪い結果に終わってしまうという意味です。
この表現は、船の船頭が多すぎると、それぞれが異なる方向を指示するため、船は正しい航路を進むことができず、最終的には山に登ってしまうという不条理な結果につながるという比喩を用いています。山に登ることは船にとって全く不適切であり、これは明らかに船としての機能を果たせていないことを意味しています。
このことわざは、チームや組織での作業やプロジェクトにおいて、リーダーや意思決定者が多すぎると、その方向性がぶれやすくなり、結果的にプロジェクト自体が失敗に終わるリスクがあることを教えています。それぞれの船頭が自分の考えを主張し合うことで、統一された行動がとれず、混乱が生じるのです。
したがって、効率的かつ効果的に物事を進めるためには、適切な数のリーダーシップと明確な指示が重要であるという教訓を含んでいます。
「ことわざを知る辞典」によると、この「船頭」は、渡し舟のような小舟を操る人ではなく、多くの船員が乗り組む和船の船長をさしています。また、このことわざは16世紀の用例が残されており、小異形が多く、「多くして」は「多うて」「多くて」、「上る」は「着く」などともいったようです。
善は急げ
【意味】
よいことを思いついたら、すぐにやろうということ。
「善は急げ」ということわざは、「良いことを思いついたら、すぐに行動に移すべきだ」という意味を持っています。
これは、良い行いや正しい決断は、迷ったりためらったりせずに、早く実行することが大切だと教えてくれます。例えば、誰かが困っているのを見たときには、助けを提供することが善行ですが、その行動をすぐにとることが推奨されています。
一方で、「悪は延べよ」と続けることもよくあります。これは、悪い行いや誤った決断については、すぐに実行せずに時間をかけてよく考えるべきだとアドバイスしています。つまり、悪いことをするときは急がず、もっと考える時間を持つことで、その行動を避けることができるかもしれないということです。
千里の道も一歩から
【意味】
どんなに大きな事業でも、まずは手近なことの実行から始まるということ。何事も一歩一歩着実に進めることが大切だということ。
「千里の道も一歩から」ということわざは、どんなに大きな目標や困難な課題でも、最初の小さな一歩から始めることが重要であると教えています。この言葉は、目の前の壮大な目標に圧倒されがちな私たちに、まずは手の届く小さなことから始めてみることの大切さを伝えています。
たとえば、大学進学、スポーツの大会での勝利、または難しい試験に合格するといった大きな目標を持っている場合、それを達成するための道のりは遠く感じるかもしれません。しかし、「千里の道も一歩から」という言葉は、その遠い目標に向かって最初に踏み出す小さな一歩の価値を強調しています。
最初に教科書を開く、ランニングシューズを履いて一歩を踏み出す、これらすべてが成功への道のりの始まりなのです。
このことわざは、長い旅や大きな目標への取り組みにおいて、一歩一歩を着実に進むことの重要性を思い出させてくれます。急がず、しかし確実に進むことで、いつかは大きな成果につながるという希望を持たせてくれるのです。
損して得取れ
【意味】
目の前のちょっとした損をしても、あとでそれをもとにして大きな利益をとるようにしたほうがいいというたとえ。
「損して得取れ」という言葉は、短期的には損をしても、長期的に見ればそれが大きな利益につながるという考え方を表しています。
このことわざは、目の前の小さな損失に囚われず、将来の大きな成功や利益を目指すべきだと教えています。
例えば、ビジネスで初期投資が大きくて損のように思えることがあっても、その投資が将来的に大きなリターンを生むことがあるのです。また、人間関係でも、短期的には自分が譲歩することで損をするように感じるかもしれませんが、それによって信頼関係を築き、長い目で見たときにより良い関係が築けることもあります。
この言葉は、我慢や忍耐が必要な場面で特に役立つ考え方で、目先の損失を超えて大きな目標を達成するための戦略として重要です。
「た行」のことわざ意味・解説付き
立つ鳥跡を濁さず
【意味】
自分のいた場所を立ち去るときは、きちんと後始末をしていきなさいという教え。また、退き際はいさぎよくあるべきである。
「立つ鳥跡を濁さず」ということわざは、文字通りには「鳥が飛び立った後でも水が濁らない」という意味ですが、これには特別な教えが込められています。
この言葉は、誰かがある場所から去る時、その人がその場所をきれいな状態にしてから去るべきだと教えています。つまり、自分がいた場所を美しく保ち、問題やトラブルを残さないようにするということです。
たとえば、学校を卒業するときや会社を辞めるとき、自分が使っていた机や部屋をきれいに片付けるのも「立つ鳥跡を濁さず」の精神です。これは、後に続く人たちに良い印象を残すだけでなく、自分自身もすっきりとした気持ちで新しいスタートを切るために大切な行動です。
このことわざは、人としての責任やマナーを示すものであり、どんな状況でも周囲に配慮し、良い影響を残すことの大切さを教えてくれます。
棚から牡丹餅
【意味】
思いがけない幸運がめぐってくることのたとえ。または、大変な思いをしないでよいものを手に入れること。
「棚から牡丹餅」とは、自分が何の努力もしていないのに突然、思いがけない幸運が舞い込んでくることを意味しています。この表現の由来は、牡丹餅(ぼたもち)が誤って棚から落ちて、たまたま通りかかった人の前に転がってきたという話から来ています。
牡丹餅は、あんこを餅で包んだ和菓子で、非常に美味しいため、これが突然手に入るというのは、まさに予期せぬ幸運と言えます。
このことわざは、何か特別な努力をしなくても良いことが起こる場合に使われる言葉で、例えば、何もしていないのに景品が当たったり、探してもいなかった情報が偶然にも自分のもとにやって来たりするような状況を表す時に使います。このように、まるで天からの恵みのような幸運を指す表現として親しまれています。
旅は道連れ世は情け
【意味】
旅をするときは誰かと一緒だとお互いに助け合えるように、世の中をわたるのも、お互いに思いやりを持って助け合うことが大事だということ。
「旅は道連れ世は情け」ということわざは、人生や日常の困難は他人の助けや思いやりによって乗り越えやすくなるという教訓を含んでいます。このことわざは、二つの部分に分けられます。
まず、「旅は道連れ」という部分は、文字通りの旅行において、友人や仲間がいると心強く、また楽しいものになるという意味です。しかし、これをもっと広い意味で解釈すると、人生の旅路においても、仲間や友人がいることの大切さを示唆しています。仲間がいることで困難が分かち合え、支え合いながら前進できるからです。
次に、「世は情け」という部分は、この世の中は人と人との間にある思いやりによって成り立っていると教えています。人々が互いに助け合い、情けをかけ合うことで、社会全体がより住みやすいものになるという考え方です。
「旅は道連れ世は情け」から学べることは、単に友達と楽しい時間を過ごすことだけではなく、日々の生活の中で互いに支え合い、助け合うことの重要性です。学校生活、家庭、将来の職場など、あらゆる場面でこの精神を生かすことができます。互いに協力し合うことで、自分自身も成長し、他人の役にも立てるという価値を持つことが、このことわざには込められています。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸初期には、「旅は道連れ世は情け」の形でよく知られ、後期には「旅は道連れ」だけで江戸いろはかるたに収録され、子どもにも親しまれるようになったようです。
塵も積もれば山となる
【意味】
小さいことでも積み重ねれば大きなことになるということ。
「塵も積もれば山となる」ということわざは、非常に小さなものや僅かな行動でも、それが積み重なることによって、大きな結果や影響を生むことができるという意味を持っています。
ここで使われている「塵」という言葉は、文字通りのゴミやほこりを意味するのではなく、「微塵」と同じく、ごく小さなものをさしています。
このことわざは、日常生活や学業、スポーツなど様々な場面で応用することができます。例えば、勉強においても、毎日少しずつ時間を割いて学ぶことが、知識の蓄積という大きな山を築くことに繋がります。また、節約や投資の文脈でも、小さな金額からコツコツと貯め続けることが、将来的には大きな財産となる可能性を秘めています。
このたとえは、一見すると影響が小さいと感じるような努力や行動でも、軽視せず、継続することの重要性を教えてくれます。また、積極的に小さな一歩を踏み出すことの大切さを、若い人たちに特に伝えることができる教訓となります。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざの起源は、2〜3世紀ごろのインドの仏教哲学者竜樹が仏典に注釈を加えた「大智度論」に由来するようです。日本では、古くは「古今集」の序にほぼ同じ内容の記述が認められ、江戸時代には現在の形で常用されるようになりました。
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月とすっぽん
【意味】
二つのものを比べたら、あまりにちがっていることのたとえ。
「月とすっぽん」という表現は、二つのものが全く異なるレベルにあることを示す日本のことわざです。この表現では、月とすっぽん(すなわちカメ)という全く異なる存在を比較しています。
月は夜空に輝く大きな天体であり、一方のすっぽんは小さく地味な水生生物です。ここから、二つの対象が非常に異なる特性を持っており、その違いがあまりにも大きいため比較すること自体が意味をなさない、というニュアンスが込められています。
この表現は、特に能力や地位、価値などが異なる二者を比較する際に使われます。例えば、非常に経験豊富なプロのスポーツ選手とまだ初心者のアマチュアを比べるような状況で使うことができます。「月とすっぽん」と言うことで、その二者が「比べ物にならないほど差がある」と強調されるわけです。
また、このような表現は、相手に対する敬意を表したり、あるいは自虐的なユーモアとして使われることもあります。
日常生活でこの表現を使う場合、大げさに物事を表現したいときや、明らかに不釣り合いな比較をしている状況を楽しく表現する際に役立つでしょう。
鉄は熱いうちに打て
【意味】
鉄は熱して軟らかいうちに打って鍛えるように、人も純粋な気持ちを失わない若いうちに鍛練すべきである。また、物事を行うには、それに適切な時期を失してはいけない。
「鉄は熱いうちに打て」ということわざは、文字通りに解釈すると、鉄を加工する際は、鉄が熱いうちに叩いて形を作る必要があるという意味です。これは、鉄は熱いときに柔らかくなり、形を変えやすいものであるからです。
しかし、このことわざにはもっと広い意味があります。それは、「物事には適切なタイミングがあり、そのチャンスを逃さないように行動すべきだ」という教訓を含んでいます。
例えば、何か新しいことを始めたい時や、大切な決断をしなければならない時には、その「良い機会」を見極めて、タイミングが良い時に行動することが成功につながるとされています。特に若い時期に重要な経験や学び、チャレンジをしておくべきだとも言われています。若いうちに多くのことを経験しておくことで、将来に向けてより良い準備ができるということです。
このように、「鉄は熱いうちに打て」は、ただ単に物理的な作業の助言以上のものを教えてくれます。人生の中で「熱い」、つまり良い機会が訪れた時には、躊躇せずに積極的に行動を起こし、可能性を最大限に引き出すべきだというメッセージを伝えているのです。
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灯台下暗し
【意味】
自分のことや身近なことは、かえって気がつきにくいということ。
「灯台下暗し」ということわざは、直訳すると「灯台の下は暗い」という意味です。この表現は、かつて家庭で使用されていた菜種油などを燃料とする灯火をつける照明器具、つまり「灯台」の下が、灯りによって明るくなるはずなのに意外と暗いことから来ています。
これを比喩的に使って、専門家や詳しい人でも自分の身近なことや明白な事柄に対しては見落としたり、気づかないことがあるという意味で用いられます。
たとえば、世界的に有名な学者が自分の専門分野については深い知識を持っている一方で、日常生活の簡単なことには疎い、という状況を指すことができます。また、親が自分の子供の学校で何が起きているのかを知らない、といった身近な例もこれに該当します。
このことわざは、どんなに賢い人でも、全ての事柄において完璧ではないという人間の限界を表しているとも言えます。
遠くの親類より近くの他人
【意味】
離れた所に住む付き合いのない親戚より、近くに住む日頃から付き合いのある他人の方が頼りになる。
「遠くの親類より近くの他人」ということわざは、文字通りに理解すると、「遠くに住んでいる家族よりも、近くに住んでいる知らない人の方が頼りになる」という意味になります。これは、物理的な距離だけでなく、人との関係の深さや助け合いの重要性を表しています。
例えば、もし急に病気になったり、何か困ったことがあったときに、すぐに駆けつけてくれるのは、遠くに住んでいる親族よりも、近所に住んでいる人たちの方が可能性が高いです。日々の生活の中で顔を合わせている近所の人たちは、互いに助け合うことが多く、困った時にすぐに支援してくれることが多いです。
このことわざを通じて、私たちは家族だけでなく、地域社会や近所の人々と良好な関係を築くことの大切さを学びます。互いに支え合うことで、地域全体がより良いコミュニティになることを教えてくれるのです。
時は金なり
【意味】
時間は貴重で有効なものだから、大切に使うべきだということ。
「時は金なり」という言葉は、「時間は金と同じくらい価値のあるものだ」という意味を持っています。このことわざは、時間を大切に扱うべきだと教えています。
例えば、勉強や仕事、趣味や体験など、時間を有効に使うことで、それぞれの価値を生み出すことができます。金銭を無駄に使わないように気をつけるのと同じように、時間も無駄にしないことが重要です。
特に若者にとって、時間をいかに使うかは将来に大きな影響を与えるかもしれません。勉強時間を確保すること、部活や趣味の時間を大切にすること、友達や家族と過ごす時間を大切にすること、これら全てが将来の自分を形作る重要な要素です。
ですから、「時は金なり」という言葉を胸に、一日一日を大切に生きることが、将来への投資となるのです。
取らぬ狸の皮算用
【意味】
実際にまだ自分の物になっていない、手に入るかどうかもわからない不確かなものや利益に期待をかけて、計画を練る事。
「取らぬ狸の皮算用」ということわざは、まだ手に入れていないものや確実でない成果について、あたかもそれがすでに手に入ったかのように計画を立てたり、期待を膨らませることを戒める教訓が込められています。
例えば、まだ宝くじが当たっていないのに、宝くじが当たったと仮定して、お金をどう使うかを考えるような状況がこれに当たります。
このことわざに登場する「狸」は、昔から日本の民話や伝説に登場する狡猾な動物として知られています。その皮は商売の対象とされていましたが、実際に狸を捕まえる前に、その皮で得られる利益を計算するのは、非現実的であるとされています。つまり、何かを確実に手に入れる前に、その成果を前提に計画を進めることの危険性を示しています。
将来の夢を語る時や、何か大きな目標に挑戦する際には、このことわざを思い出して、現実的な計画を立て、一歩ずつ確実に前進することの重要性を忘れないようにすると良いでしょう。希望や計画は大切ですが、その実現のための現実的なステップを怠らないことが、成功への鍵となります。
「ことわざを知る辞典」によると、幕末の用例が見出せないので、「穴の絡を値段する」を西洋風に言い換えたものではないかとする説(新村出)もありました。しかし、明治前期のことわざ集「国民の品位」に口語形の「取らん狸の皮算用」が収録されていたことから、幕末以前に西日本で口承されていたことがほぼ確実となっているようです。
飛んで火に入る夏の虫
【意味】
自ら危険や災難に進んで、飛び込んでいく事。自らを滅ぼすような禍の中に、進んで身を投じる事。
「飛んで火に入る夏の虫」ということわざは、自分から積極的に危険な状況に飛び込んでしまう行動を批判的に表現したものです。
この表現は、夏の夜に光に引き寄せられた蛾が、知らず知らずのうちに火に飛び込んでしまい、命を落とす様子に例えられます。ここでの「火」とは、文字通りの火だけでなく、トラブルや危険を象徴しています。
このことわざは日常生活や将来の選択において、見かけにだまされず、その先にあるリスクをしっかりと考慮する重要性を教えてくれます。
例えば、一時的な楽しさや魅力だけで判断してしまうと、後で思わぬトラブルに巻き込まれることがあります。友達との誘いで無計画に行動することや、準備不足で挑む試験や競技など、考え抜かない決断が後に大きな失敗につながることもあるため、このことわざは慎重な判断を促す教訓として役立つでしょう。
「ことわざを知る辞典」によると、古くは、「愚人は夏の虫、飛んで火に入る」の形で、前半だけで使われることもあったようです。明治期以降、ほぼ現在の形で使われるようになりました。
「な行」のことわざ意味・解説付き
ない袖は振れない
【意味】
持っていないお金は、出してあげたくても出せないということ。
「ない袖は振れない」ということわざは、「袖がないのだから振ることができない」という意味ですが、これをたとえとして用いています。
具体的には、お金や財産がない場合には、それを使うことや提供することが不可能であるという状況を表しています。このことわざは、人が持っていないものは提供できないという現実を受け入れることの重要性を教えています。
たとえば、友達がお金の援助を求めてきたとき、もし自分自身が経済的に困っていて手持ちのお金がなければ、どうにかしてあげたい気持ちはあっても実際には援助をすることができません。このような状況で使われるのが「ない袖は振れない」という言葉です。これは、不可能なことを無理にしようとするのではなく、現実を直視し、できる範囲で行動することの大切さを教えてくれます。
泣きっ面に蜂
【意味】
悪い事が起きた中で、更に悪い事が重なっておこること。
「泣きっ面に蜂」ということわざは、一度に二重に悪いことが起こる状況を表しています。
例えば、すでに悲しいことがあって泣いているところに、さらに蜂に顔を刺されるような、追い打ちをかけるような状況を想像してみてください。本来泣いているだけでも十分辛いのに、それに加えてさらに痛みを感じることで、もっと大変なことになる、というわけです。
この言葉は、江戸時代の中期から使われ始め、やがて「江戸いろはかるた」というカルタにも収録されることで、広く日本中の人々に知られるようになりました。現代でも、何か悪いことが起こった上にさらに悪いことが重なるときに使うことが多いです。
無くて七癖
【意味】
人はだれでも、癖があるので、ないように見える人でも七つぐらいは、癖があるものだ。
「無くて七癖」ということわざは、どんな人でも表面上は気づかないかもしれないが、実はそれぞれが持つ多くの癖があるという意味です。
直訳すると、「ない人でも七つの癖がある」という意味になります。
このことわざは、人間誰しも完璧ではなく、何らかのクセや特徴を持っていると認識し、それを受け入れるべきだと教えています。
友達やクラスメートを見る時に、小さな欠点や個性を見つけたとしても、それが人間である証拠であり、誰もが何かしらの癖を持っていることを理解して、お互いを尊重する心が大切です。この考え方は、人間関係をよりスムーズにし、互いの違いを認め合うことで、より豊かな交流ができるようになります。
情けは人の為ならず
【意味】
人に親切にしておくと、それはめぐりめぐって、やがて自分のためになるのだから、人には親切にしなさいとの教え。
「情けは人の為ならず」ということわざは、直訳すると「情けは人のためではない」となります。この言葉は、他人に親切にする行為は、ただ相手を助けるためだけではなく、最終的には自分自身にも良いことが返ってくると教えています。
つまり、他人を助けることは、結局は自分自身のためにもなるという考え方を示しているのです。
例えば、誰かが困っているときに助けてあげると、その人は感謝しますし、あなた自身も人から感謝されたり、喜ばれたりすることで幸せな気持ちになれます。また、いつか自分が困ったときに、助けてくれる人が現れるかもしれません。このように、親切は循環して、いつかは自分にも良い影響をもたらすというわけです。
このことわざは、自分だけでなく他人にもやさしくすることの大切さを教えてくれます。それによって、周りの人々との良好な関係が築かれ、社会全体がより良くなることにもつながります。だから、「情けは人の為ならず」という言葉には、自分と他人両方の幸せを考える深い意味が込められているのです。
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七転び八起き
【意味】
度重なる失敗にも屈せず奮起することのたとえ。また、人生の浮き沈みがはなはだしいことのたとえ。
「七転び八起き」ということわざは、「何度失敗してもめげずに何度でも立ち上がること」を表しています。この言葉は、文字通りには「七回転んでも八回目には起き上がる」という意味ですが、その本質は「失敗を乗り越え、挑戦を続ける精神」を称えるものです。
人間だれしも、仕事や学業や、友人関係などで挫折や困難に直面することがあるかもしれません。そのような時、このことわざは、「失敗や困難から立ち直り、前向きに努力を続ける大切さ」を教えてくれます。
人生において挫折は避けられないものですが、それを乗り越えることで人は成長し、より強くなることができるのです。
「七転び八起き」は、ただ単に頑張ることを促すだけでなく、失敗を恐れずに挑戦し続ける勇気を持つことの重要性を教えてくれています。どんなに何度つまずいても、諦めずに再び立ち上がることが、最終的な成功への道を開く鍵となるのです。
七度たずねて人を疑え
【意味】
自分の物が見つからない時には、何度も良く探して、それでも見つからなかったら初めて人を疑いなさいといった意味。
「七度たずねて人を疑え」ということわざは、他人を疑う前にしっかりと事実を確認し、十分な理由があると確信するまで疑ってはいけないという意味が込められています。
このことわざにおいて「七度」という数字は、ただ単に多くの回数という意味で使われており、実際に七回と数える必要はありません。
大切なのは、何か問題が起こった時にすぐに他人を非難するのではなく、まずは自分でよく調べたり、状況を考えたりすることです。例えば、自分の物がなくなったときにすぐに誰かが盗んだと疑うのではなく、まずは自分でしっかりと探してみることが求められます。
他人を疑うことは、その人との関係を悪化させる原因にもなりかねないので、軽はずみに疑うことなく、きちんとした根拠が見つかった時のみ疑問を持つべきだと教えています。
このように、「七度たずねて人を疑え」とは、争いごとを避け信頼と理解を大切にする姿勢を促す教えと言えるでしょう。
習うより慣れよ
【意味】
物事は、人に教わるよりも自分で直接体験してゆく方が身につくということ。
「習うより慣れよ」という言葉は、何か新しい技術や技芸を学ぶ際に、単に理論や方法を人から教わるだけではなく、実際に自分で何度も練習を重ねることが非常に重要であるという意味を持っています。
つまり、教科書や先生からの指導を受けることも大切ですが、それだけでは十分ではないということです。本当にうまくなりたければ、実際に自分の手で試み、経験を積むことが必要です。
例えば、ピアノを学ぶ場合、先生から楽譜の読み方や指の置き方を教わることは初歩的なステップですが、上達するためには何時間も自分でピアノに触れ、曲を弾いてみることが不可欠です。間違えながらも繰り返し練習することで、徐々にスムーズに演奏できるようになり、音楽の感覚も身につけることができます。
このことわざは、学ぶ姿勢についても教えてくれます。新しいことに挑戦する際は、失敗を恐れずに多くの経験を積むことが、最終的に技術や知識を習得する上での最速の道であるというわけです。ですから、何かを学び始めたら、理論学習だけでなく、実践を積み重ねることで、その道のプロに近づいていくことができるのだと言えるでしょう。
二度あることは三度ある
【意味】
二度も同じようなことがあると、さらにもう一度続いておこる可能性が高くなる。物事は繰り返されることが多いので油断してはならないという意味。悪いことに使う。
「二度あることは三度ある」ということわざは、ある出来事が2回起こった場合、それが再び起こる可能性が高いという意味を持っています。このことわざは、人間の行動のパターンや自然現象、事故など様々な状況に適用されます。
例えば、ある学生が試験の前日に勉強をしないで失敗したとします。その後、同じ学生がまた試験の前日に勉強をせずに失敗した場合、このことわざは次の試験でも同じ行動をとる可能性が高いと警告しているのです。つまり、一度や二度の行動が繰り返されると、それが習慣になる可能性があると考えられます。
「二度あることは三度ある」ということわざを理解することで、私たちは過去の行動から学び、将来の失敗を防ぐために行動を改めるきっかけにすることができます。
二兎を追う者は一兎をも得ず
【意味】
よくばって二つのことをいっぺんにやろうとして、結局両方ともできなくなること。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざは、二つの目標を同時に追い求めると、最終的にはどちらも成功しない可能性が高いという教訓を表しています。これは、努力や注意を分散させると、どちらの目標にも集中できず、結果として何も成し遂げられなくなることを意味しています。
例えば、受験生が部活動と勉強を同時に頑張ろうとした場合、どちらも全力を尽くすのは難しいかもしれません。もし、部活にも勉強にも同じ時間とエネルギーを割くことができなければ、試験の成績が下がるか、部活でのパフォーマンスが落ちるかもしれません。そのため、一つの目標に集中し、それを達成した後で次の目標に移る方が実は効果的であるとするものです。
このことわざは、目標を設定する際には、一度に多くのことをしようとせず、ひとつひとつに集中することの大切さを教えてくれます。これによって、各目標に対して最大限の努力を注ぎ、成功の確率を高めることができるのです。
濡れ手で粟
【意味】
何の苦労もしないで、もうけること。
「濡れ手で粟」という言葉は、文字通りには「濡れた手で粟(あわ)をつかむ」という意味ですが、ことわざとして使われる際には、「何の努力もせずに、簡単に大きな利益を手に入れること」を表しています。
この表現は、たとえば水に濡れた手が何かをつかむと、粒などが手にくっつきやすい様子から来ています。つまり、予想以上に少ない努力で、思いがけず大きな成果を得られる状況を描写する際に用いられます。
このことわざは、日常生活やビジネスの世界など、さまざまな場面で使われることがあります。例えば、誰かが特に苦労をしないのに昇進したり、大きな遺産を突然相続したりした場合などに、「濡れ手で粟を得た」と表現することができるでしょう。
また、特に大きな努力をせずに利益を得たという意味合いを含んでいることから、周囲の人々にとっては、羨ましいといった感情や、不公平であると感じられることもあるでしょう。
猫に小判
【意味】
どれほど貴重なもの・高価なもの・価値のあるものでも、持ち主がそれを知らなければ何の値打ちもない。すばらしいものを見せても、効果や反応がない事を意味することもある。
「猫に小判」ということわざは、価値のあるものや高価なものを理解できない人に与えても、その価値が全く認識されないことを意味しています。文字通りには「猫に金の小判を与える」という意味ですが、猫にとって金の小判は何の価値もないため、それを喜ばないという事実から来ています。
例えば、美術品や高級ワインなど、特別な知識や興味がないと価値がわかりにくいものを、それについて何も知らない人に渡しても、彼らにはその真価を理解できませんし、感謝もされないかもしれません。これは、日常生活で適切な人に適切なものを提供する重要性を教えてくれる教訓とも言えるでしょう。
「猫に小判」ということわざを通じて、私たちは人とのコミュニケーションや物の価値についてより考えるきっかけを得ることができるのではないでしょうか。相手が何に価値があると感じるのかを理解し、それに基づいて行動することが大切だというメッセージが込められています。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸中期には、「猫に小判を見せたよう」と直喩の形式でしたが、「猫に小判」と簡潔な暗喩にすることで、ことわざらしい表現になったようです。後期には、上方のいろはかるたに採用され、さらにひろく知られるようになったとされています。
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寝耳に水
【意味】
思いがけない出来事が、突然起きてびっくりする様子。
「寝耳に水」ということわざは、非常に突然で予期しない出来事が起こり、それに対して驚く様子を表しています。
この表現の背景には、文字通り「寝ている耳に水がかかる」という状況を想像すると分かりやすいでしょう。普段、何も予期せず安心して寝ているところに、いきなり水をかけられたら、誰でもびっくりして飛び起きるはずです。
このように、日常生活で何の前触れもなく突然起こった出来事に直面したときの驚きや戸惑いを、この表現はうまく捉えています。
こういった理由から、このことわざは、特に理由も予兆もなく、突然に生じた状況について話す際に用いられることが多いです。例えば、突然の大きなトラブルに見舞われた場合や、予期しないニュースを聞いた時など、様々な場面で使われます。
また、この表現を用いることで、そのニュースや出来事が自分にとってどれだけ予想外だったかを強調することができるのです。
「ことわざを知る辞典」によると、太閤記などの古い文献では「寝耳に水の入りたるごとし」あるいは「寝耳に水の入るごとし」とあり、後にこれらを簡略にしたものとされています。
能ある鷹は爪を隠す
【意味】
実力や才能のある者は、むやみにそれを表に出さず、いざという時にだけその力を発揮するという意味。
「能ある鷹は爪を隠す」ということわざは、本当に能力のある人は、その能力を見せびらかさず、控えめに振る舞うという意味です。
この表現は、鷹が獲物を捕らえるために使う鋭い爪を、普段は隠しており、必要な時だけ見せる様子から来ています。同様に、人間でも自分の才能や成果を誇示することなく、謙虚にふるまうことが真の強さや能力の表れとされています。
特に、周りを圧倒することなく、自然体でいることで、他人からの信頼や尊敬を得やすくなるという教訓が含まれており、自分の能力を過信せず、常に謙虚な姿勢でいることが、将来的に大きな成功につながるというメッセージが込められていると言えるでしょう。
「ことわざを知る辞典」によると、鷹が「爪を隠す」というのは、爪がまったく見えないように隠すということではなく、むやみに爪を立てて相手を威嚇しない意とされています。また、比喩に「鷹」が出てくる背景には、古くから公家や武家の間で好まれてきた鷹狩りがあったとされています。
喉もと過ぎれば熱さを忘れる
【意味】
どんな苦痛や苦労も、それが過ぎると、その苦痛も苦労も忘れてしまうということ。また、苦しい時に助けてもらった恩や恩人を、楽になったら人は簡単に忘れてしまうという戒めの意味もある。
「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということわざは、何か困難なことや辛い経験があっても、その事態が一度過ぎ去れば、その大変だったことをすぐに忘れてしまうという意味です。このことわざは、人が苦しい状況を乗り越えた後で、その時感じた痛みや苦しみを思い出さなくなる心理を表しています。
例えば、熱いお茶を飲む時、その瞬間はとても熱く感じますが、喉もとを過ぎ飲み終わった後にはその熱さをすぐに忘れてしまいます。
このことわざは、人の記憶や感謝の気持ちが時と共に薄れていく様子を表しており、私たちに対して、受けた恩は忘れずに感謝を持ち続けるべきだと教えてくれます。また、過去の困難に対しても、それを乗り越えた経験を大切にすることの重要性を示唆しています。
「ことわざを知る辞典」によると、多くは体験に学ばない者や恩義を忘れる者を批判して使われますが、少数ながら「福翁自伝」のように肯定的に使う例もあるとされています。
暖簾に腕押し
【意味】
相手の反応や手応えがない事や、張り合いがないという意味。
「暖簾に腕押し」ということわざは、どんなに力を入れても暖簾(のれん)はただの布なので、力を押し込んでも何の抵抗も感じられず、効果がないことを表します。
この表現は、何か行動をしても全く結果が得られない状況や、相手との対話が意味を成さない無駄な努力という意味で使われます。どんなに努力しても目に見える成果や反応が得られないことのたとえとして覚えておくと良いでしょう。
例えば、誰かに何度説明しても理解してもらえない場合や、問題を解決しようとしても全く進展がない場合にこのことわざを使うとよいでしょう。
「ことわざを知る辞典」によると、比喩としては、「糠に釘」や「豆腐にかすがい」と同様に、力をこめても徒労に終わることですが、ニュアンスは微妙に異なるようです。「糠」や「豆腐」と違って、「暖簾」の場合は、どうも相手のほうが一枚上手で、うまくあしらわれる感じが否めないとされています。
「は行」のことわざ意味・解説付き
花より団子
【意味】
花見などという風流なことよりも、食べるほうが大事というたとえ。外観よりも実質を、虚栄より実益を重んじること。また、風流を解さないことのたとえにも用いる。
「花より団子」という言葉は、文字通りには「花を見るよりも団子を食べる方が良い」という意味ですが、これは比喩的な表現で、見た目や美しさよりも実用性や実益を重視する考え方を示しています。
このことわざは、特に日本のお花見の風景を想像すると理解しやすいでしょう。春になると多くの人が桜の花を見に行きますが、実際には美しい花よりも、お花見で集まった人々との交流や食べ物の方が興味の中心となることがよくあります。
この表現は、人によって価値観が異なることを示唆しており、美的なものや形式を重視するよりも、具体的な利益や快適さを選ぶ人もいるということを教えています。また、「花より団子」は、風流や粋を理解しない、いわゆる実利主義の人を指す場合もあります。
つまり、このことわざは、人々が美や芸術を楽しむ感性と、より実際的な利益を求める態度との間の違いを風刺的に表現しているのです。
「花より団子」ということわざが示すように、社会や人間関係においても、「見た目」だけでなく「中身」の重要性を考える機会として捉えてもらえると良いでしょう。美しいものや形式ばかりを追求するのではなく、実際の効用や内容がどれだけ価値があるかを判断する思考が求められる場面は多くあります。
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早起きは三文の得
【意味】
朝早く起きれば健康にもよく、何かしらよいことがあるという意味。
「早起きは三文の得」ということわざは、「早く起きることによって小さな利益や良いことが得られる」という意味です。この「三文」というのは、直訳すると「わずかなお金」という意味ですが、ここでは「少しの利益」という意味で使われています。
つまり、早起きをすること自体が直接的に大きな利益をもたらすわけではないけれど、それによって得られる小さな利益、すなわち好ましい効果や利点を指しています。
例えば、早起きすることで一日が長く使えるため、勉強や趣味、運動など自分のやりたいことに時間を使うことができます。また、朝の時間は静かで集中しやすいため、効率的に物事を進めることが可能です。さらに、朝日を浴びることは体内時計を整え、健康的な生活リズムを促進する効果もあります。
このように、早起きがもたらす「三文の得」は、直接的な金銭的利益ではなく、生活の質を向上させることにつながるさまざまな小さな利点です。
効率的な時間の使い方は非常に重要ですので、早起きを生活に取り入れることで、充実した日常生活を送る助けになるでしょう。
人の噂も七十五日
【意味】
人の噂は長く続くものではなく、七十五日もすれば忘れられてしまうものだということ。
「人の噂も七十五日」ということわざは、人々が何かについて盛んに話しているのも一時的なものであり、だいたい75日、つまり約2、3ヶ月ほどでその話題が忘れ去られるという意味が含まれています。
このことわざを使う背景には、人間の興味や注意が常に新しい話題に移り変わりやすいという人間心理があります。特に、何かスキャンダルや事件があったときに、その瞬間は周りで大きな話題となりますが、時間が経つにつれて人々の興味は薄れ、新しい話題に移っていきます。
例えば、有名人のゴシップや社会的な出来事がニュースで取り上げられると、初めはみんなその話で持ちきりになるかもしれません。しかし、次第に新しいニュースが出ると古い話は影を潜め、人々の間ではあまり語られなくなります。
このことわざは、何か問題やネガティブな噂に直面したとき、それが永遠に続くわけではなく、やがては人々の記憶から消えることを思い出させてくれるため、心配しすぎないようにという助言としても使われます。
また、世間の注目は移り変わりやすいという事実を認識して、一時的な評判や噂に一喜一憂しないことの重要性を教えてくれる教訓とも言えるでしょう。
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人のふり見て我がふり直せ
【意味】
他人の行いの善し悪しを見て参考にすることで、自分の行いを見直し欠点を改めるように心がけると良いというたとえ。
「人のふり見て我がふり直せ」ということわざは、他人の行動を観察して、それを自己反省のきっかけにした方が良いという意味を持っています。
この言葉は、他人の良くない行いを見た時に、自分も同じ過ちを犯していないか、または他人が良い行いをした時に、自分もそれを見習うべきかを考えることを勧めています。
例えば、他人が何か失敗をした時、それをただ批判するのではなく、「自分も同じような間違いをしていないか?」と自問自答することが大切です。また、他人が何か素晴らしいことを成し遂げた時には、「自分もそのように努力すべきか?」と考えるべきであるというものです。
この言葉は、自己中心的になりがちな私たちに、常に周りを意識し、自己改善に努めるよう促しています。他人を見ることで自分を見つめ直し、より良い人間になるための一歩を踏み出すことが、このことわざの教えるところです。
人と比較して優劣を競うのではなく、他人を通じて自分自身を成長させる機会として捉えることが重要であるといえるでしょう。
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火のない所に煙は立たない
【意味】
原因のない所に噂は立たないというたとえ。
「火のない所に煙は立たない」ということわざは、何か噂がある場合、その噂が生まれた背景には何らかの真実があると考えるべきだという意味を持っています。
つまり、全くの根拠がないことが話題になることは少なく、大抵の場合には何かしらの事実が元になって噂が広まっていることが多いです。このことわざを使うことで、人々は単に噂を信じるのではなく、その背後にある事実を探るべきだと示唆されます。
例えば、ある有名人が不正行為をしたという噂が流れた場合、「火のない所に煙は立たない」と考えれば、その噂に少なくとも何かしらの出来事が基づいている可能性があると考え、真実を探るきっかけになります。しかし、これは逆に誤解や誤情報が事実無根のうわさとして拡散するリスクもあるため、情報の真偽を慎重に判断する必要があります。
このことわざは、単に噂を信じるかどうかを問うだけでなく、その噂の根拠を理解し、真実に迫る重要性を教えてくれるものです。
百聞は一見にしかず
【意味】
物事は、耳で何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうがたしかだということ。
「百聞は一見にしかず」ということわざは、どんなに多くの人から聞いた話や説明も、実際に自分の目で一度見ることに比べれば、その価値や理解が全く異なるという意味を持っています。この言葉は、経験や実際の観察がもたらす知識の深さや確かさを強調しています。
例えば、美しい景色や芸術作品について多くの人から話を聞くことはできますが、実際にそれらを自分の目で見たときの感動や理解は、話を聞いた時とは全く異なります。また、科学の実験や歴史的な場所を訪れることも、ただ教科書で読むのとは比べ物にならないほど、深く理解する手助けとなります。
このことわざを通して、私たちは単に情報を受け取るだけでなく、自ら積極的に体験することの重要性を学びます。実際に経験することで、知識はより具体的で生き生きとしたものとなり、記憶にも深く刻まれるのです。だからこそ、何かを学ぶ際には、できるだけ実物を見たり、実際に体験することが推奨されるのです。
このように「百聞は一見にしかず」は、聞くことも大切ですが、見ることで真の理解に至ることを教えてくれる言葉なのです。
瓢箪から駒
【意味】
思いがけないようなことがおこること。また、冗談のつもりだったことが、現実に起こること。
「瓢箪から駒」とは、全く予想もしていなかったことが、思いがけない形で実現する状況を表しています。
この表現は、文字通りに解釈すると、「瓢箪から、駒すなわち馬のように大きなものが出る」という意味になりますが、現実には瓢箪から馬が出ることはありえません。
したがって、非常に驚くべきことや、予想外の出来事が起こることを比喩的に表しているのです。
このことわざは、冗談や軽い発言が本当に現実になってしまったり、何か小さなきっかけや無関係に思える出来事から、大きな結果や予想外の展開が生まれることを指します。
たとえば、何気ないアイデアが突然、大成功につながる場合や、小さなミスが思わぬ大問題を引き起こすケースなど、予測不可能な結果が生じる様子をこのことわざで表現することができます。
「ことわざを知る辞典」によると、このことわざの成立には、中国の仙人張果老の伝説が影響しているようです。 張果老は白いロバに乗って各地を廻り歩き、休むときはロバを瓢箪の中に収めていたといわれます。日本でも、室町時代からこの仙人を画題とする絵が好まれ、いつしか瓢箪から駒が出る構図がよく知られるようになったとされています。
豚に真珠
【意味】
値打ちがわからない者に、どんなに立派な物をあたえても役に立たないということ。
「豚に真珠」という表現は、価値あるものを理解できない者に与えても無駄であるという意味のことわざです。これは、新約聖書の一節に由来しています。
具体的には、新約聖書(マタイ伝七章六)の「聖なるものを犬に与えてはいけません。真珠を豚にやってはいけません。豚は真珠を踏みつけ、向き直って、あなたがたに突っかかって来るでしょう。」という言葉から来ています。
このことわざは、高価で美しい真珠を豚に与えても、豚にはその価値が理解できず、ただの食べ物としか見なされないため、真珠の価値が全く活かされないという事例から、もっと広い意味で解釈されています。
つまり、知識や芸術、高度な技術など、何らかの重要な価値を持つものを、それを正しく評価できない人々に提供しても、その価値は認識されず、結果的には無駄になってしまうという警告を含んでいるといえます。
このことわざは人とのコミュニケーションや物の扱いにおいて、相手の理解力や関心を考慮する重要性を教えてくれます。価値あるものを適切に評価し、尊重することができる環境や人々に対してのみ共有するべきだという考え方を促すのです。
下手の横好き
【意味】
趣味などで下手にもかかわらず、好きで熱心である事。
「下手の横好き」ということわざは、趣味などで下手にも関わらず、その活動を非常に楽しんでいる状態を指します。この言葉には、その人が技術的には未熟であることを認めつつも、その活動に対する情熱や愛着を肯定的に評価するニュアンスが含まれています。
例えば、絵を描くことが下手でも、それを趣味としてとても楽しんでいる人がいるとします。この人は自分が下手であることを自覚しているかもしれませんが、それでも絵を描く行為自体に喜びを感じており、多くの時間をそれに費やしています。このような場合に「下手の横好き」という表現が使われることがあります。
また、この言葉は批判的な意味で使われることもあります。つまり、他人が技術的に未熟なのに無理に熱心に取り組んでいると感じた時、その様子を指摘する際に用いられることもあります。
ただし、多くの場合、このことわざは自己批判や自己謙遜の意味で用いられ、自らの技術不足を認めつつも、それを趣味として楽しんでいることを表現するのに使われます。これは、どんなに技術が未熟であっても、その活動自体に喜びや価値を見出していることを示しており、それが大切なことだという考え方を反映しています。
仏の顔も三度
【意味】
どんなに心の広い人でも、何度もひどいことをされれば、ついには怒りだすということ。
「仏の顔も三度」ということわざは、どんなに温厚で忍耐強い人でも、繰り返し同じ失礼な行為が行われれば、最終的には怒りを示すという意味を持っています。
ここでの「仏」というのは、仏教における仏像や仏様を指し、これが一般的には非常に穏やかで慈悲深い存在とされていることから、普通は怒ることのない人を例えるのに使われます。このことわざには「どんなに優しい人でも限界があり、何度も同じ過ちを繰り返せば怒る」という警告が込められているのです。
たとえば友人関係や家族の中で同じミスを何度も繰り返したとき、初めは許されても、そのうちに人々の怒りや失望を買うことになる、といった状況です。このことわざを通じて、他人の寛容性を当たり前と思わず、自分の行動を適切にコントロールすることの重要性を理解することが重要だといえるでしょう。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸前期から使われたことわざで、古くは「仏の顔も三度撫ずれば腹(を)立つ」といっていたようです。ことわざは、広く知られるようになると、削ぎ落とせるものはすべて削ぎ落とすのが通例で、明治期になると、ほとんどのことわざ集が「〜三度」でとどめているとされています。
「ま行」のことわざ意味・解説付き
負けるが勝ち
【意味】
無理に相手と争うよりも、勝ちをゆずる方が結果的には得になる。
「負けるが勝ち」という言葉は、直訳すると「負けることが実は勝ちにつながる」という意味になりますが、これは一見矛盾しているように聞こえるかもしれません。
この表現は、特に日本の文化においてよく用いられる考え方で、すべての争いや競争において直接的に勝利を追求するよりも、時には敢えて譲歩したり、一時的な不利益を受け入れることが、長期的な利益や和をもたらすという哲学を表しています。
たとえば、友人との些細な言い争いで勝とうとすることで関係が悪化する場合、その場で自分の意見を抑え、相手の意見を尊重することで、結果的に友人関係が維持され、さらには深まることがあります。ここでの「負け」は、自分の意見を主張しないことを意味しますが、「勝ち」とは、より大切な人間関係を守ることに他なりません。
この概念は、対人関係だけでなく、ビジネスや政治、日常生活の様々な場面で応用することができます。自分の利益やプライドを一時的に後回しにすることで、相手との信頼関係を築いたり、より大きな目標や共通の利益のために協力を得ることができるのです。
この言葉を理解し活用することは、人間関係の築き方や、将来的なキャリア、さらには個人的な成長においても大いに役立つでしょう。争いを避けることが時には最も賢明な選択であり、そのような選択が結果として大きな「勝利」をもたらすことを意味します。
馬子にも衣装
【意味】
身なりを整えれば、どんな人間でも立派に見えるというたとえ。
「馬子にも衣装」ということわざは、日本の伝統的な表現で、外見の変化がその人の受ける評価にどれだけ大きな影響を与えるかを示しています。この言葉に出てくる「馬子」とは、かつて馬を引いて荷物や人を運んでいた低い身分の人々のことを指し、通常は粗末な服を着ていました。
しかし、このことわざでは、そうした馬子であっても、きちんとした衣装を着ることで見た目が大きく改善され、その結果、普段とは異なり立派にあるいは魅力的に見えることができると教えています。
この表現は、誰であっても外見を整えることによって与える印象が変わり、社会的な評価が向上する可能性があることを教えています。特に、見た目が第一印象に大きな影響を与えるため、外見を改善することは自己表現や自己PRの大切な要素となるのです。
つまり、「馬子にも衣装」ということわざは、外見が人に与える影響の大きさを教え、どんな立場の人も適切に装うことで自分の価値を高めることができるという教訓を含んでいるといえるでしょう。
待てば海路の日和あり
【意味】
今は思うようにいかなくても、あせらずに待っていれば、良いことはそのうちにやってくるということ。
「待てば海路の日和あり」ということわざは、直訳すると「待てば、海での良い天候がやってくる」という意味です。海の天候は不安定で予測が難しいものですが、根気強く待っていればいずれは静かで航海に適した良い天気が訪れることを表しています。
このことわざは、単に天候の変化について述べているのではなく、広く人生の様々な場面に応用できる教訓を含んでいます。
例えば、何か目標や願いがある時、すぐには達成できないことが多くあります。そのような時に焦らずに耐え忍ぶことの重要性を教えてくれる言葉です。待つことによって、状況が好転する可能性があり、その結果、目的や願いが叶うかもしれないという希望を持つことができます。
このことわざを通じて、人生においてすべてが思い通りに進まない時でも、根気よく努力し続けることの価値を学ぶことができるでしょう。
ミイラ取りがミイラになる
【意味】
人を捜しに行った者がそのまま帰ってこないで、捜される立場になってしまうこと。また、人を説得に行った者が、かえって説得され、先方と同意見になってしまうこと。
「ミイラ取りがミイラになる」ということわざは、元々はミイラを探しに行った人が、自らもミイラとなってしまうという意味から来ています。これを比喩的に使うときは、ある目的で行動を始めた人が、結果的にその目的に深くはまり込んでしまい、元々の目的を達成できず、逆にその状況に支配されてしまう様子を指します。
例えば、友達を悪い習慣から助け出そうと思って近づいたが、結局は自分もその悪い習慣に染まってしまう場合などがこれにあたります。また、誰かを説得しようとしていたのに、逆にその人の意見に引き込まれてしまう、という状況も「ミイラ取りがミイラになる」と言えます。
このことわざは、特に計画や目的がある行動を起こす際の注意喚起として使われることが多いです。始める前には、自分が目指すべき結果や影響をしっかりと考え、準備をしておくことの重要性を教えてくれます。また、他人を変えようとする前に自分が変わらないように気をつける、という教訓も含まれています。
身から出た錆
意味】
自分でした悪い言動が原因で、苦しんだり、ひどい目にあったりすることのたとえ。
「身から出た錆」という言葉は、自分自身の行いが原因で何らかの問題や困難が起こることを表しています。
この表現は、直訳すると「自分の体から出た錆」という意味ですが、ここでの「身」は二重の意味を持っています。一つは刀の身(刀身)、つまり刀の本体を指し、もう一つは「わが身」、すなわち自分自身です。そして「錆」は金属が酸化してできる錆びのことで、ここでは比喩的に不名誉や悪い結果を意味しています。
このことわざは、自分の過去の行動や選択が原因で後に不利な状況や悪い結果につながったときに使われます。例えば、勉強を怠けた結果、試験の点数が悪くなるとか、人に対して不親切な振る舞いをしたために友達を失うなど、自分の行いが直接的な影響をもたらした場合です。この言葉を使うことで、「他人のせいにするのではなく、自分の責任である」という意味を強調しています。
自己反省を促し、自己責任を教える表現として、「身から出た錆」はとても役立つ教訓です。
「ことわざを知る辞典」では、戦国時代からの古いことわざで、江戸のいろはかるたに採用されて広く親しまれ、今日でもよく使われていると紹介されています。
三つ子の魂百まで
【意味】
幼いころの性格は、年をとっても変わらないということ。
「三つ子の魂百まで」ということわざは、幼い頃に持っていた性格や特徴が、大人になっても変わらないことを表しています。この言葉は、人が成長しても、幼少期に形成された本質的な部分は変わりにくいという観察に基づいています。
例えば、小さい頃に活発で好奇心旺盛だった人が、大人になっても同様の性格を持ち続けることがあります。また、幼い頃に恥ずかしがり屋だった人が、成長しても人前での発表が苦手だったり、内向的な性格が続くこともあります。このように、「三つ子の魂百まで」とは、人の性格や行動の傾向が生涯を通じて続くことが多いという観点を表しているのです。
「ことわざを知る辞典」によると、「三」や「三つ」には、区切りを象徴する意味合いがあり、かならずしも数値としての「三」とは一致しないことがあるとされています。また、現代では、このことわざが幼児を早くから学ばせる根拠としてよく引かれますが、満年齢と数え年を混同しているだけでなく、数の象徴的意味を忘れた議論といわざるをえないと記載されています。
餅は餅屋
【意味】
何事も、それぞれに専門家がいるので、まかせたほうがよい、素人はかなわないということ。
「餅は餅屋」ということわざは、専門家がその専門分野において最も優れた成果を出すことができるという意味を持っています。この言葉は、餅を作るのが専門の餅屋が、他の誰よりも上質な餅を作ることができるという事実に基づいています。
同様に、どんな分野でも、その分野の専門家はその技術や知識が深いため、素人とは比べ物にならないほどの高い品質の仕事をすることが期待されます。
例えば、法律の問題が発生した場合には弁護士の助けを借りるのが最適ですし、病気になったときは医者に診てもらうのが一番です。これは、それぞれの専門家が長年の勉強や経験を通じて、特有のスキルや知識を培ってきたからです。
専門的な知識や技術を持つことは、その分野で質の高い成果を出すためには不可欠であり、それが社会においても高く評価される理由です。
「ことわざを知る辞典」によると、江戸中期からひろく使われたようです。また、ほぼ同じ意味で「酒は酒屋」や「馬は馬方」なども用いられていましたが、今日では「餅は餅屋」がしっかり定着し、他は耳にしなくなっているとされています。
「や行」のことわざ意味・解説付き
焼け石に水
【意味】
努力や援助がわずかでは、効果がほとんど期待できないことのたとえ。
「焼け石に水」ということわざは、とても大きな問題や困難な状況に対して、小さな助けや少しの努力をしても、ほとんど効果がないことを表しています。
例えるなら、熱くなった石に少量の水をかけても、その水はすぐに蒸発してしまい、石を冷ますことはできないというものです。このことわざは、問題の深刻さに対して十分ではない対策や手段が取られた時に使われます。
たとえば、大規模な自然災害後のわずかな支援や、重大な財政危機に対する小さな予算削減などが該当するでしょう。
「焼け石に水」ということわざは、特定の行動や解決策が、問題の規模に比べて明らかに不十分であることを強調しているのです。
安物買いの銭失い
【意味】
安いからといって物を買っても、品質が悪かったり、使い道がなかったり、役に立たなくて、高い物を買うよりも、結局損をすることになるということ。
「安物買いの銭失い」ということわざは、安価な商品を購入することで一見節約したように思えても、その商品がすぐに壊れたり性能が低かったりするため、結局は修理費や再購入費用で余計な出費をしてしまい、結果的に損をするという教訓を含んでいます。このことわざは、価格だけでなく品質を考慮することの重要性を教えています。
たとえば、学校で使うノートパソコンを選ぶとき、最も安いモデルを選んだとします。しかし、そのパソコンが頻繁に故障するため、修理に時間とお金がかかり、授業の予習や宿題が十分にできなくなるかもしれません。そうすると、最初に少し高価ながらも性能が良く信頼性の高いパソコンを選んでいたならば、トラブルに悩まされることなく、学習に集中できたはずです。
このように、「安物買いの銭失い」は単に「安ければいい」という考え方が時として逆効果になることを示し、長期的な視点で物事を考えることの大切さを伝える教訓となっています。特に、長く使う予定のある大切なアイテムを選ぶ際には、価格だけでなくその品質や耐久性を慎重に評価することが大切でしょう。
「ら行」のことわざ意味・解説付き
楽あれば苦あり
【意味】
人生は楽しいことばかり続くのでも、苦しいことばかり続くのでもない。
「楽あれば苦あり」ということわざは、人生には喜びや楽しい時期がある一方で、困難や苦しい時期も必ずあるということを表しています。これは、何事も一時的であり、永遠に続くものではないという人生の不変の真理を教えています。
日々の生活や将来に向けて努力する中で、時には楽しいことや嬉しい経験があり、そのような時期は心地よく感じるかもしれません。しかし、それと同時に、様々なプレッシャーや人間関係の問題など、避けがたい困難に直面することもあるでしょう。
このことわざは、楽しい時期が続いているときには、いずれ訪れるかもしれない困難に備えるよう心がけること、また、苦しい時期が続いているときには、それが永遠に続くわけではなく、やがて良い時期が来ることを信じることの大切さを教えています。
人生の波に対して心の準備をすること、そしてそれぞれの瞬間を大切に生きることが、この言葉から学べる教訓です。
良薬は口に苦し
【意味】
役に立つような忠告は、聞くのがつらいものだということ。
「良薬は口に苦し」ということわざは、良い薬は味が苦いけれども病気を治す効果が高いという意味から来ています。
これを人間関係やアドバイスに例えると、正しいけれども厳しい批判や忠告は聞きづらいものですが、それを受け入れることで自分を改善したり、問題を解決したりする助けになるという教訓が込められています。
人間が成長する過程で、友人や先生、親から厳しい意見を聞くことがあるかもしれません。その時、その言葉が耳に痛いと感じるかもしれませんが、それはあなたのことを思ってのことであり、そのアドバイスに耳を傾けることで、より良い方向に自己を導くことができるのです。
「ことわざを知る辞典」によると、「後漢書」や「史記」などに由来する表現で、日本でも平安時代には知識人の間で知られていたようです。漢籍では、「良薬口に苦し忠言耳に逆う」という対句形式で、今日でも「忠言耳に逆う」と続けていうことがあります。江戸時代になると、庶民の間でも前半の「良薬口に苦し」がひろく知られるようになったとされています。
論より証拠
【意味】
物事は議論よりも、証拠によって明らかになるということ。また、具体的な事実にものをいわせるのは、説得への第一歩であるということ。
「論より証拠」という言葉は、「証拠があることが何よりも強い」という意味を持っています。この言葉は、何かを議論や理論だけで語るよりも、具体的な証拠や実例を示す方が、真実や事実をはっきりと証明できるという考え方を表しています。
例えば、科学の実験では、仮説を立てることから始まりますが、その仮説が正しいかどうかを示すためには、実際に実験を行い、観測結果という証拠を得る必要があります。また、法廷での裁判では、被告人が罪を犯したかどうかを判断する際に、証人の証言や物的証拠が重要な役割を果たします。
このように、「論より証拠」は、理論や仮説、意見よりも具体的な証拠を重視するべきだという思想を強調しています。
日常生活の中で意見を述べるときも、この言葉を思い出して、ただ自分の考えを言うだけでなく、それを裏付ける具体的なデータや情報を提示することが重要です。それによって、他の人を説得する力がぐっと強まります。
我が身をつねって人の痛さを知れ
【意味】
人の痛みや苦しみを自分のことのように考えて、相手を思いやるようにしなさい、ということ。自分がされていやなことは、相手にするなということ。
「我が身をつねって人の痛さを知れ」という言葉は、他人の痛みや苦しみを理解するためには、まず自分自身が同じような痛みを経験してみることが大切だと教えることわざです。
この表現は、直接的には自分の身体をつねってみることで物理的な痛みを感じることから、他人も同じように痛みを感じると理解するという意味ですが、もっと広い観点で見れば、他人の立場や感情に立ってみることの重要性を強調しています。
特に若い人たちにとって、この教訓は非常に有益です。学生生活は多様なバックグラウンドを持つ人々と交流する機会が増える時期であり、友人関係や学校生活の中で争いや誤解が生じることも少なくありません。
このことわざを通じて、他人がどのような感情を持っているのか、またはどのような困難に直面しているのかを理解するために、自分自身がその立場になったときの感情を想像することが役立ちます。
同情や共感を育むことは、友情を深め、社会全体の調和を促進するためにも重要です。このように、「我が身をつねって人の痛さを知れ」は、他人を理解し、尊重するための心構えを育てるための貴重な教訓と言えるでしょう。
それによって、他人の立場を想像する力が養われ、人間関係がスムーズになることが期待されます。
禍を転じて福となす
【意味】
身にふりかかる災難を活用して、自分に役立つものとして利用するさま。不幸なことが一転して幸福に転じるさま。
「禍を転じて福となす」という言葉は、災難や困難が起こったとしても、それをポジティブな結果に変える機会と捉える考え方を示しています。このことわざは、もともとの状況がどんなに悪くても、その状況を上手く活用して、最終的には良い結果を引き出すという意味が含まれています。
例えば、何か失敗をしたときにそれをただ後悔するのではなく、その失敗から学びを得て、次に同じような状況が来たときにはより良く対処できるようにするという考え方です。これは、ネガティブな出来事も経験として価値があると見ることができ、自己成長の糧となり得るという教訓を含んでいます。
皆さんが日々の学校生活や部活、友人関係などで直面するさまざまな問題も、「禍を転じて福となす」の精神で捉えることができれば、それぞれの困難を乗り越える強さや、逆境を乗り越えるための知恵が身につきます。
例えば、テストで悪い成績を取ったとしても、その原因を分析して勉強方法を改善することで、次のテストで良い成績を取ることができるかもしれません。
このように、「禍を転じて福となす」は、単に楽観的であるというよりは、積極的に問題に向き合い、それを克服する過程で自分自身を成長させるための姿勢を育むという深い意味があるのです。
渡る世間に鬼はない
【意味】
この世の中には、鬼のように冷たい人ばかりではなく、思いやりのある優しい人も必ずいる。
「渡る世間に鬼はない」ということわざは、この世界には厳しい人や冷たい人ばかりではなく、必ず温かい心を持った人も存在するという意味が込められています。この言葉は、どんなに困難な状況にあっても、誰かが助けてくれる可能性があることを示しており、人間関係の中での希望と助け合いを説くものです。
例えば、学校や社会生活の中でトラブルに遭遇したとき、厳しい指導をする先生や上司がいたとしても、その一方で支えてくれる友人や理解を示してくれる人もいるということです。
また、この言葉は、自分自身が他人に対して優しくすることの重要性をも示唆しています。他人に対して温かく接することで、自分もまた、周囲からの支援や温かさを感じることができるというものです。
このことわざを通じて、人間関係の中での様々な面を理解し、互いに支え合う重要性を学ぶことができます。社会に出たときに、自分が困ったときだけでなく、他人が困っているときに手を差し伸べることの大切さを知る手助けとなるでしょう。
「わ行」のことわざ意味・解説付き
笑う門には福来たる
【意味】
いつも明るくほがらかに暮らしている人の家には、自然に幸せがやってくるものだ。
「笑う門には福来たる」ということわざは、明るく和やかな家庭や集まりには良いことが起こりやすいという意味を持っています。この表現で使われている「門」は、単に家の入り口という物理的な意味だけでなく、そこに住む家族や集団、さらにはその家庭の雰囲気を象徴しています。
このことわざは、常に笑い声が絶えないような家庭は、そこにいる人々が互いに協力し合い、ポジティブな関係を築いていることを示しています。そういった環境は、家族間の絆を強化し、ストレスの少ない生活を促進します。結果として、そうした家庭には幸運や好機が訪れやすく、全体としての繁栄につながるとされています。
例えば、家族や友人が集まる場で笑い声があふれていると、それだけでその場の雰囲気が明るくなります。また、他人がその家庭を訪れた際にも、笑顔と温かい歓迎を受けることで、良好な関係が築かれやすくなります。これが「福来たる」と表現される所以です。つまり、笑いは人々を引き寄せ、幸運をもたらす力があるとされているのです。
このことわざは日常生活において友人関係や家族との関係を大切にする重要性を教えてくれます。常に明るく、お互いを尊重し合う姿勢を心がけることで、自然と周りにも良い影響を与え、さらには良い運気を引き寄せることができるでしょう。