ことわざ研究者(ことわざ学会代表理事)。エッセイスト。学習院大学非常勤講師として「ことわざの世界」を講義した(2005年から断続的に2017年3月まで)。用例や社会的背景を重視し、日本のことわざを実証的に研究する。
「犬も歩けば棒に当たる」の二つの意味
「犬も歩けば棒に当たる」は、“江戸いろはかるた”(「いろはがるた」とも発音します)の「い」の札としてよく知られています。このかるたのことを「犬棒かるた」と呼ぶことは、みなさんもご存じですね。
このことわざは、いろはの「い」だから印象が強いだけでなく、二つの相反する意味があることも大きな特徴です。
たとえば、『広辞苑』では「犬」の項で次のように説明されています。
物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。
(『広辞苑』7版)
失礼ながら、「物事を行う者」というのは、あまりぴんときませんね。
私なら「積極的に行動する者」とでもしたいところです(見方によっては、出しゃばって物事を行う者とみなされることもあります)。そういう者は、とかく禍(わざわい)にあうということになります。
「やってみると」というのも、やや舌たらずで、ことわざの「犬も歩けば」という表現にそって比喩を考えると、「あちこち出歩いていると」あるいは「いろいろやっているうちに」ということでしょう。こちらは、思いがけない幸運にあうことになります。
同じ「犬も歩けば棒に当たる」の意味が、一方では「禍」にあうことになり(災難説)、もう一方ではまったく逆に、幸運にあうことになる(幸運説)というのは、不思議ですね。どうして、そんなことがおこるのでしょうか。
現代人がこのことわざの意味をよく知らずに、「犬も歩けば棒に当たる」という文を見ると(聞くと)、幸運にであうとは思えないでしょう。かるたの絵を見ても、たいてい犬が棒を投げつけられた場面がえがかれていて、痛そうに片足をあげていますから、禍と思うのがふつうの感覚です。
しかし、このことわざは、江戸時代中期(18世紀初期)から用例がのこっていて、当時から幸運にあうという意味でも使われていたことがわかっています。この受け取りかたのちがいは、どこから生じるのでしょうか。
ここで、いちばん注目したいのは「犬」です。犬は江戸時代もいまも変わらないと思いがちですが、犬の比喩的な(つまり、たとえとしての)意味やイメージは、時代によって大きく変わっています。
徳川家康は、新参の(侍にとりたてられたばかりの)身分の低い者に「犬々三年人一代、人々(ひとひと)三年犬一代」という古いことわざをよく引いて、教えていたといいます(本居宣長『玉勝間』)。
最初の三年は、人に犬といわれても堅実(けんじつ)に倹約(けんやく)して暮らし、仕事にはげみ借金をしなければ、その後は人として恥ずかしくない生活が一生できる。
しかし、酒や宴会をこのんで人にふるまい、派手な生活をしていると、欲のない気前のよい人ともてはやされるが、三年もすると金もなく馬ももてず、人に借りたものも返せず、武士の務めがはたせなくなって、世間からばかにされ、一生笑い者になってしまう、ということです。
この家康のエピソードから、当時の「犬」は、まずしく身分の低い人々やその生活ぶりのたとえとして使われていたことがわかります。「犬」は、生命力が強く、安産とされ、活動的で、主人や家を守るなど、プラスのイメージもありますが、身分制度がきびしい時代には、身分の低い者をさしていたことは間違いありません。
これは、「犬も歩けば…」ということわざの二つの意味(二重の意味)を解き明かすうえで、重要なカギになると私は考えています。
少しむずかしい話になりましたが、大まかにいうと、「犬も」といったときに、「犬」を見下して、自分は「犬」ではないと思っている人は、災難説にかたむきます。むやみに動いて、よけいなことをするから、禍にあうと考えるのです。
もちろん、人間は犬ではありませんが、ある意味で、自分は「犬」だ、身分の低い者、貧しい者だと思っている人(特権のない庶民といってよいでしょう)は、どちらかというと幸運説に共感します。
しがない庶民だって、ツキがまわってくることもある、と暗にいいたいのです。
「犬も歩けば棒に当たる」の二つの意味については、多くのことわざ辞典や本がふれていますが、いま述べた身分の視点をわすれている(避けている?)ために、なぜ二つの意味・用法が並行して使われるのか、解明されていないのではないでしょうか。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
【北村孝一先生のその他のコラム記事】
多くのことわざ資料集を監修し、『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館、2012)を編纂・監修した。後者を精選しエッセイを加え、読みやすくした『ことわざを知る辞典』(小学館、2018)も編んでいる。視野を世界にひろげ、西洋から入ってきた日本語のことわざの研究や、世界のことわざを比較研究した著書や論考も少なくない。近年は、研究を続けるほか、〈ミニマムで学ぶことわざ〉シリーズ(クレス出版)の監修や、子ども向けの本の執筆にも取り組んでいる。
主な編著書
『故事俗信ことわざ大辞典』第2版(小学館)、『ことわざを知る辞典』(小学館)、『世界のふしぎなことわざ図鑑』(KADOKAWA)、『ミニマムで学ぶ 英語のことわざ』(クレス出版)、『ことわざの謎 歴史に埋もれたルーツ』(光文社)、『世界ことわざ辞典』(東京堂出版)、『英語常用ことわざ辞典』(武田勝昭氏との共著、東京堂出版)など。
北村孝一公式ホームページ
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