大島中正(おおしま ちゅうせい)先生同志社女子大学表象文化学部日本語日本文学科特別任用教授。ことわざ学会理事。公益社団法人京都日本語教育センター評議員。1958年大阪府生まれ。専門分野は、日本語学。現在の研究テーマは、①外国人が間違えやすい類似表現の研究、②梅棹忠夫の文体とその日本語論についての研究、③新島襄の言語生活についての研究、④ことわざの日本語学的研究。主な共著書に『日本語学を学ぶ人のために』(世界思想社、1992年)『類似表現の使い分けと指導法』(アルク、1997年)『日本語学と言語学』(明治書院、2002年)『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』(淡交社、2012年)『国際化時代の日本語を考える二表記社会への展望』(くろしお出版、2017年)がある。
文型「名詞1が 名詞2と なる」
花登筐原作・脚本のドラマ『ぼてじゃこ物語』で、ミヤコ蝶々さん演じる千代という老婆が、「塵も積もれば山となる。水も溜れば池となる」と言うシーンがありました。
蛇口から漏れ落ちる水滴をバケツ(だったとおもいます)に溜めて、その水面を鏡に代用するという場面でした。
言うまでもなく、積もった塵が山そのものに変化したり、溜った水が池そのものに変化したりするということではありません。
日本語学者の森田良行氏はその著『基礎日本語辞典』で、「名詞2に なる」は、それ以前の状態(名詞1)の否定を前提とした新しい事態(名詞2)の誕生を表し、「名詞2と なる」の方は「名詞1」自体は消滅せずに存続して、名詞2と一つになる合一作用を表すと述べています(引用に際して表記を改めた部分があります)。
森田氏の説くところにしたがえば、「山/池に なる」は「塵/水」が「塵/水」でなくなって、「山/池」が誕生することを表現し、「山/池と なる」は「塵/水」は、「塵/水」であることに変わりはなく、「積もった塵/溜った水」が「山/池」と一つになる、つまり、「山/池」と同じようにスケールの大きな状態に変化するということを表現していると解釈できそうです。
ことわざの「災い変じて福となる」あるいは「災い変じて福となす」についてはどうでしょうか。
「災い」そのものが「福」に変化するのではなく、災いは依然として災いであるけれども、災いの受け手が、その事態を、「福」として受け入れられるような事態が生じたり、「福」と称せるような事態を前向きに生み出したりする。
このような解釈がなりたつようにおもいます。
「土積もりて巌となる」ということわざも、同様に解釈できると思いますが、いかがでしょうか。
ことわざではありませんが、次の和歌・唱歌・演歌にみえる「露と落つ/消ゆ」「花と 散る」「炎と 燃える」はどうでしょうか。
露とをち露と消へにしわが身かな
浪速のことは夢のまた夢(豊臣秀吉の辞世)のぼりくだりの船人が
櫂の雫も花と散る(『花』、作詞:武島羽衣)アホよバカだとわらわれて
意地が心で炎と燃えた(『王将一代』、作詞:新見洋介)
これらの「露と」「花と」「炎と」はそれぞれを「露に」「花に」「炎に」とは言い換えることができないと思います。
「わが身」は「わが身」であるけれども、その栄華も命も「露と」同様、儚く、「櫂の雫」は依然「櫂の雫」であるが、その散る様子が「花と」同様うつくしい。
浪速生まれの坂田三吉の「意地」は「意地」であることに変わりはないけれども、その強さ・烈しさが「炎と」同様である。
いずれも、「位人心を極めたわが身」を「儚い露」に、「櫂の雫」を「うつくしい花」に、「坂田三吉の男の意地」を「烈しい炎」にそれぞれ見立てた表現であると解釈できます。
ことわざの中にも見える「(N1が)N2となる」も、先述のごとく、時間や状況の自然な推移のうちにN2とでもいうべき状態・事態が現れるということを表現していると考えられます。
では、ことわざ「後は野となれ、山となれ」はどうでしょうか。
「野になれ」「山になれ」と比較すれば、「野となれ」「山となれ」の意味するところが自ずとわかってくるのではないでしょうか。
阪倉篤義・堀口和吉(1981)『新修文語文法〈別記〉』(京都書房)には、助詞「と」について下記のような記述があります。
先に引用・紹介した森田氏の見解と趣旨は同様と考えますが、歴史的な観点がふくまれていますので、少々長くなりますが、引用しておきます。
「と」は、指示の副詞「と」から転じたものです。体言ないし言い切りの形を受けて、そのように、という意味で下の用言に連なるのを原則とします。「に」に次ぐ格助詞の中心的な存在です。
(略)「湯が水になる」と「湯が水となる」では、前者の場合、「湯」と
「水」の間に隙間がなく、水そのものへの変質を表すのに対し、後者は、
「湯」と「水」の間に隙間があり、水という様相を示す状態への変化を表
す、といったちがいがあると思います。「と」は、上に示す対象を引用とし
て示すという要素があるからでしょう。(略)「あり」のついたいわゆる「断定」の助動詞「なり」「たり」のちがいも、これと同様に考えられます。(前掲書pp.129―130)
大島中正【著】
―――――――――(1981)『新修文語文法〈別記〉』京都書房
森田良行(1989)『基礎日本語辞典』角川書店
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