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「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」の意味(語源由来・類義語・対義語・英語訳)
【ことわざ】
十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人
【読み方】
とおでしんどうじゅうごでさいしはたちすぎればただのひと
【意味】
いくら幼少の頃が天才だろうと、成長してしまえばただの人になるという戒め。
若い頃の才能や成果は大事やけど、それだけに頼ってちゃいかんってことや。長い人生でずっと評価されるためには、常に努力し続けることが大事やってことやな。
【語源・由来】
幼少の頃に天才的な才能を発揮し周囲から神童ともてはやされるも、その能力は幼少期だからこそ評価されるレベルであり、成長するにつれ神童と言われた能力は年齢に追いつき、ただの平凡と化してしまうことから転じてきている。
【類義語】
・六歳の神童十六歳の才子二十歳の凡人
【対義語】
・啄木鳥の子は卵から頷く
・虎子地に落ちて牛を食らうの気あり
・蛇は一寸にしてその気あり
・蛇は一寸にしてその気を得る
・蛇は寸にして人を呑む
・食牛の気
・栴檀は双葉より芳し
・大器晩成
・梅花は莟めるに香あり
・実の生る木は花から知れる
・竜の子は小さしといえども能く雨を降らす
・竜は一寸にして昇天の気あり
・良竹は生い出るより直ぐなり
【英語訳】
・A man at five may be a fool at fifteen.
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」の解説
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」ということわざは、子供の頃は特別な才能や知識があると称賛されることがあるけれど、成長して大人になると、その特別な能力が目立たなくなり、普通の人と変わらなくなるという意味を持っているんだ。
この表現は、子供の頃はその才能や特性が際立って見えるけれど、年齢を重ねるにつれて他の多くの人と同様に見られるようになるという現象を指しているんだよ。たとえば、幼い頃に数学や音楽で非常に優れていた子供も、大人になるとその才能が目立たなくなることがあるんだね。
このことわざは、子供の頃に特別な才能を持つことが、必ずしも成人しても続くとは限らないということを示しているんだ。また、成長するにつれて様々な才能や能力が平均化される傾向にあるとも言えるよ。この言葉は、若い頃の才能が大人になっても継続するためには、継続的な努力や成長が必要であることを教えてくれるんだ。
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」の使い方
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」の例文
- 十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人と言うように、過度な期待はやめよう。
- その年で超絶技巧のピアノを弾けるのは天才だが、十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人と言うように、大人になればただのピアニストである。
- あの人は十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人の代表である。
- 十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人と言われたくないため、能力の過信をせずこれまで以上努力することにした。