【故事成語】
火牛の計
【読み方】
かぎゅうのけい
【意味】
牛の角に刃を付け、尾に結んだ葦に火をつけて敵陣へ走らせ、敵軍を混乱させる戦術。


【類義語】
・火牛(かぎゅう)
「火牛の計」の故事
「火牛の計」は、中国の戦国時代に、斉(せい)の武将・田単(でんたん)が用いたと伝わる戦術から生まれた故事成語です。牛に火と刃を取り付けて敵陣へ走らせ、夜の暗闇の中で敵軍を驚かせました。
この話は、『史記(しき)』(前漢、紀元前1世紀ごろ、司馬遷著)の列伝に収められた「田単列伝」に出てきます。『史記』は、伝説上の黄帝から前漢の武帝までの歴史を、人物の伝記を中心に記した、中国最初の紀伝体の通史です。
紀元前284年、燕(えん)の将軍・楽毅(がくき)が大軍を率いて斉を攻めました。斉の城々は次々に燕へ降り、最後まで抵抗を続けたのは、莒(きょ)と即墨(そくぼく)だけになりました。
田単は、斉の王家につながる遠い一族でしたが、もとは都の市場を監督する下役で、広く名を知られた人物ではありませんでした。しかし、戦乱の中で一族を守った知恵を評価され、即墨の人々から将軍に推されます。
やがて燕の昭王が亡くなり、恵王が即位しました。田単は、恵王と楽毅の仲がよくないことを知ると、楽毅が斉の王になろうとしているといううわさを流し、燕の王に疑いを抱かせます。
恵王は楽毅を退け、代わりに騎劫(ききょう)を将軍としました。優れた指揮官を失った燕軍には不満が広がり、田単は反撃の機会を得ました。
田単は、即墨の人々の心を一つにするとともに、燕軍を油断させる策を重ねました。武装した兵を隠し、老人や女性を城壁に立たせて降伏するように装い、財物を燕の将軍へ贈って、城内には戦う力が残っていないと思わせました。
燕軍がすっかり気を緩めると、田単は城内から千頭余りの牛を集めました。牛には赤い絹の衣を着せ、そこに色鮮やかな竜の模様を描きました。
さらに、牛の角には刃物を結び、尾には油を染み込ませた葦(あし)を束ねました。そして、城壁に数十の穴を開け、夜になると葦の先に火をつけて、一斉に牛を放ちました。
尾の熱さに驚いた牛は、勢いよく燕軍へ突進しました。その後ろには五千人の兵士が続き、城内の人々も太鼓や銅の器を激しく鳴らして、大きな音を響かせました。
暗い夜に、燃える尾と竜の模様をもつ牛が突然押し寄せたため、燕軍は大混乱に陥りました。斉軍は騎劫を破り、逃げる燕軍を追って、勢力を取り戻していきました。
斉の七十余りの城は再び斉に戻り、田単は襄王(じょうおう)を都へ迎えました。その功績によって、田単は安平君(あんぺいくん)に封じられました。
司馬遷は、田単の戦いについて、「兵は正を以て合い、奇を以て勝つ」と記しています。正面から戦うだけでなく、敵の予想を超える奇策によって勝利を得るという意味で、火牛の作戦の特徴をよく表しています。
『史記』の本文には、「火牛の計」という現在の形が、そのまま書かれているわけではありません。田単が牛を集め、角に刃を付け、尾に火をつけて放った一連の行動が、後に短くまとめられ、「火牛の計」と呼ばれるようになりました。
日本では、『玉塵抄(ぎょくじんしょう)』(1563年・室町時代後期、惟高妙安著)に、「斉の田単が火牛のはかりことあり」とあります。このころには、田単の故事が「火牛のはかりこと」という日本語で語られていたことが分かります。
また、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』(鎌倉時代末期から南北朝時代ごろ成立、編者未詳)などでは、木曽義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで同じような策を用いたという伝承にも結び付けられました。ただし、この日本における火牛の戦法については、軍記物語が伝えた話として、史実かどうかを慎重に考える必要があります。
このように、火牛の計は、単に牛の尾に火をつけただけの作戦ではありません。敵の指揮官を交代させ、人々の戦う心を高め、降伏すると見せかけて油断させたうえで奇襲するという、田単の周到な計略全体を象徴する故事成語です。
「火牛の計」の使い方




「火牛の計」の例文
- 田単は火牛の計を用いて、即墨を囲んでいた燕軍を打ち破った。
- 歴史の授業で、火牛の計が夜の暗闇を利用した奇襲として紹介された。
- 少年は『史記』を読み、火牛の計に至るまでの周到な準備に驚いた。
- 博物館の展示には、火牛の計で牛の角と尾がどのように使われたかが示されていた。
- 作家は火牛の計を題材に、滅亡の危機から立ち上がる斉の人々を描いた。
- 木曽義仲が火牛の計を用いたという話は、後世の軍記物語にも伝わっている。
主な参考文献
・円満字二郎編『小学館 故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・白川静『字通』平凡社、1996年。
・司馬遷『史記』前漢、紀元前1世紀ごろ。
・惟高妙安『玉塵抄』1563年。
・『源平盛衰記』鎌倉時代末期〜南北朝時代ごろ成立。























