【故事成語】
煙霞の痼疾
【読み方】
えんかのこしつ
【意味】
自然の風景を深く愛し、旅を好む習性。とくに山水を離れがたいほど好む心を、長く治らない病にたとえた言い方。


【英語】
・love of nature(自然を愛する心)
・wanderlust(旅に出たい強い気持ち)
【類義語】
・煙霞の癖(えんかのへき)
・泉石膏肓(せんせきこうこう)
「煙霞の痼疾」の故事
「煙霞の痼疾」は、中国の歴史書『唐書』の田遊巖伝に出てくる「煙霞痼疾」という言葉にもとづきます。「煙霞」は、もやや霞、そこから美しい自然の景色を表し、「痼疾」は、長く治らない病気や、こりかたまった癖を表します。
この言葉の背景にいる田遊巖は、唐の時代の隠者です。京兆三原の人で、若いころ太学生となりましたが、のちに官の道を離れ、太白山で暮らすようになりました。
『旧唐書』(945年成立・五代後晋、劉昫ら撰)巻一百九十二「隠逸伝」には、田遊巖が林や泉に心を引かれるたびに、そこを離れられなくなったことが記されています。母や妻子も俗世の外に心を向け、田遊巖とともに二十余年、山水の中で暮らしました。
その後、田遊巖は箕山に入り、古代の隠者として知られる許由の廟の東に家を建てました。そして、自分を「許由東鄰」と名のりました。これは、古い隠者のそばに住む者という意味をこめた呼び名です。
唐の高宗が嵩山を訪れたとき、田遊巖の母を見舞うため、中書侍郎の薛元超を遣わしました。やがて高宗は田遊巖の家に近づき、山里の衣と田夫の冠をつけて現れた田遊巖に、「先生はこのごろ山中でよく過ごしているか」と尋ねました。
田遊巖は、その問いに対して「臣泉石膏肓,煙霞痼疾,既逢聖代,幸得逍遙」と答えました。分かりやすく言えば、「私は泉や石のある山水を愛する病が身の奥に入り、霞の立つ自然を愛する癖が治らないほど深く、よい時代にめぐりあって、幸いにも自由に過ごしております」という意味です。
『新唐書』(1060年成立・北宋、欧陽脩・宋祁ら撰)巻一百九十六「隠逸伝」にも、同じ場面が伝わります。そこでは田遊巖の答えが「臣所謂泉石膏肓,煙霞痼疾者」と記され、山水を愛する心が治しがたい病のように深いことを、より短い形で表しています。
「泉石膏肓」の「泉石」は、泉や石のある山水の景色を指します。「膏肓」は体の奥深く、病が入ると治しにくい所を指す言葉で、ここでは自然を愛する思いが、身の深い所まで入りこんでいることを表します。
「煙霞痼疾」も同じ考え方から出ています。煙るような霞の景色に心を奪われ、山水を離れられないほど自然を愛する心を、あえて「長く治らない病」とたとえたのです。
この答えを聞いた高宗は、田遊巖を得たことを、漢の高祖が四人の隠者を得たことになぞらえて喜びました。田遊巖は都へ招かれ、崇文館学士となりましたが、のちには再び山へ帰っています。
日本語では、「煙霞」そのものが古くから美しい景色を表す言葉として使われました。『万葉集』(8世紀後半成立)の序文には「烟霞」の例があり、『十訓抄』(1252年成立)にも、春の景色に心を引かれる意味で「煙霞」が出てきます。
また、「痼疾」は、もとは長く治らない病気の意味ですが、のちに物事に深く執着する癖の意味にも広がりました。文亀二年の『再昌草』には、「痼疾」と「烟霞」が結びついた古い用例が記されています。
「煙霞の癖」または「煙霞の痼疾」という形では、江戸時代の俳諧『幣ぶくろ』(1774年)に「これ、吾ともがら烟霞の痼疾なり」という用例があります。中国の隠者の言葉が、日本でも自然を深く愛する人の性質を表す、風雅な言い方として受け入れられていったのです。
現在の「煙霞の痼疾」は、自然の風景や旅を愛してやまない心を、やや大げさに、そして美しくいう故事成語です。単なる旅行好きというより、山水の中で心が安らぎ、自然から離れがたい人にふさわしい言葉です。
「煙霞の痼疾」の使い方




「煙霞の痼疾」の例文
- 祖父は退職後、煙霞の痼疾ともいうべき心で、各地の山や川を訪ね歩いた。
- 彼女の旅の日記には、煙霞の痼疾を思わせるほど、自然への深い愛情があふれている。
- 都会で働きながらも、週末ごとに山へ向かう彼には、煙霞の痼疾がある。
- 煙霞の痼疾にかられた父は、海辺の小さな町に移り住むことを決めた。
- 若いころから名山を歩いてきた先生は、まさに煙霞の痼疾の人だった。
- 詩人は煙霞の痼疾を抱き、霞む峰や谷川の音を生涯愛し続けた。
主な参考文献
・松村明監修、小学館大辞泉編集部編『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2005〜2006年。
・白川静著『字通 普及版』平凡社、2014年。
・劉昫ら『旧唐書』945年。
・欧陽修・宋祁ら『新唐書』1060年。
・Oxford University Press『Oxford Advanced Learner’s Dictionary』。























