【故事成語】
上の好む所、下これよりも甚だし
【読み方】
かみのこのむところ、しもこれよりもはなはだし
【意味】
上に立つ人が好み、重んじることは、下の人々がそれ以上に好み、盛んに行うようになるということ。


【英語】
・Like master, like man.(上に立つ人のあり方は、従う人にも表れる)
【類義語】
・上行下効(じょうこうかこう)
「上の好む所、下これよりも甚だし」の故事
「上の好む所、下これよりも甚だし」は、中国の思想書『孟子(もうし)』の「滕文公上」に出てくる「上有好者、下必有甚焉者矣」にもとづく故事成語です。『孟子』は、中国・戦国時代に活躍した孟子の言行や思想を、その門弟がまとめた七編の書物です。
この言葉が語られるのは、滕(とう)の定公が亡くなり、その世継ぎである文公が、父の喪に服そうとした場面です。文公は、家臣の然友(ぜんゆう)を孟子のもとへ遣わし、どのように葬儀を行うべきかを尋ねました。
孟子は、親を失ったときには自らの心を尽くすべきであり、天子から庶民まで、三年間の喪に服する礼があったと答えました。文公はその教えを受け、父のために三年間の喪を行うことを決めました。
ところが、年長の一族や役人たちは、これまで滕や、その手本としてきた魯の君主もその礼を行っていないとして、反対しました。昔から続いていない儀礼を、文公の代になって急に始めるべきではないと考えたのです。
文公は、かつて学問に励まず、馬を走らせたり剣を試したりして過ごしていたため、自分が人々から十分に信頼されていないのではないかと悩みました。そこで、然友を再び孟子のもとへ遣わし、どうすれば一族や役人の心を動かせるのかを尋ねました。
孟子は、解決をほかの人に求めてはならず、文公自身の行いに求めるべきだと答えました。君主が心から悲しみ、粗末な食事を取り、深い哀悼の姿を示せば、役人たちもその姿に動かされ、悲しむようになると説いたのです。
その説明の中に、「上有好者、下必有甚焉者矣」とあります。上に立つ人が好み、重んじるものがあれば、下の人々の中には、それを上の人以上に熱心に行う者が、必ず現れるという意味です。
ここでいう「好む」は、単なる趣味や好き嫌いだけを指すのではありません。上に立つ人が大切にし、実際の行動によって示すものを広く表します。また、「甚だし」は、下の人がそれをいっそう強く行うことを表します。
孟子は続けて、上に立つ人の徳を風に、下の人々の徳を草にたとえました。風が吹けば草がなびくように、上に立つ人の行動は、人々の態度を大きく動かすという教えです。
文公は、「まことに自分自身の問題である」と悟り、五か月にわたって喪のための仮小屋に住み、命令も出さず、父を失った悲しみを行動で示しました。葬儀の日には各地から人々が訪れ、文公のやつれた顔と心からの涙を見て、その深い孝心に感じ入りました。
同じ考え方は、古代の礼についてまとめた『礼記(らいき)』の「緇衣」にも出てきます。そこでは、下の者は上の者の命令よりも実際の行動に従うため、上に立つ人は、自分の好悪を慎まなければならないと説いています。
日本でも、この思想に通じる表現が、早くから政治の戒めとして使われました。『建武式目(けんむしきもく)』(1336年・南北朝時代、中原章賢ら答申)には、君主が贈り物や珍しい品を好めば、周囲も追随するという文脈で、「上の好む所、下必ずこれに随ふ」と記されています。
その後、「上有好者、下必有甚焉者矣」という漢文は、「上の好む所、下これよりも甚だし」という簡潔な日本語の形で定着しました。現在では、良い手本が広がる場合にも使えますが、とくに、上の人の好みを下の人が必要以上にまね、風潮や弊害が生じることへの戒めとして用いられます。
「上の好む所、下これよりも甚だし」の使い方




「上の好む所、下これよりも甚だし」の例文
- 校長があいさつを大切にしたところ、児童たちが競うように声を張り上げ、上の好む所、下これよりも甚だしとなった。
- 部長が細かな形式を重んじるため、部員は内容以上に書式へこだわり、上の好む所、下これよりも甚だしの様相を呈した。
- 社長が売上高ばかりを評価すると、社員まで目先の数字だけを追い始め、上の好む所、下これよりも甚だしとなりかねない。
- 監督が基礎練習を率先して続けたため、選手たちも以前より熱心に取り組み、良い意味で上の好む所、下これよりも甚だしとなった。
- 王が華やかな衣服を好むと家臣たちはさらに豪華な装いを競い、上の好む所、下これよりも甚だしとなった。
- 責任者の何気ない好みが組織全体の風潮を変えることを、上の好む所、下これよりも甚だしは教えている。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・『孟子』中国・戦国時代。
・『礼記』中国・前漢ごろ成立。
・中原章賢ら『建武式目』1336年。
・塙保己一編『群書類従 第十五輯』経済雑誌社、1894年。























