【故事成語】
会稽の恥
【読み方】
かいけいのはじ
【意味】
敗戦によって受けた恥辱。また、他人から受けた、忘れがたいひどい屈辱。


【英語】
・a bitter humiliation(深い屈辱)
【類義語】
・城下の盟(じょうかのちかい)
【対義語】
・雪辱(せつじょく)
・雪恥(せつち)
「会稽の恥」の故事
「会稽の恥」は、中国の春秋時代、越(えつ)の王であった勾践(こうせん)が、呉(ご)の王であった夫差(ふさ)に敗れ、会稽山で追い詰められた故事にもとづく言葉です。『史記』(前漢、司馬遷撰)は、上古から前漢の武帝の時代までを記した中国の代表的な通史で、その「越王句踐世家」にこの話が出てきます。
物語の前段には、呉王闔廬が越との戦いで傷を負い、死に際に子の夫差へ「必ず越を忘れるな」と言い残したことが記されています。夫差はその恨みを晴らすため兵を整え、やがて越王勾践を夫椒で破り、勾践は残った五千の兵とともに会稽山へこもります。そこへ呉軍が追いかけて包囲したことが、「会稽の恥」の直接の背景です。
会稽山で追い詰められた勾践は、范蠡(はんれい)に相談します。范蠡は、低い言葉と厚い礼物で呉に願い出るよう勧め、勾践は大夫の文種を呉へ送り、「勾践は臣となり、妻は妾となる」とまで申し出ます。これは、王としての誇りを大きく傷つける、たいへん屈辱的な降伏でした。
『史記』には、呉が越を許して勾践が国へ帰った後、勾践が苦い胆(きも)をそばに置き、起き伏しや食事のたびにそれを嘗(な)め、「女忘會稽之恥邪」と自分に問いかけたとあります。これは、「おまえは会稽の恥を忘れたのか」という意味で、勾践が会稽山で受けた屈辱を忘れず、いつか取り返そうとした場面です。
勾践はその後、自ら田を耕し、夫人にも機を織らせ、肉を多く食べず、華やかな衣服も重ねず、賢人をへりくだって迎え、貧しい人や死者の家を助け、民と苦労をともにしたと記されています。ここで「会稽の恥」は、ただ恥ずかしい思いをしたというだけでなく、国を立て直すために忘れてはならない屈辱として描かれています。
やがて勾践は、長い年月をかけて呉を攻める機会をうかがいます。『史記』では、会稽から帰って七年後にも呉への報復を考え、さらに時を待ったことが記されています。その後、越は呉を大きく破り、最後には夫差を姑蘇の山に追い詰めます。
最終的に、越は呉を平定し、勾践は諸侯から認められるほどの地位を得ます。さらに『史記』は、范蠡が勾践と二十余年深く計画を立て、ついに呉を滅ぼして「會稽之恥」を報いた、と記しています。ここから、「会稽の恥」は、敗戦や屈辱そのものを指すとともに、その恥を忘れず、後に名誉を取り戻そうとする文脈でも強く用いられるようになりました。
日本語の古い用例としては、『吾妻鏡』(治承四年・1180年八月二十四日条)に「盍雪会稽之恥哉」とあり、屈辱を晴らす意味で「会稽之恥」が用いられています。この用例からも、日本では早くから、ただ恥を受けるだけでなく、その恥をいつかすすぐという発想とともに受け入れられていたことが分かります。
「会稽の恥」の使い方




「会稽の恥」の例文
- 昨年の大会で初戦敗退したことを、チームは会稽の恥として胸に刻んだ。
- 大事な発表で準備不足を指摘されたことは、彼にとって会稽の恥となった。
- 会社は入札で大敗した会稽の恥を忘れず、新しい企画を練り直した。
- 決勝で大差をつけられた会稽の恥を、選手たちは次の試合への力に変えた。
- あの失敗は会稽の恥だが、そこから学べば必ず成長につながる。
- 地域の代表として敗れた会稽の恥を晴らすため、町のチームは一年かけて練習した。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・白川静『字通』平凡社、1996年。
・司馬遷『史記』前漢。
・『吾妻鏡』鎌倉時代。























