【故事成語】
狂夫の言も聖人之を択る
【読み方】
きょうふのげんもせいじんこれをえらぶ
【意味】
愚かな者の言葉にも役立つ内容が含まれることがあり、賢い人は話し手を軽んじず、その中からよい部分を選び取るということ。


【英語】
・A fool may give a wise man counsel.(愚かな者が賢い者に知恵を与えることもある)
【類義語】
・愚者にも一得(ぐしゃにもいっとく)
・千慮の一得(せんりょのいっとく)
「狂夫の言も聖人之を択る」の故事
「狂夫の言も聖人之を択る」は、中国の歴史書『史記(しき)』(前漢、前91年ごろ草稿完成、司馬遷著)の「淮陰侯列伝(わいいんこうれつでん)」に出てくる言葉です。「狂夫」は愚かな者や道理に外れた者を表し、「聖人」は知恵と徳を備えた優れた人物を指します。「之」は、直前の「狂夫の言」を受け、「これ」と読みます。
物語の背景は、劉邦(りゅうほう)と項羽(こうう)が天下を争った楚漢戦争です。漢の将軍である韓信(かんしん)は、前204年、趙(ちょう)を攻めるため、井陘口(せいけいこう)という山中の狭い道へ軍を進めました。趙は大軍を集め、韓信を迎え撃とうとしていました。
趙の兵法家である広武君(こうぶくん)李左車(りさしゃ)は、漢軍の弱点を正確に見抜いていました。井陘の道は狭く、軍の食糧や荷物は本隊より後ろに延びるため、自分に三万の兵を与えて補給路を断たせ、趙の本隊が陣を固めて直接戦わなければ、漢軍を進退できない状態へ追い込めると進言しました。
しかし、趙軍の指揮官は、正面から堂々と戦うべきだと考え、広武君の案を採用しませんでした。韓信は、その案が退けられたと知って喜び、川を背にして兵を並べる「背水の陣」と伏兵を組み合わせ、趙軍を破りました。
韓信は、戦いの前から広武君の能力を高く評価しており、兵士たちに、広武君を殺さず生け捕りにするよう命じていました。捕らえられた広武君が連れて来られると、韓信はその縄を解き、上座に座らせ、自分の先生として礼を尽くしました。
韓信は広武君に、次に北の燕(えん)と東の斉(せい)を従わせるには、どうすればよいかと尋ねました。広武君は初め、「敗軍の将は勇を語ることができず、滅びた国の家臣は国を存続させる策を論じられない」と辞退しました。自分は敗者であり、勝者である韓信に意見を述べる資格はないというのです。
それでも韓信は、広武君の案が用いられていたなら、自分はすでに捕らえられていただろうと述べ、重ねて教えを求めました。人の知恵は、その人がどちらの側にいたかではなく、意見が正しく用いられるかどうかによって価値を発揮すると、韓信は考えたのです。
そこで広武君は、「智者千慮、必有一失。愚者千慮、必有一得。故曰、狂夫之言、聖人択焉」と述べました。どれほど賢い人でも、多く考えるうちには誤りがあり、愚かな者でも、多く考えれば役立つ知恵を得ることがある。だから聖人は、狂夫の言葉からもよいものを選ぶ、という意味です。
原文では、この句の前に「故曰」、すなわち「ゆえに言う」とあります。そのため、広武君がその場で作ったというより、すでに伝わっていた言い方を引き、自分を「愚者」に、韓信を「智者」に見立て、控えめに意見を述べた形です。
広武君は、疲れた兵をすぐに燕へ攻め込ませず、まず武器を収めて休ませ、征服した趙の人々をいたわるよう勧めました。そのうえで、韓信の強さと実績を使者に伝えさせれば、燕は戦わずに従い、斉もその勢いを見て服するだろうと説きました。
韓信は「善し」と答えてその案を採用し、使者を燕へ送りました。すると、燕は韓信の威勢に従いました。敗者の言葉だからと退けず、役立つ知恵を選び取った韓信の行動そのものが、「狂夫の言も聖人之を択る」の教えを表しています。
この言葉は、後漢の歴史書『漢書(かんじょ)』(82年ごろ成立、班固著)にも出てきます。そこでは、忠告を受け入れるよう相手に促す手紙の結びに用いられており、戦いの策だけでなく、どのような人の忠告にも、採るべき内容があり得るという教えへ広がっていたことが分かります。
日本語では、「狂夫の言も聖人之を択ぶ」という表記も用いられ、「之」を「これ」、「択ぶ」を「えらぶ」と読みます。大切なのは、どのような言葉でも無条件に信じることではありません。話し手への先入観を離れ、内容をよく吟味し、正しい部分だけを選び取る知恵を説いた故事成語です。
「狂夫の言も聖人之を択る」の使い方




「狂夫の言も聖人之を択る」の例文
- 委員長は、狂夫の言も聖人之を択るという姿勢で、一年生の提案にも丁寧に耳を傾けた。
- 父は狂夫の言も聖人之を択ると考え、幼い弟が示した近道を地図で確かめた。
- 監督は狂夫の言も聖人之を択るを心に留め、補欠選手が指摘した守備の弱点を見直した。
- 社長は狂夫の言も聖人之を択るという教えに従い、新入社員の改善案を採用した。
- 防災計画を作る際には、狂夫の言も聖人之を択るの精神で、住民一人一人の声を検討する必要がある。
- 研究者は狂夫の言も聖人之を択るを忘れず、対立する立場から示された批判にも目を向けた。
主な参考文献
・佐竹秀雄・武田勝昭・伊藤高雄編、北村孝一監修『故事俗信ことわざ大辞典 第二版』小学館、2012年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・北村孝一編『ことわざを知る辞典』小学館、2018年。
・司馬遷『史記』前91年ごろ。
・班固『漢書』82年ごろ。























