【故事成語】
越鶏は鵠卵を伏する能わず
【読み方】
えっけいはこくらんをふくするあたわず
【意味】
人の才能や力には限りがあり、その力を超えた大きなことを求めても無理であること。


【英語】
・beyond one’s capacity(人の能力を超えている)
【類義語】
・蟷螂の斧(とうろうのおの)
【対義語】
・蚊虻牛羊を走らす(ぶんぼうぎゅうようをはしらす)
「越鶏は鵠卵を伏する能わず」の故事
「越鶏は鵠卵を伏する能わず」は、中国の古典『荘子』「庚桑楚」に出てくる言葉にもとづきます。『荘子』は、中国の戦国時代の思想書で、現行本は三十三編からなり、荘周とその後学の著作とされています。
「庚桑楚」には、庚桑子と、道を学ぼうとする南榮趎とのやりとりが出てきます。南榮趎が教えを求めると、庚桑子は、自分の力では相手を十分に導けないとして、老子のもとへ行くようにすすめます。
その場面で、庚桑子は「奔蜂不能化藿蠋,越雞不能伏鵠卵,魯雞固能矣」と述べます。これは、小さな蜂には大きな虫を変化させられず、越の鶏には白鳥の卵を抱いてかえすことはできないが、魯の鶏ならできる、という意味です。
ここで大切なのは、同じ鶏であっても、できることとできないことがある、という点です。『荘子』の本文は、鶏どうしの性質がまったく違うのではなく、その才には大小があると述べ、能力の大小と役目の重さとの関係を示しています。
「越鶏」は、体の短小な鶏を指す言葉として説明されます。「鵠」は天鵞、つまり白鳥を指し、「伏」は卵の上に伏して温め、ひなをかえすことを表します。
小さな鶏が大きな白鳥の卵を温めようとしても、体の大きさも力も足りません。この具体的な鳥のたとえから、力の小さい者に大きすぎる役目を負わせても、うまくいかないという意味が生まれました。
この言葉は、単に「努力しても無駄だ」と冷たく言い切るためのものではありません。人にはそれぞれ持ち分があり、力に合わない任務を与えれば、本人も周囲も苦しくなるという戒めを含んでいます。
後代の『劉子』「均任」でも、この言葉は、才能や器量と任務の重さを合わせる文脈で用いられています。そこでは、越鶏が小さいために鵠卵を伏せられないことを引き、知恵の小さい者に大きなはかりごとを任せる危うさを述べています。
また、『藝文類聚』(624年・唐、欧陽詢ら撰)にも、鳥に関する項目の中で「越雞不能伏鵠卵」という形が引かれています。『藝文類聚』は、唐の高祖の命により編まれた類書で、多くの文献から事物に関する言葉や詩文を集めた書物です。
さらに、後代の学習書『幼学瓊林』巻四「鳥獸」には、「小難制大,如越雞難伏鵠卵」とあります。小さいものが大きいものを制するのは難しい、という教えとして、この表現が短く分かりやすい形で受け継がれています。
日本語では、「越雞は鵠卵を伏す能わず」という形でも辞書類に収められています。「伏す」と「伏する」は言い方の違いがありますが、どちらも卵を抱いてかえすという意味をもとにしています。
現在の「越鶏は鵠卵を伏する能わず」は、能力に見合わない大きなことを求めてもかなわない、という意味で用います。人を小さく見るためではなく、役目と力のつり合いを見きわめることの大切さを伝える故事成語です。
「越鶏は鵠卵を伏する能わず」の使い方




「越鶏は鵠卵を伏する能わず」の例文
- 入社したばかりの社員に大きな取引を一人で任せるのは、越鶏は鵠卵を伏する能わずというものだ。
- 初心者に全国大会の優勝をすぐ求めても、越鶏は鵠卵を伏する能わずで、まず基礎を固める必要がある。
- 小さな団体だけで大規模な事業を抱え込むのは、越鶏は鵠卵を伏する能わずの危うさがある。
- 難しい曲を始めたばかりの子に完璧に弾かせようとするのは、越鶏は鵠卵を伏する能わずに近い。
- 経験の浅いリーダーに大人数の組織を急に任せれば、越鶏は鵠卵を伏する能わずとなりかねない。
- 家庭でも学校でも、越鶏は鵠卵を伏する能わずを忘れず、本人の力に合った役割を考えることが大切だ。
主な参考文献
・佐竹秀雄・武田勝昭・伊藤高雄編、北村孝一監修『故事俗信ことわざ大辞典 第二版』小学館、2012年。
・松村明監修、小学館大辞泉編集部編『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・『重編國語辭典修訂本』中華民国教育部、2021年。
・『荘子』成立年代未詳。
・劉晝『劉子』南北朝。
・欧陽詢ら撰『藝文類聚』624年。
・『幼学瓊林』。
・Cambridge University Press『Cambridge English Dictionary』。























