【故事成語】
空谷の跫音
【読み方】
くうこくのきょうおん
【意味】
孤独なときに、思いがけない訪問や便り、理解者を得る喜びのたとえ。


【類義語】
・空谷の足音(くうこくのそくおん)
「空谷の跫音」の故事
「空谷」は人のいない寂しい谷、「跫音」は人の足音です。この表現のもとには、中国の戦国時代に形づくられた思想書『荘子(そうじ)』の「徐無鬼(じょむき)」篇にある話があります。『荘子』は、荘周とその後学の著作とされ、寓話を交えながら、人間の生き方や心の自由を説く書物です。
徐無鬼という隠者は、女商の取り次ぎで、魏(ぎ)の武侯(ぶこう)に会いました。武侯は、山林で苦しい暮らしをしてきた徐無鬼をねぎらいますが、徐無鬼は、むしろ欲望や好悪の感情に苦しむ武侯をねぎらうために来たのだと答えます。武侯は、その言葉を聞いても返事をしませんでした。
しばらくすると、徐無鬼は、犬や馬の良し悪しを見分ける方法について話し始めました。すると、それまで笑顔を見せなかった武侯が大いに喜び、声を上げて笑いました。
女商は、これを不思議に思いました。自分は『詩』『書』『礼』『楽』などを引きながら武侯を説得してきたのに、武侯が笑ったことは一度もなかったからです。そこで徐無鬼に、どのような話をして、武侯をこれほど喜ばせたのかと尋ねました。
徐無鬼は、故郷の越(えつ)を追われた人を例に挙げました。国を離れて数日なら知人を見て喜び、数か月たつと、故郷で見かけたことのある人を見ただけでも喜び、一年にもなると、人に似た姿を目にするだけでうれしくなると語ります。人から遠ざかっている期間が長いほど、人を恋しく思う気持ちも深くなるということです。
続いて徐無鬼は、「夫逃虚空者……聞人足音跫然而喜矣」と述べました。人里を離れた空しい場所に逃れ、草に覆われた獣道のそばで暮らす者は、だれかの足音が響くのを聞いただけでも喜ぶ、という意味です。まして、兄弟や親戚の声やせき払いがすぐそばで聞こえれば、その喜びはさらに大きくなります。
徐無鬼は、このたとえを武侯の置かれた境遇に重ねました。長い間、武侯のそばには、本当のことを率直に語る人がいなかったため、飾り気のない話を耳にしただけでも、孤独な人が足音を聞いたときのように喜んだのだと述べたのです。ここから、人とのつながりを失っているときに、思いがけず理解者や心の通う相手を得る喜びを表すようになりました。
『荘子』の原文では、現在の「空谷の跫音」という形が、そのまま使われているわけではありません。「虚空」という人けのない場所と、「人足音跫然」という響く足音の描写が、後に「空谷」と「跫音」を結び付けた簡潔な表現へとまとまったものです。
明初の文人である宋濂の『宋学士文集』に収められた「進賢朱府君碣」には、「不亦空谷跫音之可喜乎」とあります。正しい政治が衰えた土地に、忠実に人を助ける人物が現れることを、静かな谷に響く足音の喜びにたとえており、この時代には「空谷跫音」というまとまりで、得がたく喜ばしい人物や働きを表すようになっていました。
日本語の古い例としては、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』(1814〜1842年・江戸時代後期、曲亭馬琴著)に、「空谷跫音(クウコクキャウオン)の思ひあり」とあります。これは、思いがけず人と対面し、昔をしのぶ喜びを述べた場面であり、中国古典のたとえが、人との再会を喜ぶ表現として日本語に取り入れられていたことが分かります。
さらに、甲賀三郎の『キビキビした青年紳士』(1927年)では、優れた作品を「創作探偵小説界に於ける空谷の跫音」と表しています。こうして、人の訪問や便りだけでなく、まれに現れる貴重な意見・作品・助力などを喜ぶ場合にも、用いられるようになりました。現在も、孤立した心に届く人の気配や言葉のありがたさを、寂しい谷に響く一つの足音に重ねる表現です。
「空谷の跫音」の使い方




「空谷の跫音」の例文
- 長く病床にいる祖父に届いた旧友の手紙は、空谷の跫音となった。
- 会議で孤立していた彼にとって、一人の賛成意見は空谷の跫音だった。
- 廃止寸前の図書館に支援の申し出が届き、職員は空谷の跫音の思いを抱いた。
- 異国で一人暮らす留学生には、故郷の友人の訪問が空谷の跫音に感じられた。
- だれにも理解されない研究を続けるなか、専門家からの励ましは空谷の跫音だった。
- 過疎の診療所に若い医師が赴任するとの知らせは、住民にとって空谷の跫音となった。
主な参考文献
・小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・金谷治訳注『荘子 第四冊 雑篇』岩波書店、1983年。
・宋濂『宋学士文集』。
・曲亭馬琴『南総里見八犬伝』1814〜1842年。
・甲賀三郎『キビキビした青年紳士』1927年。























