【ことわざ】
眼裏に塵あって三界窄し
【読み方】
がんりにちりあってさんがいすぼし
【意味】
心に少しでも迷いやこだわりがあると、世の中の本当の姿を正しく見ることができないというたとえ。


【類義語】
・木を見て森を見ず(きをみてもりをみず)
【対義語】
・傍目八目(おかめはちもく)
「眼裏に塵あって三界窄し」の語源・由来
「眼裏に塵あって三界窄し」の「眼裏」は、目の中、眼の内を意味します。目に小さな塵が入ると、広い景色もぼやけて見えにくくなることから、心にわずかな迷いがあるだけで、世の中のありさまを広く正しく見ることができなくなる、というたとえになっています。
「三界」は、仏教で欲界・色界・無色界の三つの世界を指す言葉です。迷いの中に生きるものがめぐる世界を表す語ですが、このことわざでは、広く世の中全体、また、人が生きる世界全体を思わせる語として働いています。
この言い方のもとには、仏教、とくに禅の考え方に通じる発想があります。外の世界が急に狭くなるのではなく、見る人の心に迷いやとらわれがあるために、広い世界まで狭く見えてしまう、という見方です。
同じ趣旨の句は、夢窓疎石(むそうそせき)の「山居」の詩に出てきます。夢窓疎石は、1275年から1351年に生きた、鎌倉時代後期から南北朝時代の臨済宗の僧で、漢詩や庭園でも知られています。
その詩には、「眼裏、塵有れば、三界窄く、心頭、無事なれば、一床寛し」という句があります。心に塵のようなとらわれがあれば世界は狭く感じられ、心が静かであれば一つの寝床でさえ広く感じられる、という対比になっています。
この対比で大切なのは、「狭い」「広い」が、場所の広さだけを表しているのではない点です。同じ世界にいても、心が乱れていれば窮屈に感じ、心が落ち着いていればゆったり受け止められる、という心のあり方を説いています。
日本語の古い用例としては、謡曲『清経』(1430年ごろ・室町時代、世阿弥作)に、「眼裏に塵あって三界窄く、心頭無事にして一床寛し」という形が出てきます。『清経』は、平家一門の運命を悲しんで入水した平清経の霊が、妻の夢の前に現れる能の作品です。
『清経』では、妻が夫の死を嘆き、清経の霊が夢の中に現れて、自分の死や修羅道の苦しみを語ります。そのような、夢と現実、苦しみと救いが重なる場面で、この句が用いられています。
このことわざは、単に「心配すると見えにくくなる」という軽い意味ではありません。怒り、恨み、不安、思い込みなどが心に入ると、目の前の事実までゆがんで見え、広いはずの世界を狭く受け取ってしまうという、深い戒めを含んでいます。
現在では、仏教的な文脈だけでなく、日常の判断にも使われます。友人の一言を悪く受け取りすぎるとき、失敗への不安で全体が見えなくなるとき、思い込みで相手の真意を見失うときなどに、心の塵を払って広く見る大切さを伝えることわざです。
「眼裏に塵あって三界窄し」の使い方




「眼裏に塵あって三界窄し」の例文
- 失敗を恐れる気持ちが強すぎると、眼裏に塵あって三界窄しで、できる方法まで見えなくなる。
- 友人の短い返事を冷たいと決めつけるのは、眼裏に塵あって三界窄しの見方だ。
- 怒りに任せて相手の話を聞かない状態は、まさに眼裏に塵あって三界窄しである。
- 試合前の不安で仲間の助言まで悪く受け取るのは、眼裏に塵あって三界窄しに当たる。
- 一つの悪い評判だけで全体を判断すれば、眼裏に塵あって三界窄しになりかねない。
- 大切な決定をするときほど、眼裏に塵あって三界窄しにならないよう、心を落ち着ける必要がある。
主な参考文献
・小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年。
・松村明監修『デジタル大辞泉』小学館。
・ブリタニカ・ジャパン『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・ジャパン。
・大和田建樹著『謡曲評釈 第七輯』博文館、1908年。
・世阿弥『清経』1430年ごろ。
・夢窓疎石『夢窓国師語録』1354年序。























