【故事成語】
曲肱の楽しみ
【読み方】
きょっこうのたのしみ
【意味】
貧しく簡素な生活の中にもある、心からの楽しみ。


【類義語】
・箪食瓢飲(たんしひょういん)
・一箪の食一瓢の飲(いったんのしいっぴょうのいん)
「曲肱の楽しみ」の故事
「曲肱の楽しみ」は、春秋時代末の思想家・孔子の言葉を集めた『論語(ろんご)』の「述而(じゅつじ)」に由来します。『論語』は孔子自身が書いた著作ではなく、その言行を弟子たちが伝え、戦国時代から前漢にかけて文章として形を整えていった書物です。
原文には、「飯疏食、飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣」とあります。書き下すと、「疏食(そし)を飯(くら)い、水を飲み、肱(ひじ)を曲げて之(これ)を枕とす。楽しみ亦(また)其の中に在り」となります。粗末な食事をし、飲み物は水だけで、ひじを曲げて枕の代わりにするような暮らしであっても、その中には楽しみがあるという意味です。
「疏食」は、伝わる本文によって「蔬食」とも書かれます。古い注釈には、野菜中心の食事とする解釈があり、南宋の朱熹(しゅき)がまとめた『論語集注(ろんごしっちゅう)』では、粗末な飯と解しています。いずれの解釈でも、ぜいたくな料理ではない簡素な食事を指す点は共通しています。
「肱」は腕やひじの辺りを指し、「曲肱」は腕を曲げて自分の枕にすることです。立派な寝具を用いず、自分の腕を枕にして休む姿によって、住まいや持ち物に恵まれない質素な生活を具体的に表しています。
孔子の言葉は、ここで終わりません。続いて、「不義而富且貴、於我如浮雲」とあります。これは、人として正しくない方法で手に入れた富や高い地位は、自分にとって空に浮かぶ雲のようなものであり、心を動かされるほどの価値はないという意味です。
この前半と後半を合わせると、孔子が貧しさそのものを喜んでいたのではないことが分かります。正しい道を外れて豊かになるよりも、質素であっても自分の信じる生き方を守るところに、失われない楽しみがあると説いているのです。
北宋の思想家・程頤(ていい)は、この一節について、粗末な食事や水そのものを楽しんでいるのではなく、そのような境遇にあっても、孔子の本当の楽しみは変わらないのだと解きました。物の豊かさが楽しみを生むのではなく、正しい道に従って生きる心が楽しみのもとになるという理解です。
南宋の朱熹は、程頤の言葉を『論語集注』に取り入れました。『論語集注』は十三世紀以降、東アジアで広く読まれたため、「曲肱」の楽しみを、単なる貧乏暮らしの気楽さではなく、どのような境遇でも正しい道を失わない精神的な喜びとして捉える解釈が受け継がれました。
日本語の「曲肱の楽しみ」は、原文にある「曲肱」と「楽しみ亦其の中に在り」とを結び付けた表現です。「曲肱之楽」と書く形もありますが、対象語の形では、ひじを枕にするほど簡素な生活の中にある楽しみを、やわらかい日本語で表しています。
したがって、「曲肱の楽しみ」は、苦しい生活を無理に美化する言葉ではありません。財産や地位だけを幸福のよりどころとせず、正しい生き方、学び、家族とのつながりなど、物の多さでは量れない喜びを大切にする姿勢を表す故事成語です。
「曲肱の楽しみ」の使い方




「曲肱の楽しみ」の例文
- 質素な住まいで読書に親しむ祖父は、曲肱の楽しみを知る人だった。
- 収入は少なくても家族で食卓を囲めることに、彼は曲肱の楽しみを見いだしていた。
- ぜいたくを求めず研究に打ち込む学者の生活には、曲肱の楽しみがあった。
- 退職後は小さな畑を耕しながら、曲肱の楽しみを味わう日々を送っている。
- 財産よりも正しい生き方を選んだ彼の姿は、曲肱の楽しみを思わせる。
- 曲肱の楽しみを大切にするなら、持ち物の多さだけで幸福を判断してはならない。
主な参考文献
・小学館大辞泉編集部編、松村明監修『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・朱熹『論語集注』13世紀。
・『論語』「述而」。























