【ことわざ】
青柿が熟柿弔う
【読み方】
あおがきがじゅくしとむらう
【意味】
自分もやがて相手と同じような身になるのに、先に不幸にあった相手を弔うこと。弔う者と弔われる者に大きな差はないことのたとえ。


【類義語】
・五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)
「青柿が熟柿弔う」の語源・由来
「青柿(あおがき)」は、まだ熟していない青い柿の実です。「熟柿(じゅくし)」は、よく熟して柔らかくなった柿を指します。青柿はいつまでも青いままではなく、時がたてば熟柿となっていきます。
このことわざは、木に残っている青柿が、先に熟して落ちた熟柿を弔う場面を思い描かせます。しかし、弔っている青柿も、やがては熟して落ちる身です。先に落ちた実と、まだ枝に残る実との違いは、根本の違いではなく、ほんの時の差にすぎないという見方が、この言葉の土台となっています。
現在の形に近い言い方に先立ち、「熟柿が熟柿を弔う」という表現が、浮世草子『竹斎狂歌物語』(1713年・江戸時代中期)下に出てきます。そこでは、かつての勢いを失った人々の姿を前に、語り手自身もまた同じような境遇にあることを述べる流れの中で、この表現が使われています。
この古い形では、弔う側も弔われる側も「熟柿」です。そのため、ここで強く示されるのは、同じような境遇にある者が、相手の不幸を慰めるという意味です。自分だけは別の立場にいるつもりでも、実際には相手と大きく違わないという考えが、すでに表されています。
一方、「青柿が熟柿弔う」という形は、『それぞれ草(それぞれぐさ)』(1715年・江戸時代中期、乙州著)中に出てきます。そこでは、人がいつしか世を去ってゆくありさまを、青柿が熟柿を弔う世の中になぞらえており、先に落ちた者を弔う者も、やがて同じ道をたどるという、人の命のはかなさが表されています。
「熟柿が熟柿を弔う」では、弔う者と弔われる者の境遇の近さが前面に出ています。それに対して、「青柿が熟柿弔う」では、まだ若く、まだ落ちていないように思える者も、いずれ熟して落ちるという時間の移り変わりが、より鮮やかに示されています。近い時期の文献にこの二つの形が書かれていることから、熟した柿が落ちる姿を人の身に重ねる発想が、言い方を変えながら用いられていたことが分かります。
江戸時代中期の談義本『風流志道軒伝』(1763年)二には、老いた者も若い者も、身分の高い者も低い者も、風に落ちる熟柿のように、結局は落ちずにすむものはないという趣旨の表現が出てきます。熟柿が落ちる姿は、人が老いや死を免れないことを表すたとえとして、後の作品にも用いられていました。
このように、「青柿が熟柿弔う」は、青い実もやがて熟して落ちるという身近な姿を、人の境遇や命の移り変わりに重ねたことわざです。相手の不幸を自分とは無縁のもののように眺める前に、自分もまた同じ道から遠くないことを思うよう促す言葉として受け継がれています。
「青柿が熟柿弔う」の使い方




「青柿が熟柿弔う」の例文
- 同じ病気で通院する父が、入院した友人を見舞いながら、青柿が熟柿弔うという言葉を静かに口にした。
- 七十点の兄が六十八点の弟の答案を気の毒がるのは、青柿が熟柿弔うというものだ。
- 暮らし向きの苦しい家が、先に困窮した隣家を哀れむ様子は、青柿が熟柿弔うに当たる。
- 自分も同じ失敗を重ねているのに、友人の失敗を責める姿は、青柿が熟柿弔うに等しい。
- 高齢の仲間の葬儀から帰った祖父は、青柿が熟柿弔うのことわざを思い出し、残る日々を大切にしようと決めた。
- 同じ弱みを抱える者が一方だけを見下すとき、青柿が熟柿弔うという戒めが当てはまる。
主な参考文献
・小学館『精選版 日本国語大辞典』小学館。
・『竹斎狂歌物語』1713年。
・乙州『それぞれ草』1715年。
・『風流志道軒伝』1763年。























