【故事成語】
虚舟舟に触るとも人怒らず
【読み方】
きょしゅうふねにふるともひといからず
【意味】
心をむなしくして私心をまじえずに行動すれば、人の感情を害することがないということ。


【類義語】
・無私(むし)
・虚心坦懐(きょしんたんかい)
【対義語】
・我執(がしゅう)
「虚舟舟に触るとも人怒らず」の故事
「虚舟舟に触るとも人怒らず」のもととなるたとえは、中国の古典『荘子(そうじ)』の外篇「山木(さんぼく)」に出てきます。現在伝わる『荘子』は、戦国時代の思想家荘周に結び付く文章を中心に、後の学派による文章も含んだ三十三篇の書物で、「山木」は外篇に属します。
このたとえは、世の中の名誉や所有への執着を減らし、自分をむなしくして生きることを説く場面に置かれています。本文には、「方舟而濟於河、有虛船來觸舟、雖有惼心之人不怒」とあります。舟で川を渡っているとき、誰も乗っていない空の舟が流れてきて自分の舟にぶつかっても、心の狭い怒りっぽい人でさえ腹を立てない、という意味です。
ところが、ぶつかってきた舟に一人でも人が乗っていると、反応は大きく変わります。こちらの人は、舟を寄せたり離したりするよう何度も呼びかけ、それでも返事がなければ、ついには荒々しい言葉で相手を責めます。同じように舟がぶつかったのに、空舟には怒らず、人が乗っている舟には怒るのです。
『荘子』は、その違いを「向也不怒而今也怒、向也虛而今也實」と表します。先ほど怒らなかったのは相手の舟が空だったためであり、今怒るのは人が乗っているためだ、という意味です。人は損害そのものだけでなく、その背後に、自分へ害を加えた相手の意思があると思うと、怒りや恨みを抱きやすくなることを示しています。
この話は、単に「空の舟には怒っても仕方がない」と教えるだけではありません。末尾には、「人能虛己以遊世、其孰能害之」とあります。自分を空舟のようにむなしくし、名誉や手柄を求めて我を張らずに世の中を生きれば、誰がその人を害することができるだろうか、と説いています。
同じ趣旨のたとえは、『淮南子(えなんじ)』(前漢、紀元前二世紀、劉安編)の「詮言訓(せんげんくん)」にも出てきます。そこでは、空の舟が流れてきて自分の舟を転覆させても、怒りやすい人は恨む顔を見せない一方、人が乗っていれば、何度も呼んだ末に悪口を浴びせると述べています。そして、「人能虛己以游於世、孰能訾之」と結び、自分をむなしくして世を生きれば、誰が非難できるだろうかと説いています。
『荘子』と『淮南子』の本文では、空の舟を「虚船」と記す形があります。日本語では、同じく空の舟を表す「虚舟」が用いられ、原文の「空舟が舟に触れても人は怒らない」という部分をまとめた形が、「虚舟舟に触るとも人怒らず」です。
日本では、「虚舟」という言葉自体が早くから受け入れられました。『菅家文草(かんけぶんそう)』(900年ごろ・平安時代前期、菅原道真著)には、人や荷物のない舟を表す用例があり、『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』(1060年ごろ・平安時代中期、藤原明衡編)には、心にわだかまりがないことを「虚舟之心」と表した用例があります。空の舟という具体的な意味から、私心や執着のない心を表す比喩へと広がっていたことが分かります。
森鴎外の『鴎外漁史とは誰ぞ』(明治33年、森鴎外著)にも、「荘子に虚舟の譬がある」とあります。鴎外は、自分が文壇で地位を争う者ではないため、何を言っても人の怒りを招かない境遇を、誰も乗っていない虚舟になぞらえました。この用例では、名声や争いから身を引いた人のあり方を表しています。
このように、「虚舟舟に触るとも人怒らず」は、空舟には悪意も自己主張もないため、人が怒りを向けないというたとえから生まれました。そこから、自分の利益や名誉に執着せず、我を張らない心で人と接すれば、恨みや反発を招かずに世の中を歩んでいけるという教えを表すようになりました。
「虚舟舟に触るとも人怒らず」の使い方




「虚舟舟に触るとも人怒らず」の例文
- 委員長は自分の手柄を誇らず、虚舟舟に触るとも人怒らずの教えどおり、皆の意見を穏やかにまとめた。
- 父は自分の考えを押し付けず、虚舟舟に触るとも人怒らずを心に留めて、家族の話を聞いた。
- 虚舟舟に触るとも人怒らずというように、彼女は功績を独り占めせず、仲間への感謝を忘れなかった。
- 部長は虚舟舟に触るとも人怒らずを座右の言葉とし、立場を振りかざさずに部下と接した。
- 地域の代表者は、虚舟舟に触るとも人怒らずの心で双方の要望を聞き、対立を和らげた。
- 交渉では虚舟舟に触るとも人怒らずを忘れず、個人の面目よりも全体の利益を優先した。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・尚学図書編『故事ことわざの辞典』小学館、1986年。
・『荘子』戦国時代から漢代にかけて成立。
・劉安編『淮南子』前漢、紀元前2世紀。
・菅原道真『菅家文草』900年ごろ。
・藤原明衡編『本朝文粋』1060年ごろ。
・森鴎外『鴎外漁史とは誰ぞ』1900年。























