【故事成語】
機は得難くして失い易し
【読み方】
きはえがたくしてうしないやすし
【意味】
好機はめったに巡ってこず、たとえ巡ってきても、ためらったり油断したりすればすぐに逃してしまうということ。


【英語】
・Opportunity never knocks twice.(好機は二度とは訪れない)
【類義語】
・時は得難くして失い易し(ときはえがたくしてうしないやすし)
「機は得難くして失い易」の故事
「機は得難くして失い易し」の「機」は、物事を行うのに都合のよい時、すなわち機会や時機を指します。もととなった『史記』の本文では「機」ではなく「時」と書かれており、この「時」を、「好機」という意味が明確に伝わる「機」に置き換えた形が、現在の表現です。
この言葉につながる記述は、前漢の司馬遷が著した『史記(しき)』(前漢、紀元前1世紀)の「斉太公世家」と「淮陰侯列伝」に出てきます。二つの場面は、人物も時代も異なりますが、どちらも、訪れた時機を逃さず行動することの大切さを表しています。
「斉太公世家」では、周の武王が殷を滅ぼしたのち、太公望(たいこうぼう)を斉に封じたとあります。太公望は自分の領地へ向かいましたが、旅の歩みは遅く、途中の宿でゆっくり眠っていました。
その様子を見た宿の者は、「吾聞時難得而易失」と言いました。「時は得難くして失い易いと聞いている」という意味であり、領地へ急いで赴くべき者が、のんびり眠っていてよいのかと忠告したのです。
太公望はこの言葉を聞くと、夜のうちに衣服を整えて出発し、明け方には斉へ到着しました。その直後、隣接する萊(らい)の君主が攻め寄せ、斉の領地を争おうとしたため、太公望が少しでも遅れていれば、その地を奪われていたおそれがありました。
この場面では、好機は待っていてくれるものではなく、決断が遅れれば失われてしまうことを、太公望の行動によって示しています。忠告を受けてすぐに出発したからこそ、太公望は自分の領地を守ることができました。
同じ考え方は、「淮陰侯列伝」にもいっそう強い言葉で記されています。漢の名将である韓信(かんしん)が斉を平定し、漢の劉邦(りゅうほう)と楚の項羽(こうう)の争いを左右するほどの大きな力を持ったとき、説客の蒯通が韓信に独立を勧めました。
蒯通は、功績を成し遂げるのは難しく、失敗するのはたやすいと説いたうえで、「時者難得而易失也。時乎時、不再来」と述べました。「好機は得難く失いやすい。時は一度去れば、二度とは戻ってこない」という意味です。
しかし韓信は、劉邦に背くことをためらい、自分には大きな功績があるため、斉王の地位を奪われることはないだろうと考え、蒯通の勧めを退けました。ここでは、決断できないまま迷い続けることが、機会を失う原因として描かれています。
その後、韓信は斉王から楚王へ移され、さらに淮陰侯へと地位を下げられ、最後には呂后の計略によって命を落としました。処刑される直前、韓信は「吾悔不用蒯通之計」と述べ、蒯通の計略を用いなかったことを悔やんでいます。
原典の「時」は、物事を行うのにふさわしい時機を表すとともに、過ぎ去れば戻らない時間そのものにも通じます。一方、「機は得難くして失い易し」という形では、「機」が好機や機会を指すため、訪れた好機を逃さず行動せよという意味が、よりはっきりと表れます。
「機」を用いた形は、昭和2年、すなわち1927年の『聖州新報』の不動産広告にも使われています。そこでは、土地の購入を望む人に決断を促す言葉として「機は得難くして失い易し」と掲げられており、この時代にはすでに、好機を逃さないよう勧める表現として用いられていました。
このように、「機は得難くして失い易し」は、太公望が忠告を聞いて直ちに行動した話と、韓信が迷った末に時機を逃した話の、両方の場面に重なる表現です。好機を見分けるだけでなく、それが訪れたときに決断し、行動へ移すことの大切さを伝えています。
「機は得難くして失い易」の使い方




「機は得難くして失い易」の例文
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- 試合終了直前に訪れた好機を逃した選手は、機は得難くして失い易しという言葉の重みを知った。
主な参考文献
・小学館『デジタル大辞泉』。
・公益財団法人日本漢字能力検定協会編『漢検 漢字辞典 第二版』日本漢字能力検定協会、2014年。
・司馬遷『史記』前漢。
・『聖州新報』1927年7月22日。























