【故事成語】
苦肉の策
【読み方】
くにくのさく
【意味】
敵を欺くために、自分や味方を苦しめてまで行う計略。転じて、苦しまぎれに考え出した手立て。


【英語】
・a desperate measure.(追い詰められた状況で採る手段)
【類義語】
・窮余の一策(きゅうよのいっさく)
「苦肉の策」の故事
「苦肉の策」は、明代に成立した中国の長編歴史小説『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に描かれた「苦肉計」に由来します。『三国志演義』は、陳寿の史書『三国志』をもとに、講談や説話、劇などの要素を加えて物語化した作品で、羅貫中の作と伝えられています。
舞台となるのは、三世紀初めの赤壁(せきへき)の戦いです。中国北部から大軍を率いて南下した曹操(そうそう)に対し、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍は、少ない兵力で立ち向かっていました。
孫権軍の武将である黄蓋(こうがい)は、曹操軍の船を火で攻める作戦を周瑜(しゅうゆ)に提案します。そのためには、黄蓋が味方を裏切って曹操のもとへ降伏するように見せかけ、火を積んだ船を曹操軍へ近づけなければなりませんでした。
しかし、ただ降伏を申し出るだけでは、曹操に疑われるおそれがあります。そこで周瑜は、黄蓋が自ら進んで偽りの降伏を申し出たと見抜かれないよう、黄蓋を人々の前で厳しく罰し、二人が本当に仲たがいしたように見せることにしました。
『三国志演義』第四十六回には、周瑜が黄蓋に「君若肯行此苦肉計」と告げる場面があります。黄蓋が自分の体を傷つける苦しみに耐え、敵を欺く計略を実行してくれるなら、孫権軍にとってこの上ない幸いである、という意味です。
黄蓋は周瑜に逆らったように振る舞い、兵士たちの前で棒による重い罰を受けます。そして、その傷を降伏の証拠として曹操に信じ込ませ、曹操軍へ偽りの降伏を申し入れました。
曹操軍が黄蓋の降伏を信じて船を迎え入れると、黄蓋は火を積んだ船に火を放ちました。風にあおられた炎は曹操軍の船や陣地へ燃え広がり、孫権・劉備の連合軍は大きな勝利を収めます。第四十七回にも、この一連の作戦を指して「黃蓋用苦肉計」と記されています。
ただし、物語のすべてが史実として記録されているわけではありません。『三国志』(西晋、三世紀末、陳寿著)には、黄蓋が降伏を装って火船を曹操軍へ近づけ、船団を焼いたことは記されていますが、周瑜が黄蓋を棒で打つ場面は記されていません。自ら傷を負って敵を欺くという劇的な筋立ては、『三国志演義』で詳しく描かれたものです。
後世の兵法集『三十六計(さんじゅうろっけい)』にも、「苦肉計」は第三十四計として収められています。そこでは、敵から信用を得るため、わざと自分を傷つける計略を指します。
日本では、「苦肉の策」より先に、「苦肉の謀」という形の古い用例があります。川柳集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』初篇(1765年・江戸時代中期、呉陵軒可有編)には、「ゆび切るも実は苦肉のはかりごと」とあり、自分の体を傷つけて相手に真心を信じさせようとする行為を表しています。戦場の計略に限らず、人を欺くために自ら苦痛を負う行為へと用法が広がっていたことが分かります。
「苦肉の策」という形の古い用例としては、山本有三の戯曲『同志の人々(どうしのひとびと)』(大正12年、山本有三著)に、「親友をも、あやめるくらいの苦肉の策を講じなくては」とあります。大きな目的を果たすため、親しい者を犠牲にするほどつらい手段を採らなければならないという文脈です。
その後、「自分を傷つけて敵を欺く」というもとの意味から、やむを得ず自分側にも損害や負担を伴う方法を採ること、さらに、考えあぐねた末にひねり出した手段を指す用法へと広がりました。現在は後の意味で使われることが多いものの、単なる名案ではなく、ほかに良い方法がないために採る苦しい選択を表す故事成語です。
「苦肉の策」の使い方




「苦肉の策」の例文
- 台風で校庭が使えず、運動会を体育館で学年別に開くのは苦肉の策だった。
- 夕食の材料が足りず、残り物を一つの鍋にまとめたのは母の苦肉の策だった。
- 文化祭の看板が壊れ、段ボールで作り直したのは苦肉の策にすぎなかった。
- 会場を確保できなかった主催者は、苦肉の策として催しをオンラインで配信した。
- 深刻な人手不足を補うため、管理職も配送に加わる苦肉の策が採られた。
- 水不足が続いたため、自治体は夜間の断水という苦肉の策を講じた。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・小学館大辞泉編集部編、松村明監修『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・湯浅邦弘『孫子・三十六計』角川学芸出版、2008年。
・『三国志演義』明代。
・陳寿『三国志』三世紀末。
・呉陵軒可有編『誹風柳多留』初篇、1765年。
・山本有三『同志の人々』1923年。























