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この記事では、特に注目すべき重要な漢籍の内容を厳選し、五十音順で詳しく解説いたします。
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目次
「あ行」故事ことわざの主要出典解説一覧
晏子春秋(あんししゅんじゅう)
『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』は、中国春秋時代の斉の名宰相、晏嬰(あんえい)の言行を集録した書で、8編からなる200章以上の説話が収められています。
霊公・荘公・景公の3代の君主に仕えた晏嬰の言行を基に、後世の人々が編集したものです。成立年代には諸説ありますが、春秋期ではなく、ほぼ戦国期の斉(前386‐前221)で晏嬰の名を冠して編成されたとされる。
初めて『晏子春秋』に関する記録が言及されたのは、紀元前2世紀後半の司馬遷の『史記』で、この時代には多くの学者がそのテキストのコピーを持っていたと伝えられています。
前漢の劉向によって、30巻あった説話集が8巻に再編集され、現代に伝えられています。1972年に山東省で大量の竹簡「銀雀山漢簡」が発見され、これによって『晏子春秋』の説話の初期の存在が確認されました。
内容としては、儒家の仁政や墨家の兼愛・倹約の思想を取り入れたもので、事実を元にした記録よりも歴史小説的な要素が強いとされます。
易経(えききょう)
『易経』は、古代中国の重要な経典であり、五経の一つです。英訳名は「Book of Changes」として知られます。
易経は、64の卦からなる占いの理論と方法を説く書籍で、八卦の組合せに基づく卦の意味を説明する「卦辞」と、各卦を構成する6本の爻の意味を説明する「爻辞」の2編が主要な経本文として存在します。これに10の解釈文献、通称「十翼」と呼ばれる部分が加えられています。
本書は、古代の占いの理論と実践をまとめたもので、陰陽の対立と統合を中心に、宇宙の変化の法則を解説しています。古代の占いは、現在のものとは異なり、非常に重大な意味を持ち、政治や共同体の存亡に関わる決定を行う際の指針とされました。
伝承によれば、易経の卦画は伏羲、卦辞は周の文王、爻辞は周公、そして「伝」は孔子が著したとされますが、実際の成立に関しては明確ではありません。
易経は、古来から存在する占術に関する「象数易」と、より哲学的な解釈に焦点を当てる「義理易」の2つの主要な流派に分けられます。
易経は、中国の歴史や哲学、人々の生活観や世界観に大きな影響を与え、中国思想史において極めて重要な位置を占めています。
淮南子(えなんじ)
『淮南子』(えなんじ、又はわいなんし)は、前漢時代に淮南王劉安(紀元前179年 – 紀元前122年)が多数の学者を集めて編纂させた思想書です。
原文は内書21編、外書33編から成るとされていますが、現存しているのは内書の21編のみです。
この著作は、道家思想を基盤としつつ、儒家、法家、陰陽家の思想も取り入れており、一般的には雑家の書として分類されます。
内容は、治乱興亡、天文、地形、古代中国人の宇宙観など、多岐にわたる知識を総合し、全体を道家思想で統一・体系化しようとしたものです。
また、注釈として後漢の高誘による『淮南鴻烈解』や許慎による『淮南鴻烈間詁』が存在します。
『淮南子』は、前漢初期の道家思想を理解する上で重要な文献として、後世の学問や文化に大きな影響を与えました。
塩鉄論(えんてつろん)
『塩鉄論』は、前漢の桓寛によって編纂された著作で、10巻60編からなります。
この書は、前漢の武帝時代に塩、酒、鉄の専売制をめぐる政策とその是非に関する討論をまとめたものです。
武帝の時代、匈奴との対外戦争の影響で財政が急悪化し、桑弘羊の提案により塩、鉄、酒の専売制や、平準法、均輸法という財政政策が導入されました。
これらの政策の実施により財政は一時的に立て直され、桑弘羊は昇進も果たしました。
しかし、これらの政策は民間に大きな影響を及ぼし、儒学者や商人から批判が起きました。武帝の死後、大将軍霍光がこれらの政策を修正しようと試みる中、桑弘羊らの反対も強く、実際には大きな変更は行われませんでした。
この状況を背景に、昭帝の始元6年(紀元前81年)に宮廷で開かれた討論会、通称「塩鉄会議」が開催されました。
この会議には、賢良や文学と称される民間の有識者60名が参加し、政府高官と激しい議論を交わしました。内容は財政問題から外交、内政、教育問題にまで及びましたが、結果的には現状維持が決められ、前漢末期までこれらの政策が続行されました。
『塩鉄論』は、この塩鉄会議での討論を記録にしたものであり、当時の政治、経済、文化、学問の状況を知る上で非常に貴重な文献となっています。
「か行」故事ことわざの主要出典解説一覧
管子(かんし)
『管子』は古代中国の思想書で、斉の名宰相管仲に仮託されていますが、実際には複数の著者による内容とされています。
この書は戦国時代から漢代にかけて徐々にまとめられ、原文には86篇があったとされていますが、現存するのは76篇です。
内容は非常に多岐にわたり、法家、道家、陰陽家、兵家、儒家、雑家などのさまざまな学派の思想が反映されています。
具体的には、経済、陰陽、地理、礼、医学、政治などの分野が含まれており、それぞれがさまざまな篇に分類されています。
『漢書』では『管子』を「道家」として分類していますが、『隋書』以降は「法家」に分類されることが多くなりました。その一方で、宋代の陳振孫はこの書物を法家に分類することに疑問を持っていました。
『管子』の内容は複数の篇に分かれており、それぞれが異なる学派や思想的立場を持つ人たちの著作を集めています。
そのため、実質的には雑家の著作とも言えます。特に有名な言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」というものがあります。
現在の『管子』の構成は非常に複雑で、成立の経緯や散逸した篇もあるため、完全には解明されていません。
しかし、その内容は様々な分野の思想が扱われており、歴史や経済学、さらには農業や医学などの多岐にわたる学問の史料として重視されています。
韓詩外伝(かんしがいでん)
『韓詩外伝』は、中国前漢の韓嬰(かんえい)による10巻からなる書物です。
この書は、古代の教訓的説話や警句を集め、それらを『詩経』の詩句と関連付けて編集されたもので、説話集に近い性格を持ちます。
韓嬰は、前漢の文帝や景帝に仕えた人物であり、彼は『詩』の内伝と外伝を著述しました。特に、武帝の前で董仲舒との論争があった際、韓嬰の議論は非常に明晰であり、董仲舒は反論することができなかったと言われています。
『詩経』に関する学問として、前漢の時代には三家詩(さんかし)という3つの学説が確立されました。それは、轅固生の斉詩、申公の魯詩、そして韓嬰の韓詩です。
この三家詩は、現行の毛詩が古文であるのに対し、今文に属しています。
『韓詩外伝』は、『詩経』とは直接的な関連があるわけではなく、多様な故事や事柄を述べる中で、関連しそうな『詩経』の句を引用しています。
さらに、『易経』『書経』『論語』『老子』などの他の古典をも参照して説明する箇所が存在します。また、『韓詩外伝』に収録されている多くの故事は、他の文献、特に『荀子』からも引用されています。
しかし、韓嬰が著した『韓詩内伝』は時代を経る中で散逸し、現在伝わっているのは『韓詩外伝』のみとなっています。
顔氏家訓(がんしかくん)
『顔氏家訓』は、中国北斉の顔之推による家訓の書で、全7巻から成ります。
顔之推は南朝梁に生まれ、様々な困難を経験しながらも、最終的に北斉に仕えました。
成立は正確には明らかでないものの、589年以降、特に590年代の作と推測されます。
この書では、顔之推が自らの深い教養を背景に、子孫に向けて学問の修養、質実な家庭生活、そして乱世を乗り越えるための心構えを指南しています。
彼の理念は、質実剛健な家庭生活で、時代の変遷に流されない生活態度を持つこと。
その背景には、彼自身の多岐にわたる人生経験が影響しており、この書は後世においても「家訓」という言葉として代名詞的な存在となりました。
『顔氏家訓』は、単に家族内の教訓を説くだけでなく、江南と華北の家庭生活、風俗、儀礼、学術、宗教など多岐にわたる知識を提供する一冊となっており、後の時代において家訓の先駆けとして仰がれました。
日本にも早く伝わり、文化や教養の影響を与えました。
漢書(かんじょ)
『漢書』(かんじょ)は、中国の正史の一つで、前漢の歴史を詳細に記した書物です。班固が主に著述し、後漢の時期に編纂されました。
しかし、班固は完成前に亡くなったため、その未完の部分は妹の班昭と馬続によって完成されました。全120巻からなり、「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、そして「志」10巻を含んでいます。
『漢書』は、司馬遷の『史記』の後を継ぐ形で、班彪が『後伝』を執筆したことが始まりです。その後、班彪の子である班固が『史記』と『後伝』を基に整理・補充を行い、『漢書』の制作に取り掛かりました。
この歴史書は、初めて断代史(一つの王朝に特化した歴史書)の形式を採用し、後の正史編纂の基準となりました。
『史記』とは違い、『漢書』は歴史の記録に重点を置いており、詔や上奏文を直接引用しているため、詳細性と正確性においては『史記』を上回っています。
しかし、物語としての面白みは『史記』の方が強いとされます。『漢書』は儒教的な視点で統一されており、その中には1世紀前後の日本(倭)に関する記述も含まれています。
このような背景と内容から、『漢書』は二十四史の中で『史記』と並び称される重要な歴史書として位置づけられています。
韓非子(かんぴし)
『韓非子』は中国戦国時代の法家、韓非の著書で、春秋戦国時代の思想と社会を深く分析したものです。
韓非は中国思想史の全盛期、百家争鳴の時代に活躍した政治家で、彼の主張は権力の保持と扱い方に重点を置いています。
儒家の荀子から学びながらも、礼による徳化ではなく、法による規制を強調しました。彼の背景には、戦国末期の国家間の激しい戦いと、君主権力の変遷がありました。
この時代、君主の権限は多くの士大夫や遊説の徒へと広がり、国の統治が多様化していました。しかし、権力が分散しすぎると国そのものが危機に陥ることも。
韓非は、法によって君主の権力を一元化し、国を強化すべきだと主張しました。 この思想は、彼の出身国である韓よりも、秦の始皇帝によって特に高く評価されました。事実、秦はこの法家思想を取り入れ、強大な帝国を築き上げました。
『韓非子』自体は、20巻55編からなる論文集で、法治主義を強調しています。
彼の認識では、君主と人民の利害は必ずしも一致しないため、法による規制と賞罰をもって操縦するべきであり、法の権威を保持するためには批判を許さない姿勢が必要とされました。
魏書(ぎしょ)
『魏書』は、中国の正史の中の一つで、北魏の歴史を記録した書籍です。
北斉の文宣帝の勅命により、魏収が中心となって編纂し、554年に完成しました。全114巻から成り、帝紀12、列伝92、志10に分けられています。
完成後には多くの異論が出たため、魏収自身によって内容が改訂されました。
北朝、隋、唐の時代に多数の北魏に関する史書が書かれましたが、今日に残っているのはこの『魏書』のみです。
しかしながら、現行の『魏書』には欠脱部分も多く、宋代以降の『北史』などでその内容が補完されています。
旧唐書(くとうじょ)
『旧唐書』(くとうじょ)は、中国の歴史書の一つで、二十四史に数えられます。
唐の時代、すなわち618年から907年までの出来事を記述しており、五代後晋の時代に劉昫らによって編纂されました。
この書の成立は945年で、本紀20、志30、列伝150の合計200巻から成り立っています。
初めは『唐書』という名前で呼ばれていましたが、後に『新唐書』が編纂されたため、それと区別するために『旧唐書』と呼ばれるようになりました。
編纂の過程には問題も多く、特に初唐に関する情報が多く、晩唐に関する記述が薄いという点や、後晋が滅ぶ直前に完成したため、一つの事実に対して複数の伝が記述されるなどの問題が見られました。
このような理由から、後世の評価は必ずしも高くはありませんでした。しかし、多くの原資料をそのまま使用しているため、資料としての価値は非常に高いとされています。
特筆すべきは、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」という2つの記述が存在しており、これに関する記述は、後の宋代の『太平御覧』にも引き継がれています。
日本において、これらの二つの国の記述の違いや、国号変更の背景については、様々な説や見解が存在しており、議論の対象となっています。
景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)
『景徳伝灯録』は、中国北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史で、全30巻から成り立っています。
この書は、過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧やその他の僧侶の伝記を収録しており、俗に「1,700人の公案」とも称されるものの、実際に伝のある人物は965人です。
1004年(景徳元年)に道原が朝廷に上呈した後、楊億等の校正を経て1011年に公にされました。この書名は、公開された年号から名付けられたものです。『景徳伝灯録』の公表後、中国禅宗では燈史の刊行が続き、それは公案へと発展しました。
現在でも、この書は禅宗研究の代表的な資料として重要視されていますが、内容には史実と異なる部分も存在することが指摘されています。
撰者については、一説に拱辰が編集し、後に道原がこれを取得して提出したとも言われていますが、この説は中国の仏教学者陳垣によって否定されています。
孝経(こうきょう)
『孝経』は、中国の経書で、十三経の一つとされる重要な文献です。
この経書は1巻から成り立っており、孔子とその弟子である曽子が儒教の重要概念「孝」について問答する形式を取っています。この問答を曽子の門人が記述したと言われています。
『孝経』は主に孝道を理論的根拠とし、封建社会の家族中心の道徳を説くものです。
ここでの「孝」は、徳の根本として位置づけられ、天子から庶民までのすべての階層での行動原理とされています。この孝経は、中国古代の道徳や倫理の普及に大きく寄与してきました。
テキストには「古文孝経」と「今文孝経」という二つの系統が存在しています。古文孝経は、漆書蝌蚪の古文字で書かれたもので、今文孝経は漢代通用の隷書で記されています。
今文孝経は18章から構成されており、古文孝経は22章からなるものです。
作者については複数の説が存在します。孔子本人の作とする説、曽子を作者とする説、さらには曽子の門人を作者とする説など、多くの解釈がなされています。
何れにせよ、この経書は中国の歴史や文化において、そして日本を含む多くの国々での精神形成に大きな影響を与えてきたのは間違いありません。
孔子家語(こうしけご)
『孔子家語』は、孔子の言行や逸話を集録した書籍で、略して『家語』とも称されます。『漢書』芸文志には27巻として記載されていましたが、この原書は早い時期に亡失したと考えられています。
現存する『孔子家語』は10巻44篇から成るもので、三国魏の王粛が偽作したとされています。王粛の主な目的は、後漢の鄭玄の学説を反駁するためでした。
唐・宋時代から学者たちによってこの偽作の事実は知られていましたが、『孔子家語』は多くの古事や遺説を収めているため、広く読まれてきました。
現行本の文章の多くは、『左伝』『国語』『孟子』『荀子』『大戴礼記』『礼記』などの古籍と一致しており、そのため、古籍の校訂資料としても利用されています。
呉越春秋(ごえつしゅんじゅう)
『呉越春秋』は、中国春秋時代の呉・越両国の興亡に関する歴史書で、10巻からなります。著者は後漢の趙曄(ちょうよう)で、彼はかつて越国に属していた地域の出身であり、生涯官職に就かなかった人物です。
他にも著作が存在したとされるものの、『呉越春秋』以外は現存していません。
この書は、前半5巻が呉の歴史を、後半5巻が越の歴史を扱っており、特に呉の闔閭・夫差、越の勾践に関する記述が中心となっています。
現行の『呉越春秋』の版は、元々12巻であったとされるものを、唐の皇甫遵が校訂し注釈を付けたものと言われています。
ただし、呉と越の間で発生した重要な戦いの一部(特に呉王闔閭の戦死やその後の呉王夫差による越への勝利)が記載されていない点が特筆されます。
後漢書(ごかんじょ)
『後漢書』は、中国の後漢時代の歴史を詳細に記述した史書で、二十四史の一部として知られています。
全120巻から構成されており、本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の学者范曄によって執筆されました。志の30巻は西晋の司馬彪が書いた『続漢書』から採用されています。
後漢の歴史を収める試みは、後漢当時から始まっていました。当初は『東観漢記』として多数の人々により編纂され、これは古くから「三史」の一つとして広く知られていました。
しかし、その記述には制約があり、一貫性に欠けるとの指摘も存在していました。その後、異なる学者たちによって後漢の歴史を記した多数の『後漢書』が執筆されました。
范曄は、これらの先行資料を基にして、後漢の歴史を完全にまとめ上げることを目指しました。彼の独自の文章技巧や取捨選択により、『後漢書』の特色が形成されました。
しかし、彼は志の部分を書き終えることができず、その後、南朝梁の劉昭が司馬彪の『続漢書』の志を追加して、現在知られる形の『後漢書』を完成させました。
最後に、『後漢書』の中で後漢末期の記述は、『三国志』と多くの部分で重複していますが、『三国志』が先に成立しており、その時点から100年以上も前のものである点が特筆されます。
五灯会元(ごとうえげん)
『五灯会元』は、中国南宋代に大川普済により1252年に編纂された20巻から成る禅宗の灯史です。この書は、以下の5種の灯史を総合する形で編纂されました。
- 『景徳伝灯録』
- 『天聖広灯録』
- 『建中靖国続灯録』
- 『聯灯会要』
- 『嘉泰普灯録』
これら5種の灯史は、皇帝の勅許を得て入蔵され、『五灯会元』の名前はこの5つの灯史を統合したことを意味しています。
この作品は禅宗の通史として特別な位置を占め、後に禅の系統からは禅宗の系譜だけでなく、仏教全体の歴史を記した『仏祖歴代通載』や『釈氏稽古略』といった著作の編纂のきっかけとなりました。
その背景には、禅宗が仏教界を牽引する立場となった時代状況と、他の仏教宗派との競合が影響していたと考えられます。
清代には、この『五灯会元』の続編として『五灯会元続略』(1651年、遠門浄柱撰)や『五灯全書』(1693年、霽崙超永撰)が編纂されました。
古列女伝(これつじょでん)
『列女伝』(別名:《古列女伝》)は、中国前漢の劉向によって編纂された女性の史伝を集めた歴史書で、女性の理想を示す唯一の教訓書とされています。
元々は7篇からなる劉向の原著でしたが、後に上下に分け、劉歆の撰とされる頌1巻を追加し、15巻構成となりました。
この書には、曹大家(班昭)の註が加わったものの、その後、多くの註が散逸しました。現在流布している版は、南宋の蔡驥による再編本で、原著の7巻に頌文を分けて追加し、さらに『続列女伝』を組み入れた8巻構成となっています。
過去には、漢の班昭や馬融、呉の虞韙の妻趙氏、東晋の綦毋邃らが注釈を施しましたが、それらは失われました。
しかし、清代には、王照円の『古列女伝補注』や顧広圻の『古列女伝考証』、梁端の『列女伝校注』といった注釈が存在します。また、日本でも明治時代に松本万年が『参訂劉向列女伝』という注釈を施しました。
「さ行」故事ことわざの主要出典解説一覧
菜根譚(さいこんたん)
『菜根譚』(さいこんたん)は、明末の儒者洪応明(洪自誠、字は自誠、また還初道人とも号す)による随筆集で、中国古典の一つです。
成立年は明確ではありません。この作品は前集222条、後集135条、合計357条から構成されています。前集では人々との交わりや世間のことを、後集では山林や自然の趣き、退隠閑居の楽しみを中心に説いています。
書名の『菜根譚』は、宋の汪信民の言葉「人能く菜根を咬みえば、則ち百事なすべし」という考えに基づいています。
これは、菜根のように堅く筋が多いものを味わい深く咬むことができる人は、物事の真実を理解できるという意味を持っています。
思想的には、儒教、仏教、道教の教えを融合した三教合一の立場で書かれており、それぞれの教えを交えた独特の内容となっています。また、二つの版本が存在し、日本で広まったのは洪自誠本です。
日本においては、明治時代以降も多くの人々に愛読され、処世の教訓として特に重視されました。田中角栄や吉川英治、川上哲治、野村克也など、多くの著名人が愛読していました。
三国志(さんごくし)
『三国志』は、中国の後漢末期から三国時代(180年頃 – 280年頃)の興亡史を述べた歴史書で、著者は西晋の陳寿(233年 – 297年)です。
この時代には蜀・魏・呉の三国が争覇しました。この史書は65巻からなり、魏志30巻、蜀志15巻、呉志20巻を包含します。
特に魏志には本紀が存在し、他の部分に志や表はありません。陳寿の作品は魏を正統としており、そのため後世で蜀を正統とする考えがある一部の人々からは批判の対象となりました。
しかし、資料の批判が厳密で、三国への記述が公平であることから、正史の中でも高く評価されています。
南朝宋の裴松之は、『三国志』に詳細な注を追加しました。彼の注は多くの散逸した書籍を含んでおり、陳寿の原文と比較することで、その資料批判の厳格さが明確になります。
また、魏志巻30には「東夷伝」が含まれ、日本に関する最古の記録「倭人伝」が存在します。
一方、『三国志演義』は明代に成立した歴史小説で、陳寿の『三国志』を元にしています。歴史書と小説としての『三国志』の主要な違いは、歴史書が魏を正統とするのに対して、小説では蜀漢を正統としています。
『演義』は、歴史上の事実を基にしながらも、蜀漢や諸葛亮の知恵、関羽の義を強調して描かれています。
このように、『三国志』は歴史書としての価値を持ちつつ、後の時代には小説や説話としても広く受け入れられ、その世界は日本を含む多くの国々で愛されてきました。
三略(さんりゃく)
『三略』は、中国の古代兵法書で、「武経七書」の一つとして知られています。この書は上略、中略、下略の3部構成となっており、その名前の由来となっています。
伝承では、周の太公望が著述し、神仙の黄石公が選録したものとされています。一説には、黄石公が土橋の上で漢の張良にこの書を授けたとも言われています。
しかしながら、『三略』の中には殷や周の時代には存在しないはずの騎馬戦の言及や、「将軍」という語彙の使用などの矛盾点が見られるため、後世の人物が太公望や黄石公の名を借りて作成した偽書である可能性が指摘されています。
『三略』は老荘思想を基調とし、治国平天下の大道から戦略や政略の原則について述べています。名言として「智を使い、勇を使い、貪を使い、愚を使う」という言葉があり、これは指導者がどのような者であっても上手く利用する能力が求められることを示しています。
また、日本における『三略』のエピソードとして、戦国武将の北条早雲が、『三略』の一節「夫れ主将の法は、務めて英雄の心を攬り、有功を賞禄し、志を衆に通ず」と聞き、それだけで十分だと学者の講義を中止させたという伝承があります。
日本へは、遣唐使の上毛野真備によって初めて伝わりました。『三略』は、同じ太公望の著述とされる『六韜』と並び称されることが多く、「六韜三略」とも言われます。
史記(しき)
『史記』は、前漢の武帝の時代に司馬遷が編纂した中国最初の正史です。
計130巻からなり、黄帝から前漢武帝までの歴史を紀伝体で記述しています。
内容は12本紀、10表、8書、30世家、70列伝となっており、それぞれ歴代王朝の皇帝の記録、年表、文物や制度の変遷、有力諸侯の年代記、そして様々な人物の伝記を収めています。この形式は、後の中国の正史の基礎となりました。
著者の司馬遷は、代々「太史公」という史官の家系出身で、天文、暦法、占星などの史官業務を家族とともに担っていました。
彼の父、司馬談は歴史の記録整理を行う中で、自らの著書を持つことを計画していましたが、その計画を完成させる前に亡くなりました。司馬遷は父の意志を継ぎ、太史令として史官の記録や宮廷の図書館の書物をもとに資料を集め、前91年頃に『史記』の執筆を完成させました。
この書は、正史の第一として二十四史の中で『漢書』と並び、文学的価値も高く評価される歴史書であり、日本においても古くから読まれ、元号の出典としても12回採用されています。
詩経(しきょう)
『詩経』(しきょう)は、中国最古の詩集で、305篇からなります。
これは、西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)にかけての時期に作られ、男女や農民、貴族、兵士、猟師といったさまざまな人々によって詠まれたものとされています。
元々は口承で伝わっていたが、春秋時代前期に書き記されて成書化したと考えられています。
大きく「風」「雅」「頌」の3部に分けられ、特に「風」は15の「国風」に細分化され、黄河沿いの国々の民謡を中心にしています。
「雅」は「大雅」と「小雅」に分かれ、周の朝廷の宴会で歌われたものや建国伝説を詠んだ長編叙事詩を含む。「頌」は「周頌」「魯頌」「商頌」に分けられ、祖先の廟前で奏された神楽(かぐら)と考えられるものです。
この詩集は、儒教の経典としても非常に重要視されており、儒家の教育や経典としての位置付けから中国の支配層や士大夫層の基本的な教養として学ばれてきました。
特に漢代から近世にかけて多くの解釈が生まれ、経典としての価値が高まっていきました。
伝統的な説としては、孔子が三千以上の詩から厳選して305篇に編纂したとも言われていますが、この説には異議も存在します。
また、歌謡を採取する役人が存在し、皇帝がそれを通じて各地の風俗や政治の状況を知り、統治に役立てたという説もあります。
一方で、具体的な成立過程は明確でなく、さまざまな説や学説が存在しますが、戦国時代には現行の体裁に近い『詩経』が存在していたことは確認されています。
資治通鑑(しじつがん)
『資治通鑑』(しじつがん)は、中国北宋時代の歴史書で、編年体を採用した294巻から成る大作です。司馬光が主導し、1065年に着手し、1084年に完成しました。
もともとは『通志』という名称で、神宗皇帝から『資治通鑑』という名前を賜りました。この名は、「政治の参考となるもの」という意味を持っています。
収録範囲は紀元前403年の戦国時代の始まりから959年の五代後周末までの1362年間です。歴史の事績を明らかにし、将来の皇帝や政治家への参考となることを意図して名付けられました。
内容は、当時の300を超える多種多様な史料を基にして、司馬光の儒教的歴史観をもとに編集されています。
『資治通鑑』は、司馬光が古代の儒教経典『春秋』を参考にしながら、編年体を採用したことが特徴です。この選択は、彼の教育的視点を強く反映しています。
また、資料については厳密な批判と考証が行われ、その選択の正確さは高く評価されています。
隋、唐、五代の部分は特に史料的価値が大きく、多くの既に散逸した根本史料を含んでいます。元代の胡三省による注釈は、『資治通鑑』の理解を深めるための重要な文献とされています。
近代に至っても、この書は中国史学界における代表的な史書として、その影響と価値を持続しています。
事文類聚(じぶんるいじゅう)
事文類聚は中国の類書で、宋時代の祝穆が編纂しました。
元々は前集60巻、後集50巻、続集28巻、別集32巻の合計170巻として1246年に成立しました。
この書は「芸文類聚」の体裁を参考に、古今の群書の要語、事実、詩文などを収集して分類しています。
後に、元の時代の富大用が新集36巻と外集15巻を追加し、さらに祝淵によって遺集15巻が追加され、総計として236巻となりました。
現行の版には、富大用らの手が加えられているとの指摘もあります。
十八史略(じゅうはつしりゃく)
『十八史略』とは、中国の通俗史書で、宋末から元初の曾先之によって編纂された2巻の歴史読本です。
この書は、『史記』から『新五代史』までの17の正史と、曾先之の時代の宋に関する史書を基に、重要な出来事や人物を編年体でまとめたものです。
元々2巻でまとめられていたものが、明時代の陳殷によって注釈や字音、字義の解釈が付け加えられ、7巻に拡大されました。
また、明の中期には劉剡がいくつかの改変を行ないました。
この書は初学者向けの教材として用いられ、特に宋の部分では、正史『宋史』が完成していなかったため、野史やその他の記録を多用していることが特徴です。
日本においては、室町時代に導入され、江戸時代以降、和刻本として広く流布しました。明治時代には全国の小学校の教科書として採用され、多くの注釈書も出版されました。
しかし、中国本土では、清代の学者たちからあまり高い評価を受けていなかったため、あまり知られていない部分もあります。
朱子語類(しゅしごるい)
『朱子語類』は、中国の儒学における重要な思想書で、全140巻から成り立っています。
この書は、宋代の儒学者、朱熹とその門下生との間での問答を記録したもので、朱熹の死後にその門人、黎靖徳によって1270年に編纂されました。
『朱子語類』は、朱熹の独自の思想や教え、性理学に関する理解を深めるための貴重な一次資料として知られています。
書名に「語類」とあるように、実際の語り言葉としてのやりとりが記録されているため、整った文章というよりは、日常の会話や議論の様子が垣間見えます。この点が、本書の特色として挙げられます。
以前にも、朱熹の言葉を集めたさまざまな書物が存在していましたが、黎靖徳はこれらの資料を基に『朱子語類』を編纂し、それらの内容を体系的にまとめ上げました。そのため、朱子学を理解する上での基本的なテキストとして、また史学や考証学の観点からも非常に価値が高いとされています。
日本においても、この書は高く評価されており、特に江戸時代には山崎闇斎の学派によって尊重されていました。
荀子(じゅんし)
荀子は、戦国時代末の中国の儒家で、趙の出身であり、名は況、尊称として荀(孫)卿とも呼ばれます。彼は一時期斉の「稷下の学」に所属し、後に楚に移住し、蘭陵で小吏として生活して客死しました。
彼の主著である『荀子』は20巻、32編からなり、荀況自身及びその学派の著作を集録しています。
荀子は「性悪説」を唱え、孟子の「性善説」に反対する立場を取っていました。しかし、人間が本来悪であるとしながらも、礼と楽を中心とした訓練を通じて人間を徳化することができると主張しました。
彼の思想の核心は、人間は努力を積み重ねることで善でも悪でもなれるという考え方であり、天命思想を退け、人間の運命は天界の影響ではなく、人間自身の努力や礼を重視する考えを持っていました。この思考は、弟子である韓非子や李斯の思想にも影響を与えました。
性悪説を唱えたために、長らく中国の思想界では『荀子』は読まれることが少なく、その研究は清朝時代まで進展しなかったとされます。
春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)
画像出典:wiki
『春秋公羊伝』(しゅんじゅうくようでん)は、古代中国の経書として知られる『春秋』の注釈書の一つで、春秋三伝の中の一つとして『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並び称されます。
この書は孔子の高弟子、子夏の門人である公羊高が著し、孔子の思想を基に『春秋』の微言大義、つまり細かい言葉の中に秘められた大きな意味を明らかにしようとしています。
公羊伝の著者に関しての情報は班固の『漢書』には「公羊子」とのみ記載されており、具体的な名前は不明です。
しかし、後代の戴宏の伝えるところによれば、子夏が公羊高にこの学問を伝え、それが何代にもわたって伝えられ、前漢の景帝の時代に公羊寿がこの伝を竹簡にまとめて董仲舒に伝えたとされています。
ただし、この伝承の詳細な信憑性は不確かで、董仲舒と胡毋生が公羊伝を伝えたことは『史記』にも記載されており、これは確かとされています。
注釈の内容としては、『春秋』の各句を詳しく問答形式で解説しています。この中で孔子の理念や理想が多く含まれ、公羊学という学問や政治思想が形成されました。
公羊学は前漢の董仲舒によって形作られ、後漢の何休によってさらに進化しましたが、何休以後、左伝学が主流となり公羊学は衰退していきました。
しかし、清代に入ると、常州学派の影響で再び公羊学が重視されるようになり、特に清末の学問や政治思潮、特に康有為などの戊戌変法派の思想に大きな影響を与えました。
春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)
『春秋左氏伝』に対して西晋の杜預が附した注釈である『春秋経伝集解』の冒頭。
『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)は、中国の歴史書『春秋』の代表的な注釈書で、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史を記録しています。
通称『左伝』とも呼ばれ、他に『春秋公羊伝』や『春秋穀梁伝』とともに春秋三伝と称される三つの主要な注釈書の一つです。
伝統的には孔子と同時代の魯の太史、左丘明が著者とされていましたが、これは伝説と考えられています。実際の著者や成立時期には諸説が存在し、劉歆や戦国時代の魏での成立など、さまざまな見解が提示されています。
『左伝』は『公羊伝』や『穀梁伝』と異なり、『春秋』経本文の純粋な注釈書というよりは、春秋時代の歴史書としての性格が強く、『春秋』には記されていない歴史的な記事も多く含まれています。特に戦争に関する記述は詳細であり、春秋時代の歴史を知る上での貴重な資料となっています。
前漢時代には公羊伝や穀梁伝が優先されていましたが、新、後漢時代に入ると『左伝』の評価が高まりました。特に劉歆は『左伝』を高く評価し、学官に推薦しました。西晋では杜預が『春秋経伝集解』を著し、春秋学のスタンダードとして注目されました。
唐代には『春秋経伝集解』に基づく『春秋左伝正義』が編纂され、春秋学の中心的な文献として位置づけられました。
日本でも、『春秋左氏伝』は古くから読まれ、数多くの故事成語の源となっています。福澤諭吉などの著名人もこの文献を読んで影響を受けたとされています。
まとめると、『春秋左氏伝』は春秋時代の歴史を詳細に記録した貴重な文献であり、著者や成立時期には諸説があるものの、中国や日本の学問・文化において重要な位置を占めています。
小学(しょうがく)
小学(しょうがく)とは、中国の宋代に成立した修身や作法に関する書籍で、『小学書』とも呼ばれています。
この書は全6巻から構成されており、1187年に完成しました。
朱子という学者が初学者向けに編纂したものです。書籍の中身は、古代の聖人の良い行いや教え、そして人との関わり方に関する実践的な教訓を集めたもので、啓発や指導のための内容が詰め込まれています。
貞観政要(じょうがんせいよう)
『貞観政要』は、中国唐代の雑史書籍で、太宗とその臣下間の政治に関する論議や言行を記録しています。この書は、呉兢によって編纂され、全10巻、40篇から成り立っています。
題名の「貞観」は太宗の在位年号を示し、「政要」は「政治の要諦」を意味します。主な内容は太宗の治世、特に「貞観の治」と称される平和で繁栄した時代の政治的要点を、太宗と彼の重臣たちとの問答を通して示しています。太宗は臣下の直言を重視し、その忠告や進言を真摯に受け入れる姿勢が特徴でした。
中国の伝統的な帝王学の教科書としての側面を持つこの書は、歴代の中国の皇帝や政治家、そして日本の天皇や貴族たちにも広く読まれました。特に日本では、平安時代から多くの古写本が伝わり、重要な政治家や武将に愛読されてきました。
太宗は質素倹約を重んじ、臣下たちの進言を歓迎し、その結果、国や国民の繁栄を実現しました。このような太宗の政治哲学や行動は、儒教の教えに基づくものであり、太宗や彼の臣下たちの誠実な取り組みが詳細に記されています。
『貞観政要』は、治国安民の理想や帝王学の基準としての位置づけがされており、中国や日本をはじめとする多くの国々で歴史的に高く評価されてきました。
書経(しょきょう)
京都大学附属図書館蔵『尚書正義』(唐の『五経正義』の一つ)の「堯典」の冒頭「曰若稽古帝堯」が見える。孔安国伝・経典釈文が附される。宋版または元版、明修本。
『書経』は、中国古代の経書であり、五経の一つです。伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒、戦いに関する檄文などが記載されています。孔子が編纂したと伝えられています。
その名前は、先秦時代には「書」や「夏書」「商書」「周書」として知られ、漢代に「尚書」という名が一般的になりました。南宋以後、『書経』という名前が広まり、現在は『書経』と『尚書』の名が併用されています。
内容には、「古文尚書」と「今文尚書」という2種類の本文が存在していましたが、現在に伝わる「古文尚書」は、東晋の梅賾による偽作とされるため、「偽古文尚書」とも呼ばれます。一方、本物の「古文尚書」は現存しないとされています。
『書経』の成立過程は複雑で、多くの研究や説が存在します。一部の記述については、その史実性が確認されているものもありますが、全体の成立時期や詳細については、まだ確定していない点が多いです。
新五代史(しんごだいし)
『新五代史』(しんごだいし)は、中国の正史の一つで、北宋時代の欧陽修によって書かれました。元々は『五代史記』という名称で、私撰として書かれていましたが、後に正史として承認され、『新五代史』と改称されました。
この史書は74巻から成り立っており、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五代王朝の歴史を記述しています。
元々、薛居正による『旧五代史』という史書が存在していましたが、欧陽修はこの史書を基に大義名分を明らかにするために書き改めました。
欧陽修の史観に基づくこの史書は、事実誤認や著者の主観が強く入っているとの評価もあり、山崎覚士からは荊南節度使をあたかも別の国家のように記述して「十国」としたのは、欧陽修個人の史観に過ぎないとの指摘もされています。
現代の歴史学会では、『新五代史』は『旧五代史』に比べて良質な史料とは言い難いとの評価がある一方で、その独特な史観や編集には独創性が認められています。
晋書(しんじょ)
『晋書』(しんじょ)は、中国の晋朝(西晋・東晋)の歴史を扱う正史で、二十四史の一部です。
唐の太宗の命により、貞観20年(646年)から貞観22年(648年)にかけて房玄齢・李延寿らの手によって編纂が行われました。
全体としては、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、そして五胡十六国の歴史を記した載記30巻から成り立っています。
太宗は、王羲之の「蘭亭序」を非常に評価しており、「王羲之伝」の部分は彼自身が執筆しました。また、『晋書』編纂以前には「十八家晋史」と称される18種類の晋の歴史書が存在していました。
この『晋書』は、これらの文献や他の晋の歴史書を基に、複数の史官が共同で編纂したものです。
『晋書』は、その編纂方法や内容について、様々な意見や評価が存在しています。しかし、現存する唯一の晋代の歴史として、非常に貴重な資料とされています。
隋書(ずいしょ)
『隋書』は、中国の正史『二十四史』の一部として知られる史書で、全85巻から成り立っています。
唐の太宗の勅命により、魏徴、長孫無忌らが編纂を始め、636年に「帝紀」5巻および「列伝」50巻が完成しました。
実際の執筆には、顔師古や孔穎達らが関わっています。
当初は隋王朝の歴史だけを取り扱っていましたが、656年には太宗の命により、于志寧らが編纂した「経籍志」など、梁、陳、北斉、北周、隋の5王朝に関する各種制度の記録である「志」30巻(通称『五代史志』)が編入され、現在の形になりました。
この書は隋代や南北朝後半の制度、経済、学芸に関する重要な情報源として利用されています。
特筆すべきは、『日本書紀』には記されていない遣隋使の記事が「東夷伝・倭国条」に記載されている点です。
説苑(ぜいえん)
『説苑』は、中国古代の歴史故事集で、前漢末の学者劉向(りゅうきょう)によって編纂されました。
全20巻から成り立っており、古代の説話、寓話、逸話などを集めたもので、それらの中に教訓的な議論が織り込まれています。
本書は儒教的な理念に基づき、歴史や政治を解釈しており、それによって儒教が当時広まっていたことを示唆しています。
初めは50編存在していたものの、多くが散逸してしまいました。宋時代になって、曾鞏(そうきょう)によってほぼ元の形に復元され、現在はその20巻が主な資料として知られています。
『説苑』は、天子を戒める逸話を採録しており、特に時の成帝を諫める目的で上奏されました。しかし、劉向自身が「『説苑雑事』を校勘し『新苑』として編纂した」との記述もあり、彼が真の撰者ではなく、むしろ校訂者や編者であった可能性が指摘されています。
現在に伝わるテキストは、曾鞏によって再編された20巻本で、この版に彼の序文が付されています。
世説新語(せせつしんご)
『世説新語』(せせつしんご)は、中国南北朝時代の南朝宋の臨川王劉義慶によって編纂された逸話集です。
もとは10巻で構成されていましたが、現存しているのは3巻です。この作品は、後漢末期から東晋にかけての著名人の逸話や言動を集めたもので、36の篇に分類されています。
劉義慶は文芸を好み、多くの文学の士とともにさまざまな書物を編纂しましたが、『世説新語』もその一つです。この書は、小説集として収められており、史実とは異なる逸話も含まれています。しかし、当時の人物の言動や思想、さらには世相を理解する上で非常に貴重な資料となっています。
後漢末期からの人物評論や魏晋期の貴族社交界での評価、さらには「清談」と称される哲学的談論が当時の貴族サロンで流行していた背景があります。
特に、老荘思想を基盤とする「竹林の七賢」のような哲学的談論が注目されていました。
『世説新語』の成立から1世紀も経たないうちに、南朝梁の劉孝標が注釈を付けました。
この注釈は、単なる説明や補足にとどまらず、誤りの訂正や散逸した書物からの引用も含まれており、六朝時代の名注として高く評価されています。
要するに、『世説新語』は、中国の古代文学の中でも特に価値のある作品として知られ、後の時代にもその影響と評価は大きいものとなっています。
戦国策(せんごくさく)
『戦国策』(せんごくさく)は、中国の戦国時代における遊説の士の策略や逸話を12ヵ国ごとに分類して編集された書物で、全33篇からなります。
この書物の名前に由来して、「戦国時代」という時代区分が名付けられました。
元々様々な書物、例えば『国策』や『国事』などの竹簡が存在していましたが、前漢の劉向(紀元前77年~紀元前6年)によってこれらを一つの書物にまとめ、『戦国策』として編纂されました。
後漢の高誘が注釈を付けた33巻本も存在していたものの、多くの部分が失われました。現在広く知られているテキストは、北宋の曾鞏による校訂版で、これは10巻本として伝わっています。また、宋代の鮑彪が編集したバージョンも存在し、日本における伝本は主にこのバージョンに基づいています。
日本への伝播としては、9世紀後半の『日本国見在書目録』にその名前が見られます。江戸時代には、漢学者たちの間で広く読まれ、特に横田惟孝の『戦国策正解』が定本として評価されました。
1973年に馬王堆漢墓から出土した帛書には『戦国策』に類似した記述があり、これによって劉向の編纂以前の形が一部確認できるようになりました。
『戦国策』は、歴史的価値だけでなく、人間の権謀術策や闘争の心理を巧みな文章で描写している点でも評価されています。
宋史(そうし)
『宋史』は、中国の正史(二十四史)の一部として元代に編纂された歴史書で、宋(北宋・南宋)の時代を詳細に記録しています。
1345年に元の高官、トクト(脱脱)の指揮のもと完成されましたが、実際の編纂の主要な指揮は欧陽玄が執ったとされています。本書は、本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻、合計で496巻から成り立っており、正史の中で最も巻数が多いことが特徴です。
宋代は約三百有余年にわたって存在しましたが、この期間に関する記録が『宋史』には詳細に収められています。それに比べ、ほぼ同じ期間を範囲とする唐の正史は、『旧唐書』と『新唐書』の合計で425巻となっており、『宋史』がその巻数で唐の正史の倍近くあることが伺えます。
しかし、『宋史』には問題点も指摘されています。編纂期間がわずか3年と短かったことや、他の正史との摺り合わせが不十分であったことから、記述の矛盾や不一致が生じています。また、元朝の成立以降、正史の編纂に関する意見の対立や意見調整の難しさから、編纂計画が何度も挫折した経緯もありました。
それでも、宋代には史学が発展し、さまざまな史料が残された時代であったため、『宋史』にはその豊富な資料が反映されています。特に、太祖から理宗までの『実録』や度宗の『度宗時政記』などの史料が基となって編纂されていると考えられています。
要するに、『宋史』は宋代の歴史を詳細に記録した巻数が非常に多い正史であり、編纂の背景や内容には複雑な事情が絡んでいますが、宋代の貴重な資料としてその価値は高いものとなっています。
荘子(そうじ)
『荘子』は古代中国の道家の文献で、その著者とされるのは哲学者・荘子(荘周)です。この文献は内篇、外篇、雑篇の三部構成となっており、全部で33篇から成り立っています。
その伝来に関して、内篇のみが荘子本人の著作とされており、外篇や雑篇は後世のものであるという説が一般的です。『史記』や『漢書』によると、元々の『荘子』はもっと多くの篇から成り立っていたとされています。
その中でも金谷治の説によれば、現在の『荘子』の形に整理・体系化されたのは淮南王劉安の時代とされています。
晋代の郭象という学者が、元のテキストを分析・編纂し、現在の形にまとめたとされています。彼はまた、この文献の注釈書『荘子注』も書き残しています。
唐時代には、玄宗皇帝が荘子に「南華真人」という名誉称号を贈り、『荘子』は『南華真経』とも呼ばれるようになりました。
『荘子』と他の古典文献との関係も注目されています。例えば、『老子』と『荘子』は思想的に関連しているとされることが多いですが、内篇においては直接の関連は認められません。
また、荘子は儒家の文献『論語』をよく読んでいたことが、孔子が『荘子』の中でたびたび引用されている点から明らかです。
内容的には、『荘子』は「無為自然」を主題としていますが、各篇によって説かれる内容は異なります。内篇では純粋な無為自然が説かれていますが、外篇や雑篇では人間の社会や活動も含めた広い意味での自然が説かれています。
さらに、『荘子』の中には実在したとされる人物のエピソードも多く含まれています。その中でも特に多いのは孔子とその弟子たちのエピソードで、これらは当時の風俗や価値観を反映しています。
宋書(そうしょ)
『宋書』は、中国南朝宋の時代を記述した正史で、計100巻からなる紀伝体の歴史書です。沈約(しんやく)が南朝斉の武帝の勅命を受けて編纂しました。
本作は二十四史の一つに数えられます。
作業には、以前に何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが書いた『宋書』が参考として用いられました。本紀と列伝は1年ほどで完成しましたが、志の部分の完成には10年以上を要しました。そのため、完成は南朝梁の時代に入ってからとなります。
南朝宋が滅亡した時期がこの書の編纂時期と近いため、同時代の資料や証言を多く取り入れており、その資料的価値は非常に高いです。
特に注目される部分として、「夷蛮伝」には日本に関する記述があり、倭の五王と呼ばれる日本の支配者からの朝貢が記されています。
これは、この時代の日本の情報として貴重な資料として認識されています。ただし、「夷蛮伝」は早い時期に失われてしまい、後世、特に10世紀の宋時代に内容が補完された可能性が指摘されています。
楚辞(そじ)
『楚辞』(そじ)は、中国戦国時代の楚地方で歌われた賦(ふ、韻文)の集大成で、全17巻から成り立っています。
主要な作品として屈原の『離騒』が知られており、南方を代表する古典文学として位置付けられています。
この楚辞は、北方の『詩経』に対して、南方的な風土や風俗、信仰などを背景にしており、抒情詩としての性格を持っています。
特に、ロマン主義的な要素や、世を憤る傾向の強い哀愁を帯びた内容が特徴として挙げられます。
屈原や宋玉らの天才的な詩人たちによって、『楚辞』は独自の詩形や内容で成立しました。その中でも、空想性や一句六言の活発なリズムが特色とされています。
さらに、詩が作者名とともに記録されるようになったのも、屈原の時代からのことです。
書物としての『楚辞』の成立は、前漢の劉向が編集したものとされ、彼が16巻を編纂しました。その後、後漢の王逸が自らの詩を追加して、総数17巻となりました。
この楚辞は、古い楚の祭祀歌を基にしつつ、神話や伝説的な要素を取り入れて、抒情詩として緊張感を持った内容が盛り込まれています。
孫子(そんし)
『孫子』は、中国の春秋時代に成立した代表的な兵法書で、1巻13編からなります。
著者は呉に仕えた孫武とされ、斉の軍師としても知られる孫臏(そんぴん)の著作も存在することが確認されています。
この書は始計、作戦、謀攻、軍形、兵勢、虚実、軍争、九変、行軍、地形、九地、火攻、用間の章で構成されています。
特に、国家経営、戦略、人間の使い方などについての非凡な見解を示しており、その価値は高く評価されています。
また、『呉子』とともに「孫呉の兵法」と称され、広く読まれている兵法書として知られています。
1972年には竹簡が発見され、現在の「孫子」が孫武の「孫子兵法」の一部であること、そして孫臏の「孫臏兵法」も存在したことが明らかとなりました。
「た行」故事ことわざの主要出典解説一覧
大学(だいがく)
『大学』は、儒教の経典であり、『四書』の一つとされています。
もともとは『礼記』の一編として存在していましたが、南宋の朱子によって『四書』の一部として特に重要な経書とされました。朱子はこの書を孔子の高弟・曾子の作としていますが、その根拠は明確ではありません。漢代初期の成立と考えられています。
『大学』は、儒教の目的を明明徳・止至善・新民の三綱領にまとめ、その実践のための八条目として、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の順序での修養を解説しています。宋学の見解では、これによって儒教の全体像が示されているとされます。
朱子は『大学』の本文に不備があると判断し、校定を行いました。また、「格物」に関する部分を補足し、それを「格物補伝」と称しました。
しかし、明代の王陽明は、朱子の改定に批判的で、元々の『古本大学』を重視していました。
日本でも、江戸時代に朱子学と共に『大学』が尊重されましたが、朱子の『大学章句』と『古本大学』に関する論争が生まれ、日本の国学者による多くの著述が出されました。
太平御覧(たいへいぎょらん)
『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、中国宋代初期に成立した類書で、一種の百科事典として知られています。
北宋の太宗の時代、977年から983年にかけて、李昉ら14人が勅命を受けて編纂したもので、全1000巻から成り立っています。
元々は『太平総類』という名で呼ばれていましたが、太宗が1年で完読したことを記念して、現在の名前に改称されました。
この書は55部門から成り、それぞれの部門はさらに細かな項目に分かれています。全体で5426の類目に細分化されており、各項目にはさまざまな古典や書物からの文章や記事が抜粋されて分類・配列されています。
引用されている書物は約1690種とされ、その中には現在原書が失われているものや、他の類書からの間接的な引用が含まれています。そのため、『太平御覧』は多くの失われた資料の片鱗を知る上での貴重な情報源となっています。
また、日本でも宋版を基に1855年に出版された経緯があり、一部の宋版は日本の静嘉堂文庫や金沢文庫などに所蔵されています。
中庸(ちゅうよう)
『中庸』は、中国古代の儒学の経書で、「四書」の一つとして知られます。もともとは『礼記』の中の一篇であり、子思の著作と伝えられていますが、成立や作者に関しては諸説存在しています。
概念としての「中庸」は、儒教の中心的な考え方として重視されてきました。
『論語』において孔子は「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と賛嘆しましたが、その後段では、この過不足なく偏りのない徳は、修得者が少ないとも言及しています。
古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテース」に相当する考えとして尊重されており、仏教の中道との関連性も指摘されることがありますが、両者は異なる概念であるとの意見もあります。
文献としての『中庸』には、多くの学者や政治家が注釈を加えてきました。特に、宋代の学者朱熹は『中庸章句』を作成し、その後の儒教学で『中庸』は『大学』の後に続き、最も深く読むべき経書と位置づけられました。
『中庸』の主要なテーマは、天人合一の真理と、中庸の誠の域に至る修養法についての説明です。
通俗篇(つうぞくへん)
『通俗篇』(つうぞくへん)は、清時代の翟こう(1736~88)による中国の通俗語辞書です。
全38巻から成り、五千余りの俗語、成語、諺を天文、地理、時序、倫常など38のカテゴリーに分類しています。
各語の意味の考証や語源の解読を行っており、特に中世以降の戯曲や口語小説に出てくる通俗語や方言を取り上げる点で特色があります。
このため、通俗文学の研究には非常に貴重な資料となっています。また、同時代の学者、梁同書が類似の書を執筆しようとしていた際に、『通俗篇』を参考にし、その中で取り上げられていない語や解釈の異なる語を集めて『直語補証』を著しました。
北京商務印書館の1958年版では、『通俗篇』と『直語補証』が一緒になっており、索引付きで非常に利用しやすくなっています。
唐詩紀事(とうしきじ)
『唐詩紀事』は、中国の唐代の詩人やその詩、関連するエピソード、小伝、評論などを集めた書物です。
宋の計有功によって編集され、全81巻から成り立っています。
この書には、合計で1150人もの詩人が取り上げられています。収録された記事や情報は非常に広範囲にわたり、『唐詩紀事』を通じて多くの詩人やその作品が後の世代へ伝えられました。
そのため、唐詩の研究においては非常に価値のある資料と認識されています。
また、元の辛文房が編集した唐代詩人の伝記『唐才子伝』も、『唐詩紀事』から多くの情報を引用していると言われています。
最も古いテキスト版は、南宋の王禧によるもの(1224年)で、明の時代には洪楩や張子立による版も出版されました。
唐書(とうじょ)
『唐書』は、中国の正史の一つで、唐王朝の歴史を記述したものです。主に「旧唐書」と「新唐書」の二種が存在します。
「旧唐書」は、五代後晋の劉昫らにより撰述され、945年に完成しました。全200巻から成り、本紀20巻、志30巻、列伝150巻を含んでいます。
編纂時には、唐初から武宗朝までの実録が残っており、それらの材料を手を加えずに忠実に記録しています。
ただし、宣宗朝以降、唐末の混乱期に多くの根本史料が失われたため、史料不足による記述の不備が目立ちます。
一方、「新唐書」は、宋の欧陽修らにより撰述され、1060年に完成しました。
全225巻から構成され、本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻を含みます。
特に本紀、志、表の部分は欧陽修が、列伝は宋祁が撰述しました。
この「新唐書」は、古文を書き改め、国家意識を強く反映しており、近世では広く利用されてきました。
しかし、どちらの書もそれぞれの価値があり、併用して参照することが望ましいとされています。
「な行」故事ことわざの主要出典解説一覧
南史(なんし)
『南史』は、中国の南朝に関する正史で、二十四史の一部として知られます。唐の李延寿が編纂し、全80巻から成り立っており、本紀10巻と列伝70巻の構成となっています。
この書は南北朝時代の南朝の宋、斉、梁、陳の4王朝の歴史を詳しく記述しています。
『南史』は独自の特色を持ち、その内容は断代史である『宋書』、『南斉書』、『梁書』、『陳書』を合わせたものの半分程度の分量ですが、それらの断代史には記されていない情報も多く含まれています。特に恩倖伝の増補などが顕著に見られます。
また、『南史』の特徴として、一族の人物を王朝の興亡と関係なく一箇所にまとめて記述する「家伝」という方法を採用しています。
これは南北朝時代の門閥貴族社会の実態をよく伝えているため、多くの人々に広く読まれてきました。
「は行」故事ことわざの主要出典解説一覧
碧巌録(へきがんろく)
『碧巌録』(へきがんろく)は、中国の仏教書で、臨済宗の公案を集めたものです。
全10巻から成り立っており、宋代に圜悟克勤(えんごこくごん)によって1125年に成立しました。
この書は、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が選んだ百則の公案に基づいており、それぞれの公案に垂示(簡単な説示)、著語(個人の見解を述べる批評の語)、評唱(批評と唱和)が圜悟克勤によって追加されています。
『碧巌録』は宗教書でありながら、禅文学としての価値も非常に高く、多くの人々から「宗門第一の書」と評価されてきました。
看話禅の発展においても、この書の影響は大きいとされており、臨済宗の修行者にとっては悟境を深めるための重要な公案集として用いられています。
抱朴子(ほうぼくし)
『抱朴子』は、中国の晋代の道家書で、葛洪(かっこう)という道教の士が著したものです。彼の号「抱朴子」が書名となっています。
全体は八巻からなり、内篇20巻に20章、外篇50巻に52章が含まれます。
内篇は、不老長生を求める仙術やその具体的な理論を詳細に論じています。具体的には、丹砂(水銀と硫黄の化合物)、各種の薬、呼吸法、護符、避邪法、鬼神の使役、心内の神々の想念法(歴臓法)など、仙人となるための方法や仙人の種類が記述されています。
その思想は、主に道家を基本にして、儒家の思想も取り入れています。
外篇は、儒家の思想を基盤に、政治や社会、処世に関することを中心に述べており、文学に関する部分も触れられています。文体としては、四六駢儷文という形式が使われており、文学史上でも注目されています。
また、巻50には葛洪自身の自叙があり、彼の生涯や本書の成立背景、内容について詳述されています。
葛洪は、古代の道家の教えを正統と捉え、特定の師から奥義を受け取った者を明師として高く位置づけました。彼は「神仙は学ぶことができる」との立場をとり、正しい師を選び、修行すれば仙人になることができると説いています。
しかし、同時に星宿による宿命論も採用し、道の教えと徳の修行を兼ね備えることを奨励しています。
現在、『抱朴子』と言うと、主に内篇を指すことが多いです。
北史(ほくし)
『北史』は、中国の二十四史の一つで、北朝の歴史を詳細に記した歴史書です。唐代の李延寿によって659年に完成されました。
この書は、李大師の遺志を継ぎ、彼の子である李延寿が執筆を完成させました。
全体は100巻から構成されており、その内訳は本紀12巻と列伝88巻です。
記述の対象となるのは、北朝時代にあたる北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の各王朝の歴史です。
『北史』は、詔令や上奏文を大幅に削除し、叙事の記述に焦点を当てています。そのため、総記述量は『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』の4つの断代史を合わせた量の約半分ですが、それらの書には含まれていない独自の記述も多く存在します。
特に、『魏書』で触れられなかった西魏の人物に関する部分が増補されています。
その公正かつ詳密な記述のため、『北史』は高い史料的価値を持っています。
墨子(ぼくし)
墨子は、中国の戦国時代の思想家で、名は翟(てき)といい、墨家の始祖とされます。
彼は「兼愛交利」という考えを提唱し、これは血縁にとらわれない普遍的な愛や相互扶助を意味します。また、墨子は礼楽を無用の消費と考え、これを排斥しました。その上で、節倹勤労の大切さを強調し、儒家とは異なる立場をとりました。
「墨子」という名前は、墨翟とその門下の学説をまとめた書籍の名称としても知られています。現存するこの書籍は15巻53編から成り立っており、主要な論説としては「尚賢」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」などがあります。
この中で、同じ主題を3編持つものは、学派や成立時期の違いによるテキストの相違が考えられています。また、書籍の中には論理を説明する部分や、城の建築や敵の迎撃方法に関する部分も含まれており、墨家学派の活動を伝える貴重な史料となっています。
北斉書(ほくせいしょ)
『北斉書』は、中国の正史で、二十四史の一部です。唐の太宗の勅命により、李百薬が636年(貞観10年)に完成させました。
この書は、北斉の歴史を詳細に記載しており、全50巻から成り立っています。具体的には、本紀8巻と列伝42巻に分かれています。
元々、李百薬の父、李徳林が編纂した『北斉史』という全27巻の書物が存在し、これが隋代に38篇に再編されていました。李百薬は、この父の史書を基にし、さらに王邵の『北斉志』からの情報を追加して『北斉書』を完成させました。
しかし、現在の『北斉書』には、李百薬が直接書いたとされる部分は18巻のみが残っており、他の部分は後代の人々が『北史』などを参考にして補足したものです。
もともとの名称は『斉書』でしたが、宋代以降、蕭子顕の『南斉書』との区別のために『北斉書』と呼ばれるようになりました。
なお、劉知幾という学者は、『史通』という著作の中で、『北斉書』に対してあまり高い評価をしていない点も注目されます。
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無門関(むもんかん)
『無門関』は、中国の宋代に、無門慧開によって編纂された禅宗の公案集です。
この書は、禅宗の公案や古則を中心に紹介しており、各本則には無門の評唱と頌と呼ばれる漢詩が添えられています。
合計で48の節(則)と序文、後序から成り立っています。
特に、第1則の「趙州無字」の公案は、禅宗で非常に知られたもので、無門が6年にわたり悩みながら、最終的にはある瞬間の体験を通じて悟りを得たという逸話があります。
中国本土では、『無門関』はそれほど重視されていなかったようですが、日本では異なります。
無本覚心が入宋し、無門慧開に直接参じて得た巻本を持ち帰ったことがきっかけで日本に伝わり、特に江戸時代には非常に注目され、多くの注釈が成立しました。
現在流布しているものは、広園寺蔵版の巻本を基にしており、無門の序文の前後に、他の文献や詞、跋文などが追加されているものです。その中でも、無門の弟子である宗紹が編纂に関与したとされています。
『無門関』は、禅宗の中でも『碧巌録』や『臨済録』と並ぶ、高く尊重される書物の一つとして知られています。
蒙求(もうぎゅう)
『蒙求』(もうぎゅう)は、中国唐代に李瀚(りかん)によって編纂された児童用教科書であり、3巻からなります。
この教科書は、古代から六朝時代にかけての著名人の伝記や逸話を596の四字句でまとめており、それぞれの句は4字で構成されています。内容としては、偶数句の終わりで押韻され、最後の4句を除いて8句ごとに韻が変わるという特徴があります。
題名の「蒙求」は『易経』の「蒙」卦辞「匪我求童蒙、童蒙求我」に由来しています。この書は、学ぶ者にとって理解しやすいように、歌のような韻を持たせて編纂されています。
『蒙求』は宋代において代表的な教科書であり、その影響で同じ形式を持つ『十七史蒙求』なども作成されましたが、明末には学習の主流が他の教科書に移り、『蒙求』は徐々に影を潜めました。
日本でも『蒙求』は平安時代から多くの人々に学ばれ、その影響は深く、「勧学院の雀(すずめ)は蒙求を囀(さえず)る」という諺(ことわざ)まで生まれました。特に、「孫康映雪、車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい)」という句は、日本の唱歌「蛍の光、窓の雪」の原典としても知られています。
孟子(もうし)
『孟子』は、儒教の思想家・哲学者である孟子の逸話や問答を集成した経典です。成立は紀元前4世紀後半の戦国時代とされています。
この書は、孟子が諸国を遊説して行った際の問答をまとめたもので、「梁恵王」、「公孫丑」、「滕文公」、「離婁」、「万章」、「告子」、「尽心」の7篇から成り立っています。
著者については複数の見解が存在します。司馬遷は孟子が自らの弟子と共に書いたとしていますが、朱熹や趙岐らは孟子自身が著したと説いています。また、韓愈や孫奭らの説によれば、孟子の死後に彼の弟子が編纂したともされています。
『孟子』は、長い間、儒教の基本経典としての地位を得ていませんでしたが、唐代の韓愈がこの書を評価し、宋代になって朱熹が「四書」(『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』)の一つとして数えたことから、その地位が確立されました。
しかし、北宋の司馬光や李覯などによる批判も存在し、その内容が時に危険思想と見なされることもありました。
この経典は、性善説を中心として、仁義礼智を説き、王道政治を提唱しています。日本では、江戸時代に朱子学の流行と共に受け入れられましたが、それ以前には易姓革命の主張が日本の国体と相容れないとして、一部忌避の傾向も見られました。
文選(もんぜん)
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集です。春秋戦国時代から南朝梁に至るまでの文学者131名からの賦・詩・文章を約800編、37のジャンルに分類して収録しています。
初めは30巻でしたが、後に唐の李善が注を付けて60巻に増えました。中国古典文学の研究者にとっては必読の一冊として知られ、昭明太子自身の序文も文学史論として高く評価されています。
昭明太子は、南朝梁の武帝蕭衍の長男として学問や文学の環境で育ちました。彼の父、武帝は学問・文才に優れ、太子もこの背景のもとで学び、文化の保護や育成に深い関心を持っていました。
太子の居所である東宮には3万巻もの書が収められており、多くの学者・文人が集まり学問や著作に取り組んでいました。
この文化的な背景が『文選』の編纂に大きな影響を与えています。実際の編纂作業には、昭明太子をはじめ、彼の周囲にいた多くの文人たちが関与していたと伝えられています。
日本においても、『文選』は天平時代以前に伝来し、平安時代に「白氏文集」とともに広く愛読されていました。
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揚子法言(ようしほうげん)
『揚子法言』は、前漢の学者揚雄が著した中国の思想書です。全13巻から成り立っており、『論語』の形式を模倣しています。
この書は、儒教思想を基盤としており、孟子の性善説と荀子の性悪説の間の調和を試みています。
また、『老子』にも言及しつつ、儒家を否定する立場は取っていません。
成立に関しては、司馬光は平帝の時代だと主張していますが、汪栄宝と田中麻紗巳はそれに反対し、揚雄の晩年、新の天鳳改元(14年)以降に書かれたとの見解を持っています。
田中麻紗巳の説では、『法言』の終わりの部分は、王莽の礼制改革や王田制を賞賛していると解釈されています。
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礼記(らいき)
『礼記』(らいき)は、儒教の経書の一つであり、五経の中でも重要な位置を占めています。
主に礼の倫理的意義に関する古説を集約した文献で、儒教においては『周礼』『儀礼』と共に「三礼」と称される重要な経書の一つです。
「礼記」という名称は、礼に関する注記や、礼または礼経に関連する議論や注釈を指すもので、この経典は周から漢にかけての儒学者たちによる礼に関する記述をまとめたものとされています。
主に前漢の戴聖によって編纂され、総篇数は49篇です。
また、戴聖の伯父である戴徳も『礼記』を編纂しており、彼の編纂したものは『大戴礼記』として知られ、85篇が存在したが現存するのは39篇です。一方、戴聖が編纂したものは『小戴礼記』とも呼ばれます。
『礼記』の内容は非常に広範で、政治、学術、習俗、倫理など多岐にわたります。また、各篇ごとに成立時期が異なり、古代の習俗や制度、宗教についての貴重な情報を提供しています。
特に、孔子の孫の子思の作である「中庸」篇や「大学」篇は、宋代の朱熹によって高く評価され、四書(四書五経)にも取り入れられました。
この『礼記』には多数の注釈書が存在し、後漢の鄭玄注や、唐の孔穎達の『礼記正義』などがあります。これらの注釈や研究は、『礼記』の内容を理解する上で非常に役立つものとなっています。
六韜(りくとう)
『六韜』は、古代中国の代表的な兵法書であり、武経七書の一つとして知られています。周の太公望が撰したとされるものの、現存する版は魏晋時代の偽作と考えられています。
「韜」は、剣や弓などを入れる袋を指す言葉で、全体は文韜、武韜、龍韜、虎韜、豹韜、犬韜の6巻60編から成り立っています。
その内容は以下の通りです。
- 第一巻: 「文韜」では、戦争をするための国の治め方や政治の在り方を、そして「武韜」では、戦争前の自国を有利にし、敵国を不利にする国家戦略を取り上げています。
- 第二巻: 「龍韜」は軍隊組織の構築や将軍将校の任命について、一方「虎韜」は基本的な戦場での戦術や指揮、陣形、武具に関して述べており、特に実用的と評価されています。こちらの「虎韜」が「虎の巻」という言葉の語源とされています。
- 第三巻: 「豹韜」は特別な戦場での応用的な戦術や指揮、陣形、武器防具を、そして「犬韜」は各種兵科の部隊編制方法や訓練作法を中心に扱っています。
このように、『六韜』は古代中国の兵法や戦略に関する包括的な知識を伝える文献として、現代でもその価値が認められています。
呂氏春秋(りょししゅんじゅう)
『呂氏春秋』は、中国戦国時代末期に秦の呂不韋が多数の学者を集めて編纂させた歴史的文献であり、26巻から成る百科全書的な内容を持っています。
別名『呂覧』とも呼ばれ、成立年は正確には未詳ですが、秦の始皇8年(紀元前239年)に完成したとされています。
この書籍は十二紀・八覧・六論の3部構成となっており、各部には儒家や道家を中心とした様々な学派の思想が幅広く取り入れられています。これには名家・法家・墨家・農家・陰陽家の説なども含まれており、多様な論点が扱われているため、雑家の代表的な書籍として知られています。
内容としては、天文暦学、音楽理論、農学理論などの自然科学的な論説が多く含まれ、自然科学史にとっても価値ある文献とされています。また、寓話や説話も収録されており、中でも「刻舟求剣」という話は特に有名です。
書名『呂氏春秋』は、1年12カ月を四季に分けた十二紀に由来しており、この構成に基づいて『呂覧』とも呼ばれています。完成後、呂不韋はこの書を公開し、内容の一字でも改善・添削ができれば千金を贈ると公言。この逸話が「一字千金」という言葉の由来として知られています。
列子(れっし)
列子は、中国戦国時代の道家の思想家で、名は禦寇(ぎょこう)とされています。彼の名前は『荘子』などの古典にも登場します。
列子の思想や伝説は、『列子』という書に収められていますが、これには多くの寓言や伝説が含まれ、湯問篇ではロボットのような存在も述べられています。
『列子』は8巻8篇から成り立っており、その中には『荘子』の内容を引用する部分もあります。この書は、春秋時代の思想家・列子が著したものと伝えられる一方で、実際には戦国時代末期に列子を尊んでいた一派が存在し、彼らが同名の文献を伝えていたとされます。
しかしながら、現存する『列子』は、魏晋頃の作であり、偽作との見解が強いです。また、現行の『列子』には仏教思想の影響も見られ、後から混入された部分もあると考えられています。
最後に、20世紀末以降の研究では、偽書説を否定する意見も出てきていますが、まだ定説とは言えない状況です。
老子(ろうし)
老子は、中国の伝説的な思想家であり、老荘思想(道家)の祖とされます。彼の生没年は不詳で、本名は李耳、字はたんといいます。
一説には、周の文書係として勤めていた際に、孔子に隠の道を教えた隠君子としても知られます。
老子は周室の衰えを見て隠棲を志向し、関を越えようとした際、関守の尹喜の求めに応じて『老子』という2編の書を残しました。
この『老子』は「道徳経」とも称され、81章から成り立っています。
その内容は約5000字で、簡潔な格言的表現が特徴として挙げられ、多くの諺や格言のような趣があります。
この書は、人為的な儒教の仁義道徳や権力者からの法的規制を批判し、真の道はこれらの人為を超えたもの、すなわち「無」または「一」であると主張しています。
『老子』の成立時期はおそらく戦国末期で、古来より様々な解釈が存在しています。特に魏の王弼の注や河上公の注などが古注の代表として知られています。
日本においても多くの注釈が存在し、太田晴軒の『全解』が特に評価されています。また、1973年に馬王堆で発見された『老子』は、前200年頃のものと推定され、現存最古の書写本文であるとされています。
老子の思想は、後の時代、特に荘子によってさらに広められ、六朝時代の思想界で大きな影響を持ちました。
また、彼が周の時代に孔子に隠の道を教えたという伝説や、西方への旅の途中で関所の守尹喜に請われて『道徳経』を書き残したという話も伝えられています。
老子は中国文化の中で非常に重要な位置を占めており、多くの人々が彼の血筋や思想を引き継ぐ者として彼を尊崇しています。
特に李氏の多くは、老子を先祖として尊敬し、彼の思想や業績に基づいて反権威主義的な活動を行ってきたと言われています。
論語(ろんご)
『論語』(ろんご)は、儒教の経典で、孔子とその門弟たちの言行を記録した書物です。
この文献は、儒教の根本文献として、20編から成り立っており、孔子とその弟子たちの問答や孔子の日常の行動、高弟の言葉などが収められています。
内容は孔子の教えやその個性豊かな弟子たちの勉学の様子を反映し、実践的な倫理や人物像、道徳説の樹立に関する苦心が伺えます。
『論語』の成立や編纂については諸説ありますが、孔子の孫弟子以後の時代に編集されたと考えられています。さらに、前漢時代には異なるテキストが存在し、それらが校定されて、現在の『論語』が定まったとされています。
名称『論語』が定着したのは前漢の宣帝・元帝の頃からで、この書名の由来については確定した定説は存在しないものの、古い記録として班固の『漢書』に言及があります。
この経典は、古くから広く読まれ、儒教入門書として知識人だけでなく、一般の市民や農民にも普及していました。
後代には、多くの注釈書が書かれ、中でも宋の朱子の『論語集注』が特に広く知られています。日本にも『論語』は古くから伝わり、多くの日本人による注釈書が存在します。