【故事成語】
悪法もまた法なり
【読み方】
あくほうもまたほうなり
【意味】
どれほど内容のよくない法律でも、正式に法として効力をもつかぎり、従うべきものとする考え。廃止や改正がないうちは守らねばならない、という立場を表す。


【英語】
・The law is harsh, but it is the law.(法は厳しいが、それでも法である。)
・The law is the law.(法は法である。)
【類義語】
・長い物には巻かれろ(ながいものにはまかれろ)
・郷に入っては郷に従え(ごうにいってはごうにしたがえ)
【対義語】
・悪法は法にあらず(あくほうはほうにあらず)
・非理法権天(ひりほうけんてん)
「悪法もまた法なり」の故事
この故事成語は、法律の中身が正しいかどうかと、いま実際に効力をもっている法に従うべきかどうかとを、あえて切り分けて考えるところに特色があります。短い言い方ですが、正義と法の関係をめぐる古く大きな問題を背負った表現です。
背景としてまず思い出されるのが、古代ギリシアの哲学者ソクラテスです。紀元前399年のアテネで死刑判決を受けたとき、友人のクリトンは手はずを整えて、牢から逃げるよう勧めました。
そのやり取りを伝えるのが、プラトンの対話篇『クリトン』です。そこでソクラテスは、多くの人の評判や損得ではなく、正しいかどうかだけをまず考えねばならないと話します。
さらにソクラテスは、不正を受けたからといって、こちらも不正で返してよいわけではないと考えました。自分が法を破って逃げれば、これまで自分が属してきた国の法と約束を、自分の手で傷つけることになるという筋道です。
ただし、大切なのは、『クリトン』の中に「悪法もまた法なり」という日本語そのものが、そのまま書かれているわけではないという点です。後の時代に、ソクラテスのこの態度を短く言い表すため、日本語で分かりやすくまとめられた形と見るのが自然です。
この言い方と深く結びついているのが、ラテン語の法格言 Dura lex, sed lex. です。これは「法は厳しい、しかし法である」というほどの意味で、法の厳格さと拘束力を簡潔に示す言い方として伝わっています。
このラテン語は、古代ローマの法学者ウルピアヌスに結びつけて説明されることが多く、もとはもっと長い文にさかのぼると考えられてきました。その文は、「たしかにとても厳しいが、しかし法律はこのように書かれている」という趣旨を表しています。
ここで注意したいのは、ラテン語の dūra が、もともと「悪い」というより、「厳しい」「苛酷な」に近い語だということです。日本語の「悪法」は、単なる直訳ではなく、法の内容に対する強い反発や批判までにじませた言い方だと考えられます。
そのため、日本語の「悪法もまた法なり」は、ソクラテスの行動を通して語られる法への服従の思想と、ラテン語の法格言とが重なり合いながら広まった表現といえます。由来を一つだけにきっぱり決めるより、古代ギリシアの思想とローマ法の言い回しの両方を背後にもつ言葉として受けとるほうが、無理のない理解になります。
また、この故事成語は、悪い法律をほめたたえるための言葉ではありません。むしろ、納得できない法であっても、改正や廃止がなされるまでは人をしばる力をもつという現実を、鋭く言い表した言葉として受けつがれてきたのです。
「悪法もまた法なり」の使い方




「悪法もまた法なり」の例文
- 市民の不満は強かったが、条例が改められるまでは悪法もまた法なりとして守るしかなかった。
- その重い税について議論は続いたが、施行中は悪法もまた法なりという立場で納付が求められた。
- 判決に納得できなくても、悪法もまた法なりとして正規の手続きで争うべきだと弁護士は述べた。
- 祖父は、戦時中には理不尽な決まりにも悪法もまた法なりとして従わされたと語った。
- 職場では新しい規則への反対が多かったが、発効後しばらくは悪法もまた法なりという空気が強かった。
- 住民のあいだでは、その外出制限を悪法もまた法なりとして受け入れるべきかどうかで意見が分かれた。























