【ことわざ】
悪に強ければ善にも強し
【読み方】
あくにつよければぜんにもつよし
【意味】
大きな悪事に走るほど気の強い者は、ひとたび心を入れかえると、かえって強く善を行うようになるということ。


【英語】
・The greater the sinner, the greater the saint.(大きな罪人ほど、大きな聖者にもなりうる。)
・A great sinner may become a great saint.(大きな罪人も、大きな聖者になりうる。)
【類義語】
・悪に強きは善の種(あくにつよきはぜんのたね)
・善に強い者は悪にも強い(ぜんにつよいものはあくにもつよい)
【対義語】
・三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
・雀百まで踊り忘れず(すずめひゃくまでおどりわすれず)
「悪に強ければ善にも強し」の語源・由来
このことわざは、悪いことに向かうほどの強い気力を持つ人は、その力の向きさえ変われば、善いことにも強く打ちこめるという考えを表しています。教えの中心にあるのは、悪そのものをよしとすることではなく、人の激しい力が改心によって別の方向へ転じる、という見方です。
古い形としては、「悪に強きは善にも強し」がよく知られています。今の「悪に強ければ善にも強し」は、その言い回しを少しやわらかくした形と考えてよく、意味は同じです。
古い用例としてまず確かめられるのは、室町末から近世初にかけて成立した狂言『悪太郎』です。そこでは「悪に強いは善にも強い」という形のせりふが出てきて、このことわざがすでに成句として通じていたことが分かります。
『悪太郎』は、乱暴で酒好きな悪太郎が、伯父のはからいによって僧の姿に変えられ、それをきっかけに心を改めていく筋立ての狂言です。乱暴者だった人物が、ふとしたきっかけで信仰の道へ入り、別人のように変わるところが、このことわざの内容とよく重なります。
この作品にこのことわざが置かれているのは、ただの飾りではありません。悪太郎のように、もともとの勢いが強い人物だからこそ、善いほうへ向きなおったときの変化も大きい、という見方が、物語全体の笑いと教訓の土台になっています。
江戸時代に入ると、このことわざは俳諧書『毛吹草』にも、1638年(寛永15年・江戸時代前期)の例として「あくにつよければぜんにもつよし」と出てきます。書きぶりに少しゆれ(書き方の違い)はありますが、言葉そのものは早くから広く知られていたことがうかがえます。
さらに、1705年(宝永2年・江戸時代中期)の浄瑠璃『用明天皇職人鑑』には、「悪につよきはぜんのたね」という近い形も伝わっています。ここからも、江戸時代にはこの考え方が一つの決まった言い回しとして人々に親しまれていたことが分かります。
このことわざの「強し」は、腕力があるという意味に限りません。心の勢いが強い、物事にのめりこむ力が強い、という意味合いで受け取ると分かりやすく、悪に向いたその強さが、改心のあとには善に向かう、という形で理解できます。
そのため、このことわざは、ちょっとした失敗をした人について軽く使う言葉ではありません。以前はかなり乱暴であったり、道を大きく踏み外したりした人が、深い反省のあとで人一倍よく生きるようになった場合にこそ、ぴたりと当てはまります。
また、このことわざは「悪人のほうがえらい」と言っているのでもありません。悪へ向かった力そのものをほめるのではなく、強い人間が本当に心を改めたとき、その強さが善い行いにも生かされることがある、と見るところに重みがあります。
こうして見ると、「悪に強ければ善にも強し」は、人は変わりうるという希望をふくんだことわざだといえます。古い芸能や書物の中で受けつがれながら、今でも、激しく道を誤った人が深く反省して立ち直った場面を語るときに生きる言葉です。
「悪に強ければ善にも強し」の使い方




「悪に強ければ善にも強し」の例文
- 昔は町で乱暴者と呼ばれた人が、今では毎朝の見守り活動を続ける姿に、悪に強ければ善にも強しを思う。
- 若いころ非行に走った兄が、いまは少年たちの相談相手になっているのを見ると、悪に強ければ善にも強しという言葉が浮かぶ。
- その僧の一生は、悪に強ければ善にも強しを地で行くような変わり方であった。
- 大きな過ちを犯したのち、人一倍まじめに働く彼を、悪に強ければ善にも強しの例として語る人もいる。
- 物語の主人公が改心して村人を救う結末は、悪に強ければ善にも強しをよく表している。
- ただのいたずら好きの子に悪に強ければ善にも強しを当てはめるのは、意味が重すぎる。























