【故事成語】
笈を負う
【読み方】
きゅうをおう
【意味】
勉学のために故郷を離れ、遠い土地へ学びに行くこと。


【類義語】
・負笈(ふきゅう)
・遊学(ゆうがく)
「笈を負う」の故事
「笈(きゅう)」は、書物を入れて背負うための箱です。古くは竹などで作られ、学問をする者が書物を携えて旅をするときに用いました。「笈を負う」は、文字どおりには、その本箱を背中に担ぐことを表します。
この言い方の背景として伝わる代表的な話が、前漢の司馬遷が著した『史記(しき)』(紀元前1世紀ごろ)の「蘇秦列伝」にあります。戦国時代の蘇秦(そしん)は、東周の洛陽を出て東方の斉へ向かい、鬼谷先生(きこくせんせい)に学びました。その後も数年にわたって諸国を巡り、苦しい経験を重ねながら、学問と弁論の術を磨きました。
ただし、『史記』のこの箇所は、蘇秦が故郷を離れて学んだことを記すもので、「負笈」という二字そのものは出てきません。「笈を負って師を求める」という形は、後漢の学者たちを扱った記録の中に、よりはっきりと書かれています。
北宋初期に李昉らが編纂した『太平御覧(たいへいぎょらん)』(977~984年)巻第七百十一の「笈」の項には、古い史書から「負笈」を用いた例が数多く集められています。そこでは、笈を「学ぶ者が書箱を背負うためのもの」としたうえで、師を訪ねて遠い道を歩いた人々の話を並べています。
謝承の『後漢書』から引いた蘇章(そしょう)の話には、「負笈追師、不遠万里」とあります。これは、蘇章が笈を背負って師を追い求め、一万里もの道のりさえ遠いと思わなかったという意味です。学びたいという強い志が、旅の苦労や距離を乗り越えさせたことを表しています。
同じ箇所には、李固(りこ)の父が高い官職に就いていたにもかかわらず、李固自身は歩いて笈を背負い、千里の道を進んで師に従ったとあります。後に范曄がまとめた『後漢書(ごかんじょ)』(南朝宋、5世紀)の「李杜列伝」にも、李固は若いころ学問を好み、いつも歩いて師を求め、千里を遠いと思わなかったと記されています。
これらの話では、笈は単なる荷物ではありません。学ぶために住み慣れた土地を離れ、書物を背負って遠い師のもとへ向かう者の志を象徴しています。そのため、「笈を負う」は、特定の一人だけを指すのではなく、学問を求めて遠方へ旅立つ人々の姿を広く表すようになりました。
日本での古い用例は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』(797年成立、菅野真道・藤原継縄ら編)の養老五年、すなわち721年の記事に出てきます。そこには、僧の行善について「負笈遊学、既経七歳」とあり、笈を背負って遊学し、すでに七年を経て、故郷へ帰ろうとしていることが記されています。奈良時代には、すでに「笈を負うこと」と「遠方で学ぶこと」が結び付いていたのです。
鎌倉時代には、道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』(1231~1253年)に、「負笈して明師に参学すべし」とあります。ここでは、優れた師に学ぶために遠くへ赴くことを、二字の「負笈」という形で表しています。
さらに近代には、永井荷風の『冷笑』(1909~1910年)で、「遙々笈を負うて都門の先生を訪ひに来た」と使われました。実際に本箱を背負っているかどうかにかかわらず、故郷を離れて遠方の先生に学ぶという意味で、文学的な表現として受け継がれています。
このように、「笈を負う」は、本を入れた箱を背負うという具体的な行為から、学問を求めて郷里を離れることへと意味が広がりました。遠くまで師を訪ねる行動だけでなく、苦労をいとわず本格的に学ぼうとする志も含んだ、古風で格調のある表現です。
「笈を負う」の使い方




「笈を負う」の例文
- 若い僧は仏教を深く学ぶため、笈を負う決心をして都へ向かった。
- 祖父は十代で笈を負うように故郷を離れ、遠方の師の門に入った。
- 家族は、医学を志して笈を負う息子を駅で見送った。
- 彼女は優れた画家に学ぶため笈を負う覚悟を固め、海を渡った。
- 江戸時代の学者の中には、名高い先生を訪ねて笈を負う者が少なくなかった。
- 学問への強い志が彼に笈を負う道を選ばせ、遠い都での修業へ向かわせた。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000~2002年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・司馬遷『史記』前漢、紀元前1世紀ごろ。
・范曄『後漢書』南朝宋、5世紀。
・李昉ほか編『太平御覧』北宋、984年。
・菅野真道・藤原継縄ら編『続日本紀』797年。
・道元『正法眼蔵』1231~1253年。
・永井荷風『冷笑』1909~1910年。























