【故事成語】
杞憂
【読み方】
きゆう
【意味】
心配する必要のないことを、あれこれ心配すること。無用の心配や取り越し苦労。


【英語】
・groundless fears(根拠のない不安)
・needless anxiety(必要のない心配)
【類義語】
・取り越し苦労(とりこしくろう)
・杞人の憂え(きじんのうれえ)
「杞憂」の故事
「杞憂」は、中国古代の思想書『列子(れっし)』「天瑞篇(てんずいへん)」に出てくる話にもとづきます。『列子』は、伝統的には道家の人物である列禦寇の言行を記した書物とされ、現存する本文は、東晋の張湛が注を施した形で伝わっています。
昔、中国の杞(き)という国に、天地が崩れ落ち、自分の身を置く場所がなくなるのではないかと心配する人がいました。杞は周代の諸侯国で、現在の河南省杞県付近にあった国です。その人は不安のあまり、眠ることも、食事を取ることもできなくなりました。
その人を心配した別の人が、事情を説明して安心させようとします。まず、「天は気が積み重なったものであり、気のない場所はどこにもない。人は一日中、その気の中で体を動かし、呼吸しているのだから、天が崩れ落ちることを心配する必要はない」と話しました。
しかし、杞の人は安心せず、「天が気の集まりなら、太陽や月や星は落ちてこないのか」と尋ねます。相手は、「太陽や月や星も、気の中で光っているものであり、たとえ落ちても、人を傷つけることはない」と答えました。
すると、杞の人は、今度は大地が崩れることを心配しました。相手は、「大地は土の塊が積み重なって四方を満たしたものであり、あなたは毎日その上を歩いている。どうして崩れると心配するのか」と諭しました。杞の人はようやく不安を解き、説明した人も一緒に喜びました。
一般には、この場面から、起こる根拠のないことを心配するという意味が生まれたと理解されています。しかし、『列子』の話は、二人が安心したところでは終わりません。続いて、長廬子(ちょうろし)という人物が現れ、「天地が崩れると心配するのは遠すぎる考えだが、決して崩れないと言い切るのも正しくない」と述べます。
さらに列子は、天地が崩れるという意見も、崩れないという意見も、どちらが確かなのかは分からないと語ります。そして、生きている者には死後のことが分からず、死者には生のことが分からないのと同じように、知ることのできない問題に心を奪われても仕方がないという考えを示します。
この結びまで読むと、「杞憂」は、ただ愚かな心配を笑うだけの話ではないことが分かります。人の知識では確かめられない遠い問題に悩み、現在の生活まで損なうことのむなしさを表した話でもあります。現在の意味では、とくに、根拠の乏しい心配や、結果として必要のなかった心配を指します。
元の本文には、「杞憂」という二字の題名や言い回しが、そのまま出てくるわけではありません。後の時代に、杞の人が天を心配した話が「杞人憂天」「杞人之憂」「杞人の憂い」などとまとめられ、日本語では、杞の国の人の憂いという意味を二字に縮めた「杞憂」が定着しました。
日本では、『漢語便覧』(1871年・明治時代初期、梅岳山人輯)に「杞憂」が収められています。また、田口卯吉の『条約改正論』(明治22年)には、「先づ第一に此の如き杞憂を抱く方々は」という用例があり、起こるかどうか分からない事態を必要以上に恐れる意味で用いられています。
森鷗外の小説『ヰタ・セクスアリス』(明治42年)にも、「それは杞憂であった」という用例が出てきます。このように、「杞憂」は明治時代以降、心配が不要だったと後から分かった場合や、根拠の薄い不安をたしなめる場合に用いる言葉として、広く定着しました。
「杞憂」の使い方




「杞憂」の例文
- 遠足の日に雨が降るのではないかと心配したが、空は一日中晴れ渡り、杞憂に終わった。
- 母は転校した弟に友だちができるか心配していたが、その不安は杞憂だった。
- 新しい機械がすぐ故障するという社員の心配は、十分な試験によって杞憂だと分かった。
- 橋の安全性は定期的に検査されており、突然崩れるのではないかという心配は杞憂にすぎなかった。
- 準備を重ねた選手たちは、失敗するかもしれないという杞憂を振り払い、試合に臨んだ。
- 人口が少し減っただけで町がすぐに消滅すると決めつけるのは、杞憂となる可能性がある。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・小林信明『新釈漢文大系22 列子』明治書院、1967年。
・梅岳山人輯『漢語便覧』1871年。
・田口卯吉『条約改正論』経済雑誌社、1889年。
・森鷗外『ヰタ・セクスアリス』1909年。























