【故事成語】
九牛の一毛
【読み方】
きゅうぎゅうのいちもう
【意味】
多数の中のきわめて少ない一部分。比較にならないほどわずかで、取るに足りないこと。


【英語】
・a drop in the ocean.(全体に比べて、あまりにもわずかな量)
【類義語】
・滄海の一粟(そうかいのいちぞく)
・大海の一滴(たいかいのいってき)
「九牛の一毛」の故事
「九牛の一毛」は、中国の前漢時代に活躍した歴史家、司馬遷の「任安に報ずる書」に出てくる言葉にもとづきます。この書簡は紀元前91年ごろに書かれ、『漢書(かんじょ)』「司馬遷伝」や『文選(もんぜん)』に収められて伝わりました。
司馬遷は、紀元前2世紀から紀元前1世紀に生きた前漢の歴史家です。匈奴(きょうど)に降った武将の李陵(りりょう)を弁護したため、武帝の怒りを受け、宮刑(きゅうけい)という屈辱的な刑罰に処せられました。
「任安に報ずる書」は、司馬遷が友人の任安(じんあん)に送った返事です。任安の字(あざな)は少卿であったため、「任少卿に報ずるの書」とも呼ばれます。任安は司馬遷に、賢い人物を推薦し、立派な人材を世に出すよう求めていました。
しかし、司馬遷は、宮刑を受けた自分が世間から軽んじられており、任安の求めに応じられるような立場ではないことを語ります。その中に、「假令僕伏法受誅、若九牛亡一毛、與螻蟻何異」という一節があります。
これは、「たとえ私が法に従って死刑になったとしても、多くの牛から一本の毛が失われるようなもので、螻蟻(ろうぎ:けらやありのような小さな虫)が死ぬのと何が違うだろうか」という意味です。ここでの「九牛」は多くの牛を、「一毛」はその中のたった一本の毛を表しています。
司馬遷は、自分が死んでも世の中にはほとんど影響がなく、節義を守って立派に死んだ人物とも認められないだろうと考えていました。ただ罪から逃れられずに死んだ、取るに足りない者と思われるにすぎないという深い悲しみを、このたとえに込めています。
そのすぐ後には、「人固より一死有り。死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し」という趣旨の言葉が続きます。人は必ず死ぬものですが、その死には、泰山ほど重いものもあれば、鳥の羽毛ほど軽いものもあり、何のために命を用いるかによって価値が異なるという意味です。
司馬遷が屈辱に耐えて生き続けたのは、父の志を継いで書き進めていた歴史書を完成させるためでした。「任安に報ずる書」には、天下の失われた伝承を集め、成功と失敗、興隆と滅亡の道理を調べ、全百三十篇の書物を著したことが記されています。
この書物が、後に中国を代表する歴史書となった『史記(しき)』です。司馬遷は、自分一人の死は九牛の一毛にすぎないとしながらも、果たすべき仕事を残したまま死ぬことを選ばず、恥辱に耐えて『史記』を後世へ伝えました。
もとの文章では、「九牛亡一毛」、すなわち「多くの牛が一本の毛を失う」という形で使われています。そこから、「亡」の字を省いた「九牛一毛」や、助詞を加えた日本語の「九牛の一毛」という形が定着し、多数の中のごくわずかな部分を表すようになりました。
日本における古い用例は、『将門記(しょうもんき)』(940年ごろ成立・平安時代中期、作者不詳)に出てきます。合戦で多くの者が討たれ、生き残った者が非常に少なかった場面に、「其の遺れる者、九牛の一毛に当らず」とあります。
この用例では、司馬遷のように一人の命の軽さを嘆くのではなく、大勢の中に残った者がごく少ないことを表しています。中国の書簡にあった個人的で悲痛なたとえが、日本では、広く数量の少なさを示す表現として使われるようになったことが分かります。
福沢諭吉の『福翁百話(ふくおうひゃくわ)』(明治30年、福沢諭吉著)にも、「九牛中の一毛は物の数にあらずとの意味ならん」とあります。このころには、多数の中では問題にならないほど小さなものを表す、現在と同じ意味が明確に定着していました。
現在の「九牛の一毛」は、全体の大きさと一部分の小ささを比べる表現です。単に数が少ないというだけでなく、全体から見れば影響を及ぼさないほどわずかであることを、多くの牛と一本の毛との鮮やかな対比によって表す故事成語です。
「九牛の一毛」の使い方




「九牛の一毛」の例文
- 広い森林全体から見れば、今回調査した区域は九牛の一毛にすぎない。
- 長年積み重なった会社の損失に比べれば、その金額は九牛の一毛だった。
- 全校生徒が集めた古紙の中では、私が持参した一束など九牛の一毛である。
- 宇宙について人類が知っていることは、まだ九牛の一毛にすぎない。
- 彼の寄付は莫大な復旧費用に対して九牛の一毛だったが、多くの人の協力を呼び起こした。
- 九牛の一毛ほどの小さな手掛かりから、研究者たちは事件の全体像を明らかにした。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・北村孝一編『ことわざを知る辞典』小学館、2018年。
・Cambridge University Press & Assessment『Cambridge Dictionary.』
・司馬遷『任安に報ずる書』前漢・紀元前91年ごろ。
・班固『漢書』後漢・1世紀。
・蕭統編『文選』梁・6世紀。
・『将門記』940年ごろ。























