【故事成語】
悪を為すも刑に近づく無し
【読み方】
あくをなすもけいにちかづくなし
【意味】
悪いことをしても、刑罰を受けるほどの大きな罪にまで進んではならないという戒め。転じて、軽い気持ちの過ちが重い結果を招かぬよう慎むべきだという意にも用いる。


【英語】
・Do not go so far in wrongdoing as to incur punishment.(悪事も処罰を受けるところまで進めるな)
・Keep your wrongdoing from crossing into crime.(悪事が犯罪になる一線を越えるな)
・Do no evil that brings the law upon you.(法の裁きを招く悪事はするな)
【類義語】
・小人閑居して不善をなす(しょうじんかんきょしてふぜんをなす)
・悪事身に返る(あくじみにかえる)
・悪を見ること、農夫の努めて草を去るが如し(あくをみること、のうふのつとめてくさをさるがごとし)
【対義語】
・善は急げ(ぜんはいそげ)
・悪を見て為さざるは勇無きなり(あくをみてなさざるはゆうなきなり)
・陰徳あれば陽報あり(いんとくあればようほうあり)
「悪を為すも刑に近づく無し」の故事
この故事成語は、中国戦国時代の思想家である荘子(そうじ)の書『荘子』にある一節から来ています。『荘子』は道家の代表的な書物で、今に伝わる形は三十三篇から成ります。
「悪を為すも刑に近づく無し」は、『荘子』の内篇にある「養生主」の冒頭の文に由来します。もとの漢文は、「為善無近名、為悪無近刑。縁督以為経、可以保身、可以全生、可以養親、可以尽年」と伝わっています。
このうち、「為善無近名」は、善を行っても名声を求めるところまで行くなという形で読まれてきました。続く「為悪無近刑」が、日本語では「悪を為すも刑に近づく無し」と書き下され、後半だけ取り上げられることもあります。
ただし、この句は、単純に「少しの悪ならしてよい」とすすめる言葉ではありません。もとの章全体では、善悪のどちらかに強く寄りすぎず、身を傷つけずに生を全うするという、老荘らしい処世の考えが大きな土台になっています。
「養生主」という章名も、ただ食事や休養に気をつけるというほどの意味ではありません。生き方の根本をたもち、無理な欲や余計な争いで自分をすり減らさないことを説く章として読まれてきました。
そのため、この句のいちばん大事なところは、「悪事をしてもばれなければよい」ということではありません。そうではなく、行きすぎて自分の身を破るところまで進むな、という強い自制の考えにあります。
この章の中には、庖丁(ほうてい)という料理人が牛を見事にさばく話も出てきます。文恵君がその技の話から「養生」を学んだとされることからも、ここで語られているのは、無理に力で押し切らず、道理にかなって身を保つ生き方だと分かります。
後の時代には、この句をめぐって解釈が分かれました。文字どおりに読むと、刑罰に触れない範囲なら悪も許すように見えるため、これを強く批判する読み方も生まれましたが、一方で、もとの文脈からは、世俗の善悪や名利に深く巻きこまれない態度を説くと受け取る考え方もあります。
日本語として使うときは、もとの思想全体をそのまま語るよりも、「軽い気持ちの悪事でも、重い罪につながるところまでは絶対に行くな」という戒めとして理解されることが多いようです。子どものいたずら、職場でのごまかし、友人どうしの軽い悪ふざけなどが、大きな問題へ広がりそうなときによく合います。
このように、「悪を為すも刑に近づく無し」は、『荘子』の一節をもとにしながら、日本語では強い自制をうながす言葉として受け取られてきました。悪の道へ一歩ふみ出すこと自体を軽く見るのではなく、その一歩が取り返しのつかないところへ続くことを忘れるな、という重みのある故事成語です。
「悪を為すも刑に近づく無し」の使い方




「悪を為すも刑に近づく無し」の例文
- 祖父は、悪を為すも刑に近づく無しという言葉を引き、いたずらが盗みや器物損壊に変わる前にやめよと諭した。
- 店の商品を友人どうしで持ち出そうとする計画を聞いて、悪を為すも刑に近づく無しという戒めの重さを思った。
- 会社の経費をごまかす話が出たとき、上司は悪を為すも刑に近づく無しとして、その場で不正を止めた。
- 祭りの夜の悪ふざけが放火や暴行に広がりかねないと知り、悪を為すも刑に近づく無しの言葉が胸に浮かんだ。
- 軽い気持ちで他人の自転車に乗る行為も、悪を為すも刑に近づく無しと考えれば見過ごせない。
- 悪を為すも刑に近づく無しという言葉は、ずるや隠し事が大きな罪へ変わる前に立ち止まれという警告として読める。























