【故事成語】
己を虚しうす
【読み方】
おのれをむなしうす
【意味】
私情や先入観、かたくなな自己主張を捨て、謙虚で素直な心になること。


【英語】
・keep an open mind(先入観を持たず、異なる考えを受け入れられる心でいる)
【類義語】
・虚心坦懐(きょしんたんかい)
【対義語】
・我を張る(がをはる)
「己を虚しうす」の故事
「己を虚しうす」は、中国の歴史書『漢書(かんじょ)』(後漢、1世紀、班固著)の「五行志上」に出てくる「虚己」という言葉に基づきます。『漢書』は、前漢の歴史を記した全百巻の正史で、「五行志」には、政治や人の行いと自然界の変化との関係が論じられています。
その冒頭では、古代中国の政治の大原則を説く『書経(しょきょう)』の「洪範(こうはん)」を取り上げています。「洪範」は「大いなる法則」という意味で、国を治めるための九つの原則を述べた篇です。伝承では、殷(いん)の賢人である箕子(きし)が、周の武王にその教えを授けたといいます。
周の武王は、殷を滅ぼして新たな王朝を開きました。一方、箕子は、滅ぼされた殷王朝の一族であり、重要な地位にあった人物です。勝者である武王が、敗れた側の年長者に教えを求めるという関係でした。
『漢書』には、このときの武王の態度を、「周既克殷、以箕子帰、武王親虚己而問焉」と記しています。やさしく言えば、「周が殷に勝つと箕子を迎え、武王は自ら心を空にして、箕子に教えを尋ねた」という意味です。
武王は、新しい国を治める王として、自分の考えを一方的に押し通すこともできました。しかし、自分が勝者であるという誇りや、殷の人物に対する先入観を脇へ置き、箕子の知恵に耳を傾けました。この態度を表したのが「虚己」です。
「虚」は、本来、何も入っていない空の状態を表す漢字です。そこから、心の中を自慢や思い込みで満たさず、邪心のない素直な状態にするという意味にも用いられるようになりました。「虚己」は、自分の心を空の器のようにし、他人の教えを受け入れられる状態にすることを表します。
『書経』の「洪範」では、武王が箕子に、人々が守るべき正しい秩序について尋ねます。箕子はこれに答え、五行・政治・暦・徳・吉凶など、国を治めるための九つの大原則を説きました。この問答は、殷から周へ知恵を伝える物語として受け継がれましたが、「洪範」本文の成立は戦国時代と考えられています。
この故事で大切なのは、武王がただ質問したことではありません。自分の立場や権力を誇らず、相手がもつ知恵を尊重し、まず自分の心を受け入れられる状態に整えてから尋ねた点にあります。学ぶ者の謙虚さを示す行動として、「虚己」が後世の教えとなりました。
日本語では、漢語の「虚己」を語順に合わせて、「己を虚しゅうする」と言い表します。「虚しゅう」は「虚しく」のウ音便であり、文語的な形では「己を虚しうす」とも書きます。「す」は、現代語の「する」に当たります。
もとの故事では、王が賢人に政治の教えを尋ねる場面を表していました。その後は、身分や場面を問わず、自分の感情や利害、先入観をいったん退け、他人の意見や忠告を謙虚に聞くという意味で使われるようになりました。
したがって、「己を虚しうす」は、自分の考えを持たず、何でも人に従うことではありません。自分の考えだけが正しいと決めつけず、相手の言葉から学べるように心を開き、そのうえで物事を公平に判断することを説いた故事成語です。
「己を虚しうす」の使い方




「己を虚しうす」の例文
- 己を虚しうす姿勢で友人の忠告を聞いたことで、自分の誤りに気づくことができた。
- 議長は己を虚しうすことを心がけ、対立する双方の意見に公平に耳を傾けた。
- 己を虚しうす態度を失えば、どれほど知識が豊かでも新しいことは学べない。
- 父は己を虚しうす思いで、仕事についての若い社員の提案を最後まで聞いた。
- 研究者は従来の考えに固執せず、己を虚しうすことで予想外の結果を受け入れた。
- 家族で話し合うときは、己を虚しうす心を持ち、自分と異なる考えも尊重することが大切だ。
主な参考文献
・松村明監修、小学館大辞泉編集部編『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・小川環樹・西田太一郎・赤塚忠・阿辻哲次・釜谷武志・木津祐子編『角川新字源 改訂新版』KADOKAWA、2017年。
・Colin McIntosh編『Cambridge Advanced Learner’s Dictionary Fourth Edition』Cambridge University Press、2013年。
・班固著、小竹武夫訳『漢書 2 表/志(上)』筑摩書房、1998年。
・『書経』「洪範」。























