【ことわざ】
青田から飯になるまで水加減
【読み方】
あおたからめしになるまでみずかげん
【意味】
米は、青田にあるときから飯に炊き上がるまで、水の加減が大切だということ。転じて、何事もやりすぎず、ほどよい加減が肝心だというたとえ。


【英語】
・Everything in moderation.(何事もほどよい加減が大切)
・Too much is as bad as too little.(多すぎても少なすぎてもよくない)
・There is measure in all things.(すべての物事にはほどがある)
【類義語】
・過ぎたるは猶及ばざるが如し(すぎたるはなおおよばざるがごとし)
・医者の薬も匙加減(いしゃのくすりもさじかげん)
・薬も過ぎれば毒となる(くすりもすぎればどくとなる)
【対義語】
・大は小を兼ねる(だいはしょうをかねる)
・念には念を入れよ(ねんにはねんをいれよ)
・転ばぬ先の杖(ころばぬさきのつえ)
「青田から飯になるまで水加減」の語源・由来
このことわざは、青田(あおた)と飯(めし)という、米がたどるはじめと終わりを一つにつないだ言い方です。田んぼで青く育つ時期から、食卓にのぼるご飯になるまで、ずっと水の加減が大事だという実感が、そのまま言葉になっています。
稲は、水が多すぎても少なすぎても、育ち方や実り方に影響を受けます。田に水を入れる時期や量を見きわめることは、米づくりの大切な仕事でした。
しかも、米は収穫して終わりではありません。収穫したあとも、米をとぎ、水につけ、炊き上げるまでの一つ一つで、水の量によってかたさも味も変わります。
つまりこのことわざは、農作業の言葉であると同時に、台所の知恵でもあります。田んぼでも、かまどでも、行きすぎや足りなさを避けて、ちょうどよいところを見つけることが大切だと教えているのです。
このことわざには、だれか一人の発言や、特定の出来事から生まれたというはっきりした故事はありません。そのため、一つの古典作品に由来するというより、米づくりと炊飯の経験が結びついて形づくられた言葉と考えられています。
はじめて文字に書かれた時期を一つに定めるのはむずかしいのですが、この言い方は、農業にかかわることばや、各地の言い習わしの中で受けつがれてきました。特別にむずかしい理屈ではなく、毎日の暮らしの中でだれもが納得できる内容だったからでしょう。
日本では、米は長く生活の中心にありました。だからこそ、米を育てる人にも、米を炊く人にも、このことばの重みがよく分かったのです。
とくに、今のように機械で細かく管理できる時代より前には、水のあんばいを目で見て、手で覚えていく必要がありました。田の水も、かまどの炊飯も、少しの違いが出来を大きく左右したので、このことわざには実感のこもった説得力がありました。
「青田から飯になるまで」という言い方がよいのは、米の長い道のりを一息に見せてくれるところです。田植えのあとの青い田から、茶わんの中のご飯までをつなげることで、水加減の大切さが最後まで続くことを、分かりやすく伝えています。
また、「水加減」は、ただ水の量だけを指しているわけではありません。ここでは広く、やり方のほどよさ、物事のちょうどよい度合いを表す言葉として受け取られるようになりました。
そのため、このことわざは、米づくりや炊飯だけにとどまらず、勉強のしかた、練習の量、人への気づかい、仕事の進め方などにも使われます。力を入れればよいというものでもなく、控えすぎればよいというものでもない、という教えに広がっていったのです。
そう考えると、「青田から飯になるまで水加減」は、米を育て、炊いてきた暮らしの中から生まれた、とても日本らしいことわざだといえます。青い田から一杯のご飯までを見通しながら、何事にもほどよい加減が大切だと、やさしく教えてくれる言葉なのです。
「青田から飯になるまで水加減」の使い方




「青田から飯になるまで水加減」の例文
- 文化祭の発表原稿は内容を詰めこみすぎても時間を超えるので、青田から飯になるまで水加減である。
- 子どもの手伝いは細かく口を出しすぎるとかえって進まないから、青田から飯になるまで水加減だ。
- 友人を励ますつもりで何度も連絡すると負担になることがあり、青田から飯になるまで水加減を忘れてはならない。
- 運動会の練習で声を張り上げすぎて本番前にのどを痛め、青田から飯になるまで水加減を思い知った。
- 新人指導は任せ方が少なすぎても多すぎても育ちにくいので、青田から飯になるまで水加減が大切になる。
- 節電も無理な我慢ばかりでは長続きしないから、青田から飯になるまで水加減という考え方が役に立つ。























