【故事成語】
邯鄲の歩み
【読み方】
かんたんのあゆみ
【意味】
むやみに他人のまねをして、自分本来のものまで失い、結局どちらもうまくいかなくなることのたとえ。


【英語】
・If you copy others, you’ll lose your originality.(他人のまねをすれば、自分らしさを失う)
【類義語】
・邯鄲学歩(かんたんがくほ)
・邯鄲之歩(かんたんのほ)
【対義語】
・独立独歩(どくりつどっぽ)
「邯鄲の歩み」の故事
「邯鄲の歩み」は、中国の思想書『荘子(そうじ)』外篇「秋水」に出てくる話にもとづく故事成語です。『荘子』は内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の三十三篇から成り、現在の三十三篇本は晋の郭象の注本以来定まったものとされています。
この故事の舞台となる邯鄲(かんたん)は、中国の戦国時代に趙(ちょう)の都として栄えた都市です。古代の邯鄲は経済や文化の中心として知られ、文学の中でもしばしば取り上げられました。
『荘子』「秋水」では、公孫龍(こうそんりゅう)が魏牟に、荘子の言葉をどう考えればよいのかを問う場面に、この話が出てきます。魏牟は、公孫龍のものの見方の狭さを説くために、井戸の中の蛙の話などを重ねて語ります。
その流れの中で、魏牟は「壽陵餘子之學行於邯鄲」という話を持ち出します。これは、寿陵(じゅりょう)の若者が邯鄲へ行き、その地の歩き方を学ぼうとした、という意味です。
原文には「未得國能,又失其故行矣,直匍匐而歸耳」と続きます。邯鄲のすぐれた歩き方をまだ身につけないうちに、自分のもとの歩き方も忘れてしまい、ただ這って帰った、という内容です。
ここでいう「國能」は、趙の国のすぐれた技、つまり邯鄲の人々の歩きぶりを指します。「故行」は、その若者がもともと身につけていた歩き方を指します。
この話は、単に歩き方をまねた失敗談ではありません。自分の力や土台をよく見ないまま、外から見て立派に思えるものだけをまねると、相手のよさも身につかず、自分のよさまで失う、という戒めを表しています。
『荘子』「秋水」の中では、この話は公孫龍に向けたたとえとして働いています。荘子の深い思想を、表面的な議論や細かな弁論だけで理解しようとすれば、かえって自分のもとの学問まで失いかねない、という文脈です。
この故事から、中国語では「邯鄲學步」という成語が生まれました。現在でも、まねがうまくいかず、かえって自分らしさを失うことを表す言葉として用いられます。
日本語では、「邯鄲の歩み」という読み下した形のほか、「邯鄲学歩」「邯鄲之歩」という形も用いられます。どの形も、他人のまねに心を奪われて、本来の自分のやり方を失うという意味をもっています。
近代の用例として、芥川龍之介の『歯車』(昭和2年)にも「邯鄲の歩み」という表現が出てきます。ここでは、寿陵の若者の故事をふまえて、自分の姿を重ねる形で用いられています。
現在の「邯鄲の歩み」は、他人のよいところを学ぶことを否定する言葉ではありません。大切なのは、まねる前に自分の土台を失わないことであり、この故事成語は、自分のよさを忘れて形だけを追う危うさを静かに教えています。
「邯鄲の歩み」の使い方




「邯鄲の歩み」の例文
- 人気歌手の歌い方を無理にまねた結果、自分の声のよさを失い、邯鄲の歩みになった。
- 友人の勉強法をそのまま取り入れたが合わず、以前の習慣まで崩れて邯鄲の歩みとなった。
- 会社は流行の経営手法を急にまねて、長年の強みまで失い、邯鄲の歩みを招いた。
- 絵の先生は、他人の画風を追いすぎると邯鄲の歩みになると注意した。
- 料理の店が有名店の見た目だけをまね、もとの味を忘れてしまったのは邯鄲の歩みである。
- 新しい方法を学ぶときこそ、邯鄲の歩みにならないよう、自分の基本を確かめる必要がある。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・松村明監修、小学館大辞泉編集部編『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・小学館ランダムハウス英和大辞典第二版編集委員会編『プログレッシブ和英中辞典 第4版』小学館、2011年。
・相原茂編『中日辞典 第3版』小学館、2016年。
・『荘子』戦国時代末期ごろ。























