【故事成語】
己の欲せざる所は人に施す勿れ
【読み方】
おのれのほっせざるところはひとにほどこすなかれ
【意味】
自分が人からされたくないと思うことは、自分も他人にしてはならないという教え。


【英語】
・What you do not wish for yourself, do not do to others(自分が望まないことを、他人にしてはならない)
【類義語】
・我が身を抓って人の痛さを知れ(わがみをつねってひとのいたさをしれ)
「己の欲せざる所は人に施す勿れ」の故事
「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は、中国の古典『論語(ろんご)』に出てくる孔子の教えです。『論語』は、春秋時代の思想家である孔子の言行や、弟子たちとの問答を記した書物で、孔子の生前から書き留められた記録を、没後に門人の系統がまとめたと考えられています。
この言葉は、まず「顔淵(がんえん)」篇で、孔子の弟子である仲弓(ちゅうきゅう)が「仁」について尋ねた場面に出てきます。孔子は、人と接するときには大切な客を迎えるように敬い、人々に仕事を命じるときには大きな祭りに仕えるように慎み、「己所不欲、勿施於人」と教えました。
原文の「己所不欲」は自分が望まないこと、「勿施於人」は、それを人に行ってはならないという意味です。自分が受ければ苦痛や不快を覚える行為は、他人も望まないのだから、押し付けてはならないと説いています。
孔子は、そのような思いやりと、人を丁重に扱う敬いの心を実践すれば、国に仕えても家庭にいても、人から恨まれずにすむと述べました。仲弓は、自分は至らない者ではあるが、この教えを生涯実行したいと答えています。
同じ言葉は、「衛霊公(えいれいこう)」篇にも出てきます。子貢(しこう)が孔子に、「ただ一つの言葉で、生涯にわたって実行する価値のあるものはありますか」と尋ねると、孔子は「其れ恕(じょ)か。己所不欲、勿施於人」と答えました。
ここでいう「恕」は、相手の立場を自分の身に引き比べて思いやる心です。孔子は、たくさんの教えを覚えることよりも、自分がされたくないことを人にしないという簡潔な原則を、日々の行動の中で守り続けることを重んじました。
「公冶長(こうやちょう)」篇では、子貢が「自分が人からされたくないことを、自分も人にしないようにしたい」と述べたところ、孔子は、それはまだ子貢の力が及ぶ境地ではないと答えています。この問答は、この教えが、口で唱えるだけなら簡単でも、どのような相手に対しても行い続けることは難しいと伝えています。
後の注釈では、「自分が嫌うことを人に加えないのが恕であり、仁と恕の一言は生涯にわたって行うことができる」と解かれました。朱熹は『四書章句集注(ししょしょうくしっちゅう)』で、自分の心を他の人や物事にまで推し広げれば、その働きは尽きることがないため、生涯実践できるのだと述べています。
日本でも、『論語』は長く読まれてきました。1364年には、何晏らの注を集めた『論語集解(ろんごしっかい)』が堺で刊行され、経書として日本最古の刊本となりました。後に刷られた本には、日本語で読むための点や記号も書き加えられており、漢文を読み下す形で、この教えが受け継がれたことが分かります。
近代には、『福翁百話(ふくおうひゃくわ)』(1897年・明治時代後期、福沢諭吉著)に、「己の欲せざる所を人に施す勿れとは古聖人の教えにしてこれを恕の道という」とあります。ここでは、人が好まないことを仕向けないのが善であり、その反対が悪であるという道徳の原則として用いられています。
『安吾人生案内』(昭和26年、坂口安吾著)では、「汝の欲せざるところ、これを人に施すなかれ」と言い換えた形が使われました。原文をそのまま読んだ「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」のほか、「所は」と助詞を補う形や、「施すこと」を「施す」と縮める形も広まり、現在の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言い方が定着しています。
この故事成語は、相手の好みをすべて自分と同じだと決めつける教えではありません。何かを言ったり行ったりする前に、自分が同じ扱いを受けたらどう思うかを考え、相手に苦痛や不利益を押し付けないよう慎むことを説いています。
「己の欲せざる所は人に施す勿れ」の使い方




「己の欲せざる所は人に施す勿れ」の例文
- 友達の失敗を言いふらしそうになったとき、己の欲せざる所は人に施す勿れという教えを思い出した。
- 己の欲せざる所は人に施す勿れを心に留め、兄は妹が嫌がる呼び名を使うのをやめた。
- 彼女は己の欲せざる所は人に施す勿れの精神から、部下に無理な仕事を一方的に押し付けなかった。
- 己の欲せざる所は人に施す勿れという言葉は、いじめを許さない学級づくりの大切な指針となる。
- 店主は己の欲せざる所は人に施す勿れを守り、客に必要のない商品を無理に勧めなかった。
- 社会の立場や意見が違っても、己の欲せざる所は人に施す勿れを守れば、互いの尊厳を傷つけずに話し合える。
主な参考文献
・松村明監修、小学館大辞泉編集部編『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・円満字二郎編『故事成語を知る辞典』小学館、2018年。
・北村孝一編『ことわざを知る辞典』小学館、2018年。
・『論語』
・何晏ほか『論語集解』三国時代・魏。
・朱熹『四書章句集注』南宋。
・福沢諭吉『福翁百話』1897年。
・坂口安吾『安吾人生案内』1951年。























