【ことわざ】
失せたる針をば債らぬもの
【読み方】
うせたるはりをばはたらぬもの
【意味】
人に貸した物をなくされても、無理に返還を迫るものではないという戒め。強く取り立てると、かえって争いや災いを招くことがあるということ。


「失せたる針をば債らぬもの」の語源・由来
「失せたる針をば債らぬもの」は、『日本書紀(にほんしょき)』(720年・奈良時代、舎人親王ら編)の巻第二に収められた、海幸彦と山幸彦の物語に由来します。『日本書紀』は全三十巻から成り、巻第一と巻第二には、神代の物語が記されています。
兄の海幸彦(うみさちひこ)は海で魚を捕ることを得意とし、弟の山幸彦(やまさちひこ)は山で獣を捕ることを得意としていました。二人は、それぞれが使っていた漁と狩りの道具を交換することにします。
山幸彦は、兄の釣り針を借りて海へ出ましたが、魚を捕ることができず、大切な釣り針まで海中になくしてしまいました。海幸彦は自分の弓矢を返すと、弟に元の釣り針を返すよう強く求めました。
山幸彦は自分の剣を砕いて多数の新しい釣り針を作り、代わりとして差し出しました。しかし、海幸彦はそれを受け取らず、あくまでも元の釣り針を返すよう迫りました。
困り果てた山幸彦は海辺へ行き、やがて海の神の宮へと導かれます。そこで海の神の助けを受け、魚の喉に刺さっていた釣り針を取り戻しました。
山幸彦は釣り針とともに、潮を満ちさせたり引かせたりする力をもつ珠を授かり、地上へ戻りました。その珠を用いて兄を苦しめると、海幸彦はついに降伏し、弟に仕えることを誓いました。
この話の終わりに、『日本書紀』は「世人失せたる針を債らざるは、此れ其の縁なり」と記しています。世の人々が、なくされた釣り針を強く取り立てないのは、この出来事がもとになっているという意味です。
ここでいう「針」は、魚を釣るための鉤(ち)、すなわち釣り針です。「債る(はたる)」は、相手に強く求めること、請求すること、催促することを表します。
『日本書紀』の本文では、「失せたる針を債らざる」という形で述べられています。この部分が後に教訓として独立し、目的語を強める「をば」と、心得を示す「もの」を添えた「失せたる針をば債らぬもの」という形に整えられたと考えられます。
物語の海幸彦は、なくなった一本の釣り針に固執し、代わりの品を受け入れず、弟を厳しく責め続けました。その結果、かえって自分が苦しみ、弟に従うことになったため、失った物をむやみに取り立てることへの戒めが生まれました。
このことわざは、借りた側に責任がないという意味ではありません。失った物にいつまでも執着して相手を責め続ければ、品物以上に大切な信頼や人間関係まで損ないかねないことを教えています。
「失せたる針をば債らぬもの」の使い方




「失せたる針をば債らぬもの」の例文
- 貸した鉛筆を友人がなくしたが、失せたる針をば債らぬものと考え、強く責めなかった。
- 父は、貸した古い本が見つからないと聞き、失せたる針をば債らぬものとして返却を迫らなかった。
- 失せたる針をば債らぬものとはいえ、借りた側には誠実に謝る責任がある。
- 貸した傘の紛失をいつまでも責める兄に、母は失せたる針をば債らぬものと諭した。
- わずかな品物を取り立てて友情を壊すのは、失せたる針をば債らぬものの教えに反する。
- 彼は失せたる針をば債らぬものという言葉を思い出し、相手の謝罪を受け入れた。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・舎人親王ほか編『日本書紀』720年。
・太安万侶編『古事記』712年。























