【故事成語】
虞芮の訴え
【読み方】
ぐぜいのうったえ
【意味】
互いに自分の利益を主張して争うこと。また、双方が自らの非に気づき、訴えを取り下げて譲り合うことのたとえ。


「虞芮の訴え」の故事
「虞芮」とは、古代中国の虞(ぐ)と芮(ぜい)という二国を指します。両国が田地をめぐって争い、殷(いん)王朝末期に周の君主であった西伯(せいはく)、のちの文王に裁きを求めようとした話が、この故事成語のもとになっています。
この話の古い背景は、中国最古の詩集『詩経(しきょう)』(西周から春秋時代の詩を収録)の「大雅(たいが)・緜(めん)」に、すでに出てきます。その末尾には「虞芮質厥成、文王蹶厥生」とあり、虞と芮の争いが収まり、文王の徳が人々の心を動かしたことを短く歌っています。ここでは詳しい出来事までは語られませんが、虞と芮の和解が文王の徳と結び付けられていたことが分かります。
その後、前漢の司馬遷が著した『史記(しき)』(紀元前一世紀ごろ)の「周本紀(しゅうほんぎ)」に、物語の詳しい形が記されました。西伯は仁を重んじ、老人を敬い、年少者を慈しみ、賢い人々を礼を尽くして迎えたため、諸侯は争いの裁決を求めて彼のもとへ集まるようになっていました。
そのころ、虞と芮の人々には、どうしても決着のつかない争いがありました。そこで、両国の代表者は西伯に裁いてもらおうと周へ向かいましたが、周の領内に入ると、田を耕す人々は畑の境を譲り合い、民は年長者を立てて暮らしていました。
両国の人々は、まだ西伯に会わないうちに、自分たちの争いを恥ずかしく思いました。そして「吾所爭、周人所恥」、すなわち、自分たちが奪い合っているものは、周の人々なら恥ずべきこととして避けるものだ、と語り合いました。このまま裁きを求めても、ただ恥をさらすだけだと悟ったのです。
そこで、両国の人々は西伯に訴えることなく帰り、互いに土地を譲り合って争いを終えました。この出来事を聞いた諸侯は、西伯こそ天命を受けて天下を治める人物であろうとたたえました。西伯が命令や罰によって争いを止めたのではなく、その国に行き渡った徳が人々に自らの非を悟らせたところに、この故事の大切な意味があります。
日本では、『太平記(たいへいき)』(十四世紀後半成立、作者未詳)の巻第一に、「理非を決断せられしかば、虞芮の訴忽ちに停て」とあります。後醍醐天皇が記録所に出て自ら訴えを聞き、物事が正しいか誤っているかを裁いたため、人々の争いがたちまち収まったという場面です。ここでは、古代中国の二国の争いを離れ、公正な政治によって訴えや争いがやむことを表す言葉として用いられています。
こうして「虞芮の訴え」は、互いに自分の利益を主張して争うことと、自分たちの非を悟って訴えを取り下げることという、二つの意味をもつようになりました。もとの故事では、争いの勝ち負けを決めることよりも、相手を思いやって自ら譲ることが、本当の解決につながると教えています。
「虞芮の訴え」の使い方




「虞芮の訴え」の例文
- 二つの家は畑の境をめぐって虞芮の訴えを続けたが、互いの非を認めて土地を分け合った。
- 体育館の使用時間を奪い合っていた二つの部は、虞芮の訴えのように自ら一歩ずつ譲った。
- 遺産をめぐる親族の争いは虞芮の訴えとなったが、家族の絆を思い出して話し合いで収まった。
- 隣り合う町は水の利用権を主張し合ったものの、虞芮の訴えにならって公平な分配を受け入れた。
- 両社の交渉は虞芮の訴えの様相を呈したが、共同事業の目的に立ち返って和解した。
- 互いに責任を押しつけていた二人は、周囲の譲り合う姿に心を動かされ、虞芮の訴えのように争いをやめた。
主な参考文献
・小学館大辞泉編集部編、松村明監修『大辞泉 第二版』小学館、2012年。
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・司馬遷『史記』紀元前一世紀ごろ。
・『詩経』西周から春秋時代。
・『太平記』十四世紀後半成立。























