【ことわざ】
群盲象を評す
【読み方】
ぐんもうぞうをひょうす
【意味】
物事の一部分だけを理解して、全体を分かったつもりになることのたとえ。広い視点に立てず、大局的な判断ができないことを表す。


【英語】
・the blind men and the elephant.(群盲と象のたとえ)
【類義語】
・衆盲象を模す(しゅうもうぞうをもす)
・群盲象を撫ず(ぐんもうぞうをなず)
「群盲象を評す」の語源・由来
「群盲象を評す」は、古代インドに伝わる、目の見えない人々と象の寓話をもとにしたことわざです。この話は、一人の作者による一つの作品だけに出てくるものではなく、パーリ語仏典や漢訳仏典に、細部の異なる形で伝わっています。
パーリ語仏典『ウダーナ』第6章第4経では、王が、生まれつき目の見えない人々を集め、象の異なる部分に触れさせます。頭に触れた人は壺、耳に触れた人は箕、牙に触れた人は鋤の刃、鼻に触れた人は鋤の柄のようだと答えます。胴、足、尻、尾などに触れた人々も、それぞれ別の物にたとえました。
人々は、自分の答えこそ正しいと言い張り、互いに争います。そこで仏陀は、物事の一面だけを知り、自分の考えに固執して論争する人々も同じであると説きました。この段階から、話の中心には、「一部分を全体と思い込むこと」と「自分の見方だけを正しいとすること」という二つの戒めがありました。
中国に伝わった仏典にも、同じ系統の話があります。後秦(こうしん)の弘始年間に、仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)と竺仏念(じくぶつねん)が漢訳した『長阿含経(じょうあごんきょう)』巻十九では、鏡面王が、生まれつき目の見えない人々を集め、象の鼻、牙、耳、頭、背、腹、足、尾などに触れさせます。
鼻に触れた人は曲がった車の轅(ながえ)、牙に触れた人は杵(きね)、耳に触れた人は箕(み)、腹に触れた人は壁、足に触れた人は木や柱、尾に触れた人は縄のようだと答えました。人々は互いの意見を否定して争いますが、鏡面王は、「象の体は一つなのに、触れた場所が異なるため、意見の違いが生まれる」という趣旨の言葉を述べています。
北涼(ほくりょう)の時代に、曇無讖(どんむせん)が漢訳した『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』巻三十二にも、この寓話が出てきます。王の命令を受けた大臣が、多くの人々に象を触れさせると、牙は大根、耳は箕、頭は石、鼻は杵、脚は臼、背は寝台、腹は甕(かめ)、尾は縄のようだという答えが返ってきました。
同経は、人々の言葉について、象の本当の姿を言い表してはいないものの、象とまったく無関係なことを述べたわけでもない、という考えを示しています。つまり、それぞれの理解には一部分の根拠があっても、その一部分だけでは、全体を正しく表せないということです。この点が、現在の「一部だけを見て全体を判断する」という意味へ直接つながっています。
日本語では、「評す」のほかに、「撫ず」「模す」「探る」などを用いた形も伝わりました。「評す」には、触れて得たわずかな情報をもとに、象全体を評価するという意味合いがあり、長い寓話の教訓を短い一句にまとめています。
日本での古い用例としては、『春迺屋漫筆(はるのやまんぴつ)』(1891年・明治時代、坪内逍遙著)に、「群盲巨象をさぐらば其尻尾の手触り能く全象を示すに足るか覚束無し」とあります。象の尾に触れただけでは、象全体を示すことはできないという文脈で使われており、現在とほぼ同じ教訓を表しています。
このように、古代インドの寓話は、仏典を通して中国や日本へ伝わり、象の一部分だけを知って全体を論じる姿を表すことわざとして定着しました。現在では、人物、組織、社会問題、研究などについて、限られた情報だけで結論を出すことを戒める際に用います。
「群盲象を評す」の使い方




「群盲象を評す」の例文
- 一部の売上だけで店全体の経営状態を論じるのは、群盲象を評すようなものだ。
- 家族の一人の話だけで兄弟げんかの原因を決めつければ、群盲象を評すとなる。
- 各部署が自分たちの数字だけを主張する会議は、群盲象を評すの様相を呈した。
- 研究の一部分だけを読んで結論を批判するのは、群盲象を評すに等しい。
- 一つの投稿だけで世間全体の意見を判断する態度は、群盲象を評すといえる。
- 地域の一か所だけを見て町全体を評価したため、群盲象を評すとの批判を受けた。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・『ウダーナ』第6章第4経。
・仏陀耶舎・竺仏念訳『長阿含経』後秦・弘始年間。
・曇無讖訳『大般涅槃経』北涼時代。
・坪内逍遙『春迺屋漫筆』春陽堂、1891年。























