突然ですが、みなさんは「釈迦に説法」という言葉を聞いたことがありますか?
といった風に使います。
聞いたことがありましたか?
聞いたことがある、知っているよという方には「釈迦に説法」かもしれませんが、この言葉の意味をご紹介していきます。
「釈迦に説法」の意味
「釈迦に説法」の意味は、広辞苑によると「よく知っているものに、なお教えること。説く必要のないたとえ。」というものです。
自分よりもよく知っている人に対して、自分の方が詳しく知っているかのような顔をして教えることのたとえです。
知らなかったとはいえ、元ラグビー選手の前でラグビーについて熱く語って、釈迦に説法をしてしまったよ。恥ずかしい。といった場面に似たような経験はみなさんにあるのではないでしょうか。
「釈迦に説法」の語源・由来
「釈迦に説法」の語源ですが、
仏教の開祖であるお釈迦様に対して、仏法を説くなんて愚かなことだというたとえからきている言葉です。
仏教をだれよりも理解しているお釈迦様に、仏教について説くなんて、とても痛い行為ですよね。
意味が分かったところで使い方を見ていきましょう。
「釈迦に説法」の使い方
「釈迦に説法」には二種類の使い方があります。
A:自分より、その物事をよく知っている人に対して教えるという愚かな行為をしようとしているとき
B:自分をへりくだって、目上の人に対して、「僭越ながら・・・」という気持ちを込めて物事を教えようとするとき
以上の二つです。
Aの場合
「釈迦に説法」の類義語
「釈迦に説法」には類義語がたくさんあります。
・釈迦に説教
・釈迦に経
・孔子に悟道
・極楽の入り口で念仏を売る
・河童に水練
・猿に木登り
といったものがあります。すべて、その道のプロに指導する愚かさをたとえたものですね。
「釈迦に説法」の誤った認識
よく「釈迦に説法」は「猫に小判」や「馬の耳に念仏」、「犬に論語」、「兎に祭文」、「牛に経文」の類義語であるかのようにとらえられることがあります。
価値がわからないものに高価なものを与えることという意味にとらえるのは誤りです。その行為が無駄になるという結果は同じなので勘違いしやすいのですが、
「猫に小判」・・・貴重なものを与えても何の反応もないたとえ。転じて、価値のあるものでも持つ人によって何の役にも立たないことにいう。
「馬の耳に念仏」・・・馬に念仏を聞かせてもそのありがたみがわからないように、いくら説き聞かせても何の効もないたとえ。
といった意味で、教える対象が、その道のプロだったり、知識が豊富な人だったり、開祖だったりするわけではないところが、「釈迦に説法」と大きく異なります。
「釈迦に説法」は、開祖であるお釈迦様のように、詳しい人に教えることの愚かさを表現していますが、「猫に小判」は、猫に小判をあげても使い方がわからないから喜ばないし無駄でしょう?というように無駄を表現しています。
全く違いますよね?「釈迦に説法」と「猫に小判」とその類義語を混同してしまう方が多いのですが、間違いなので気を付けましょう。
「皮肉」の意味で使うのは間違い
間違いといえば、
これは、健太くんは素人なんだから、人に指導するなんて無理でしょ。と鼻で笑うような相手を皮肉った使い方です。
これは間違った使い方です。
先ほども述べましたが、「釈迦に説法」は「愚かさ」を表現した言葉です。誰かを貶めるような皮肉として使う言葉ではありません。
この間違った使い方をすると、人間関係や信頼関係が破綻するので気を付けましょう。
まとめ
ここまで「釈迦に説法」の意味や使い方について紹介してきましたが、理解していただけましたでしょうか。
「釈迦に説法」を普段耳にしたことがなかった人も、使ったことがなかったという人も、早速、明日から使ってみてください。
もし「釈迦に説法」について詳しく知っていらっしゃったのなら、この説明は「釈迦に説法」で申し訳ありませんでした。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。