【ことわざ】
形は生めども心は生まぬ
【読み方】
かたちはうめどもこころはうまぬ
【意味】
親子は姿や顔つきが似ることがあっても、性質や人柄まで同じとは限らないというたとえ。子どもの賢愚や善悪は、親と同じに決まるものではないという意味。


【類義語】
・子は産むも心は生まぬ(こはうむもこころはうまぬ)
・親は親子は子(おやはおやこはこ)
【対義語】
・瓜の蔓に茄子はならぬ(うりのつるになすびはならぬ)
・蛙の子は蛙(かえるのこはかえる)
「形は生めども心は生まぬ」の語源・由来
「形は生めども心は生まぬ」は、親が子を生むことで姿や顔つきは似ることがあっても、心のあり方までは同じにならないという考えを表したことわざです。ここでいう「形」は姿や顔つき、「心」は性質・考え方・人柄を指します。
「生む/産む」は、子を母体の外へ出すこと、また新しく生じさせることを表す言葉です。このことわざでは、体をこの世に生み出すことと、心まで同じに作り出すこととは別だという対比が、言葉の中心になっています。
古い用例として、『町人嚢(ちょうにんぶくろ)』二に「容(カタチ)は産ども心はむまず」と出てきます。これは、たとえ姿が父母に似ることがあっても、心まで同じになるわけではない、という意味を述べた一節です。
『町人嚢』は、江戸時代中期の西川如見が町人の心得を説いた教訓書です。五巻から成り、補遺として『町人嚢底払』二巻を添え、町人としての生き方、道理、質素、倹約などを説く書物として伝わっています。
この用例では、現在の「形」にあたる部分が「容(カタチ)」と書かれています。「容」には、かたち、姿、ようすという意味があり、古い文章では人の見た目や姿を表す言葉として用いられます。
また、古い表記では「産ども」「むまず」のように書かれています。現代の形では、「形は産めども心は産まぬ」と表す形もあり、「形は生めども心は生まぬ」「形は生めども心は生まず」のように書かれることもあります。
このことわざは、親子の外見上の似寄りを認めながらも、心の働きはその人自身のものだと見る言葉です。親が子を生むことはできても、考え方、善悪の判断、性格の細かなあり方まで、親の通りに生み出せるわけではありません。
そのため、このことわざは、子どもを親の写しのように決めつけることを戒める働きも持ちます。顔や体つきが似ていても、好きなもの、得意なこと、考え方、生き方は、それぞれ違うものとして受け止める必要があります。
反対の発想を表す言葉に、「瓜の蔓に茄子はならぬ」や「蛙の子は蛙」があります。これらは、子は親の性質を受け継ぎ、結局は親に似るという考えを表すため、「形は生めども心は生まぬ」と対照的な立場にあります。
現在の「形は生めども心は生まぬ」は、親子・兄弟・家族を語るときに、人の心は外見や血縁だけでは決まらないことを示すことわざとして使われます。姿が似ていても、心は一人ひとり別であるという、人を見るうえで大切な考えを伝える表現です。
「形は生めども心は生まぬ」の使い方




「形は生めども心は生まぬ」の例文
- 父と息子は顔立ちがよく似ているが、性格は正反対で、形は生めども心は生まぬという言葉がよく当てはまる。
- 姉妹は声まで似ているのに、ものの考え方はまったく違い、形は生めども心は生まぬと思わされる。
- 親が音楽家だから子も音楽を好むとは限らず、形は生めども心は生まぬである。
- 祖父は、孫の顔が息子に似ていても気性は別だと言い、形は生めども心は生まぬと笑った。
- 親子だから同じ道を選ぶはずだと決めつけるのは、形は生めども心は生まぬという考えに反する。
- 双子でも一方は理科が好きで、もう一方は物語を書くのが好きなのだから、形は生めども心は生まぬものだ。
主な参考文献
・日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000〜2002年。
・北村孝一編『ことわざを知る辞典』小学館、2018年。
・小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
・西川如見『町人嚢』1719年。























