【慣用句】
愛想も小想も尽き果てる
【読み方】
あいそもこそもつきはてる
【意味】
あきれ果てて、相手への好意や親しみの気持ちがすっかりなくなること。もう相手にしたくないほど、いやになること。


【英語】
・I’m fed up with him.(その人にはもううんざりしている)
・I’ve had enough of her excuses.(その人の言い訳にはもう我慢の限界だ)
・I’m completely disgusted with his behavior.(その人のふるまいにはすっかり愛想が尽きた)
【類義語】
・愛想が尽きる(あいそがつきる)
・愛想を尽かす(あいそをつかす)
・呆れ果てる(あきれはてる)
・愛想尽かし(あいそづかし)
【対義語】
・見直す(みなおす)
・惚れ直す(ほれなおす)
・気に入る(きにいる)
「愛想も小想も尽き果てる」の語源・由来
この慣用句は、「愛想が尽きる」を、さらに強く言った形です。もともとの意味の土台になっているのは、「愛想」がここでは人当たりのよさではなく、相手に対する好意や親しみの気持ちを表す、という点です。
「愛想」は「愛想がいい」のようにも使いますが、「愛想が尽きる」「愛想を尽かす」となると、意味は少し変わります。この場合は、相手に向けていた好意や信頼がなくなる、という意味になります。
この土台になる言い方は、かなり古くから使われていました。室町時代中期ごろの『義経記(ぎけいき)』には、すでに「あいそうもつきて」と読める形が出てきて、相手への気持ちが冷えることを表す言い回しが早くからあったことが分かります。
また、1638年(寛永15年・江戸時代前期)の『鷹筑波集(たかつくばしゅう)』にも、「愛想が尽きる」と読める例があります。つまり、この慣用句のいちばん大もとの形は、江戸時代より前から日本語の中に根づいていたのです。
そのあと、1730年(享保15年・江戸時代中期)の浄瑠璃(じょうるり)『蒲冠者藤戸合戦(かばのかんじゃふじとがっせん)』に、「あいそもこそもつきはてた」と読める形が出てきます。ここで今の慣用句にかなり近い言い方が、はっきり確かめられます。
この「こそ」は、特別な意味を付け足す語ではありません。言い方の勢いを強めたり、口調を整えたりするために添えられたもので、「愛想が尽きる」よりも、あきれや見放した気持ちを強く響かせる働きをしています。
今の表記では「小想」と書かれることがありますが、ここで大事なのは、これを別の難しい語として受け取らないことです。この場合の「小想」は「こそ」と読ませる形で、意味の中心はあくまで「愛想」、つまり好意や親しみの気持ちのほうにあります。
さらに「尽きる」に「果てる」が重なることで、気持ちが少し減ったのではなく、もうすっかりなくなってしまった感じが強まります。そのため、この慣用句は、ただ不満があるという程度ではなく、何度もあきれることが続いて、とうとう好意が残らなくなった場面に向くのです。
江戸時代以後、この言い方は、人の不実さやだらしなさ、身勝手さに対して使われることが多くなりました。とくに、一度の失敗ではなく、同じようなことをくり返して信頼まで失わせる相手に向けて言うと、意味がよく立ちます。
この慣用句には、強い失望の気持ちが入っています。怒っているだけではなく、もう期待する気持ちも薄れ、相手をかばう気にもなれない、というところまで気持ちが進んでいるのです。
だから、「ちょっと気に入らない」「少し腹が立つ」という場面では重すぎます。約束破りが続く、忠告しても改まらない、言い訳ばかりで誠意が見えない、そうした積み重ねがあってこそ自然に使える言い方です。
このように、「愛想も小想も尽き果てる」は、古くからあった「愛想が尽きる」という言い回しに、口調を強める「こそ」が加わってできた慣用句です。相手への好意が、あきれの果てにすっかりなくなることを、いっそう強く表す言葉として定着しました。
「愛想も小想も尽き果てる」の使い方




「愛想も小想も尽き果てる」の例文
- 何度注意しても宿題を人に見せてもらうばかりの友人に、ついに愛想も小想も尽き果てた。
- 約束の時間を毎回やぶり、しかも謝らない兄には、家族も愛想も小想も尽き果てた。
- 金を借りては返さず、そのたびに話をそらす相手に愛想も小想も尽き果てる。
- 地域の行事を引き受けながら準備を人任せにしていた担当者に、世話役は愛想も小想も尽き果てた。
- 同じ失敗をくり返したうえに責任を他人に押しつける部下には、上司も愛想も小想も尽き果てた。
- 何度も無断駐車をして注意にも従わない利用者に、近所の人々は愛想も小想も尽き果てている。























