故事成語とは、ある故事がもとになってできた言葉です。故事とは昔の出来事のことで、故事成語のほとんどは中国の古典に書かれた話からできています。
故事成語は、一つ一つに由来となった歴史や物語があります。
この記事では、沢山ある故事成語の中でも、厳選して有名な故事成語を100個にしぼり意味と故事付きで掲載しました。
小・中学生はもちろん、高校生も大学生も、そして大人の方の勉強としても十分活用できます。
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目次
故事成語一覧表
「あ行」の故事成語一覧
圧巻(あっかん)
【意味】
書物の中で最もすぐれた詩文。作中最もすぐれた部分。転じて、全体の中で、最もすぐれた部分。出色 。
たとえば、たくさんの物語の中で、一番感動したシーンや、一杯のカレーの中で、一番おいしい具材みたいなもんやな。これは、「一番すごいところ、一番立派なところ」を表してるんやな。
【故事】
「巻」は、昔の中国の官吏登用試験の答案。最優等者のものをいちばん上にのせたところから。
「圧巻」の言葉の元々の意味はね、昔の中国で、役人になるための試験を受ける時に使った答えを書く紙、「巻」というものがあって、その中でも一番すごい答えが書かれている紙を一番上に置いて重要視したことからこの言葉が生まれたんだよ。”巻”は答えを書いた紙を、”圧”はその一番すごい紙を一番上に置く、つまり上から押さえることを表しているんだ。
羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)
【意味】
たった一度の失敗に懲りて、必要以上に注意深くなることを表している。
つまり、一度の失敗から過剰に警戒し、必要以上に慎重になってしまうことを表しているんだ。
これは、「失敗から学ぶのは大切やけど、無用な心配は要らんで」って教えてくれる言葉なんやで。
【故事】
元々は中国由来の言葉であり、原文は「懲於羹而吹韲兮、何不變此志也」である。羮(野菜や肉を熱々に煮込んだ汁物)を食べたことにより火傷をしたことから、冷たくした膾(生肉や生魚を酢で和えたもの)でも用心深く吹いて冷ましてから食べる、そんな姿をたとえている。春秋戦国時代を代表する詩人とし有名であった屈原の詩であり、中国戦国時代の王国・楚にあった詩を集め、全17巻にも及ぶ詩集として有名な『楚辞』九章・惜誦編に収録されてある。
「羮にこりてなますを吹く」の元の話は、ちょっと面白いんだよ。昔、誰かが熱いスープ(羮)で口をやけどしてしまった後、その人は次に冷たい料理、つまり酢で和えた生肉や生魚(これを膾と言うんだ)を食べるときにも、無意識にそれが熱いかもしれないと思って息を吹いて冷やそうとしたんだ。
雨だれ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)
【意味】
どんなに微力だろうと、それを諦めず継続していけば、いつの日にか努力が実るということをたとえている。
一度や二度の努力で結果が出なくても、めげずに続けることで、大きなことを成し遂げられるってわけや。これは、「小さい努力も大切、あきらめずに根気よくやり続けよう」って教えてくれる言葉やな。
【故事】
元々は中国由来の言葉である、前漢のことを記した歴史書『漢書』・枚乗伝に「泰山之霤穿石」と記述されていた。現代語訳すると「泰山に降る雨の霤は石を穿つ」となる。泰山とは、中国山東省中部にある名山を指しており、その山から染み出た雨の雫(蕾)が長い時間をかけ、滴る雫で石を砕いたと言う意味であり、それが転じてきている。
「雨だれ石を穿つ」という言葉は、雨の滴がずっと長い間石の上に落ち続けると、結果的にはその石に穴を開けることができる、という自然の現象からきているんだよ。
石に枕し流れに漱ぐ(いしにまくらしながれにくちすすぐ)
【意味】
石を枕にして眠り、川の流れに口をすすぐように、世間から離れ、自然の中で自由な生活をすること。
【故事】
晋の孫楚と言う人が隠居する時に友人に「石に枕し流れに漱ぐ」と言うべき所を「石に漱ぎ流れに枕す」と逆に言ってしまった。友人にそのことを言われると、負け惜しみで石でくちをそそぐのは歯をみがくためで、流れに枕するのは耳をあらうためだ」とこじつけたことから、この語ができた。
昔、中国の晋の時代に孫楚という人が、隠居(引退)するときに友人に「石に枕し流れに漱ぐ(石を枕にして、川の流れで口をすすぐ)」と言うべきところを、間違えて「石に漱ぎ流れに枕す」と逆に言ってしまったんだ。
そのため、この言葉は、自分の間違いを認めずにごまかす、負け惜しみをする人を表すようになったんやで。
一挙両得(いっきょりょうとく)
【意味】
一つの行動で二つの利益を得ること。また、少ない労力で多くの利益を得ること。
つまり、一つの行動(運動をすること)で、二つの良い結果(健康になる、ストレスが減る)が得られるということを表しているんやで。
【故事】
司馬錯という戦国時代の秦の将軍が、張儀という戦国時代の遊説家(戦国時代に諸侯などに策を提言し、それを生業とした人)と秦の恵王の前で次のような論争をしました。司馬錯は我が秦はまず蜀を攻めるべきだと主張し、一方遊説家の張儀は「蜀など攻めずに韓を攻めた方がよい」と言います。二人の提言を聞いた秦の恵王は、さらなる説明を二人に求めます。張儀は「まず魏と楚両国と親善関係を結び、そのあと韓を討ってそのまま周を脅迫し、秦が天下を取ったと名乗りをあげるべきです」と主張します。司馬錯はこれに対し「いやいや、まずは広大な蜀を手に入れて国力の増大を図る方が先です」と主張します。司馬はさらに「現在秦の土地はわずか、庶民は困窮しております。まずは簡単にできることから始めるべきでしょう。蜀は西の辺鄙なところにあり、ここを奪えば秦は領地が広がり、財も得られ、庶民を豊かにすることも可能です。軍をよくおさめ、庶民に害を与えなければ、蜀は我らに帰順するでしょう。そうすれば天下の人は我々を暴虐とか貪欲とか非難しないはずです。兵を一度動かすだけで名と利の両方が一挙に得られるのです」と王を説得します。恵王はそれを聞いて「良い意見である」と司馬錯の意見を取り入れ、まず蜀を攻めてこれを滅ぼします。
「一挙両得」の言葉の由来は、中国の戦国時代の話からきているんだよ。その話は秦の将軍、司馬錯と遊説家の張儀の間の論争に関連している。
司馬錯と張儀はどちらの国を先に攻めるべきかについて、秦の恵王の前で議論をしたんだ。司馬錯は蜀を先に攻めるべきだと言ったが、張儀は韓を先に攻めるべきだと主張した。
議論を聞いた恵王はもっと詳しい説明を求めた。それぞれの考えをさらに詳しく説明すると、司馬錯は「秦はまず蜀を攻めてその領土と富を手に入れ、国力を増やすべきだ」と主張した。そして、「これにより、一度の戦闘で名誉と利益の両方を得られる」と言った。これが「一挙両得」、つまり一つの行動で二つの利益を得るという意味だよ。
恵王は司馬錯の意見を聞き、それがいい考えだと思った。そして、蜀を攻めて成功した。その結果、秦は領土を広げ、国力を増やすことができた。これが「一挙両得」の由来の話だよ。
一将功なりて万骨枯る(いっしょうこうなりてばんこつかる)
【意味】
一人の将軍の輝かしい功名の陰には、幾万の兵が屍を戦場にさらした結果である。功績が上層の幹部のみに帰せられ、その下で犠牲になって働いた多くの人々が顧みられないことを嘆く語。
つまり、一人が輝く背後には、たくさんの人々の努力や犠牲があるということを表しているんだ。
一人が名誉を得るために、たくさんの人が報われないまま犠牲になることもあるんや。これは、「成功には見えない多くの努力や犠牲があることを忘れてはならない」って教えてくれる言葉やな。
【故事】
中国・唐の曹松「己亥歳」による。唐の時代の末期には、各地に多くの戦乱が起こっていた。将軍が功名を争う陰には、犠牲になった無名の兵などたくさんの屍が戦場にさらされていることを嘆いたことが由来。
「一将功なりて万骨枯る」の言葉は、古代中国の詩人、曹松が書いた詩からきているんだよ。
この詩は、一人の将軍の大いなる成功の裏には、たくさんの兵士たちが戦死し、その骨が白骨化するという悲しい現実がある、ということを描いているんだ。
この言葉は、一人の成功が、その裏にある多くの人々の努力や犠牲によって支えられていること、そして、それらの努力や犠牲を決して忘れてはならないという教えをぼくたちに伝えているんだよ。
井の中の蛙大海を知らず(いのなかのかわずたいかいをしらず)
【意味】
自分の目で見たり耳で聞いたりするなどして得た体験や知識が圧倒的に少なく、それでいて自分の乏しい見聞にこだわってしまうという意味です。見聞が乏しいにも関わらず、自分は何でも知っているように勘違いしたり、得意になっている人を指す事もあります。また、世間知らずという意味もあります。
つまり、自分の視野を広げ、新しいことを学ぶことの大切さを教えてくれるんだ。
井戸の中のカエルが、海の広さを知らへんのと同じように、自分の知識や経験だけで物事を判断するのはナンセンスやっていうことやな。これは、「広い視野を持つこと、新しい経験を重視すること」を教えてくれる言葉やな。
【故事】
中国の思想家・荘子の書いた「秋水」の中の「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」という言葉が由来となっています。意味は、井戸の中のカエルに海の話が通じないのはカエルが井戸という狭い世界にとらわれているから、という内容です。ここから、物の見方や考え方が狭い人を指して使うようになりました。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉の由来は、中国の古代の哲学者、荘子が書いた「秋水」からきているんだよ。
荘子は、「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」と書いていて、これは「井戸の中のカエルには海の話は理解できない。なぜなら、それは井戸という狭い世界に縛られているからだ」という意味なんだ。
これから、自分の見識や経験が狭い人、つまり井戸の中にいるカエルのような人を指す表現として「井の中の蛙大海を知らず」が使われるようになったんだよ。
烏合の衆(うごうのしゅう)
【意味】
規律も統制もない群集。または軍勢。
カラスが大勢集まってがやがやと騒ぐようなイメージだよ。これは、組織がまとまっていない、未熟で、無秩序な状態を指す表現なんだ。
カラスがたくさん集まって、ガヤガヤと騒いでるだけで、何も進まへんやんか、そんな状態のことをいうんやな。これは、「大勢だけでなく、きちんと組織をまとめることの大切さ」を教えてくれる言葉なんやな。
【故事】
「後漢書」の中の「今東帝無尺寸之柄、驅烏合之眾、跨馬陷敵、所向輒平」から。東帝(劉秀)が王郎と戦う事になりましたが、敵は兵の数が多いため、東帝は王郎を倒せるか心配になりました。すると部下が「王郎は烏合の衆を集めただけだから、この戦は勝てますよ」と言って東帝を励ましました。そこから、統率のない群衆や軍勢をあざけて、烏合の衆と呼ぶようになりました。
「後漢書」には、東帝(劉秀)が王郎という人と戦う話が書かれています。王郎の兵士はたくさんいたから、東帝は「本当に王郎を倒せるかな?」と心配になったんだよ。
でも、東帝の部下は「大丈夫だよ、王郎の兵士たちはただのぐちゃぐちゃな集まりだから、きっと勝てるよ」と励ましました。
それで、「烏合の衆」という言葉が生まれ、それは「ぐちゃぐちゃな集まり」や「ばらばらの人たち」を意味するようになったんだよ。
遠交近攻(えんこうきんこう)
【意味】
遠国と親交を結び近国を攻略する外交政策。遠い国と手を結び、背後から牽制させながら近い国を攻める策。遠い国は最後に攻めるという策略。
具体的には、遠くの国や集団と友好関係を結んで協力を得つつ、近くの敵を先に攻めるという方法を示しているんだ。
ほんで、これは戦略だけやなく、仕事や人間関係など、様々な場面で応用することができる考え方なんやで。
【故事】
「交」は交際、「攻」は攻撃の意味。中国の戦国時代、魏の范雎が秦の昭王に進言した外交政策。秦はこの政策によって諸国を征服し、范雎はこの功で宰相になった。
「遠交近攻」の故事は、中国の戦国時代に起こった出来事に由来しているんだ。
その時代、魏国の政治家である范雎は、秦国の昭王に対して「遠交近攻」の戦略を進言したの。つまり、遠くの国と友好関係を結び、近くの敵を先に攻めるという戦略だったんだよ。
その結果、秦国は他の国を次々と征服して強大な国家に成長し、范雎はその功績を認められて宰相(首相に相当する地位)に昇進したんだ。
この故事から、「遠交近攻」の戦略が、適切に行われた場合には非常に効果的な手段であることが示されているんだよ。
燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)
【意味】
小人物には、大人物の遠大な志を知ることができない。
これは、視野や経験が狭い人は、大きな野望や大志を抱く人の考えを理解するのが難しい、ということを表しているんだ。
自分の世界がちっちゃいと、大きな夢を持つ人の考えがわからへんのやな。これは、自分の視野を広げることの大切さを教えてくれる言葉やな。
【故事】
『史記・陳渉世家』から。後に楚王となる陳渉が若い頃に農耕に雇われていたときに、その大言を嘲笑した雇い主に向かって「磋呼、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と言ったことから。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉の由来は、中国の農民であった陳渉が発したものなんだ。
彼は最初に秦帝国に対して反乱を起こした人物で、その前には若者にこき使われていたの。しかし、彼はその中で大きな野望を持っていて、自分が秦帝国を打倒することを夢見ていたんだよ。
そのとき、彼はこの「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉を発し、自分の大きな野望を表現したんだ。これは、「小さな鳥(自分がこき使われている現状)が大きな鳥(秦帝国を打倒する大きな野望)の志を理解できるはずがない」という意味で使われいたんだよ。
小田原評定(おだわらひょうじょう)
【意味】
長引いてなかなか決定しない相談。
これは、責任を避けて決断しない結果、問題解決に至らない状況を警告する表現なんだ。
みんなが「俺じゃない、あんたやれ」って責任逃れをして、結局何も決まらへん状況や。これは、「決断を避けると何も解決せぇへん」と教えてくれる言葉なんやな。
【故事】
豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城内で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長引いて決定しなかったことから。
「小田原評定」の由来は、日本の戦国時代に実際にあった出来事から来ているよ。
豊臣秀吉が小田原城を包囲していた時、城内で北条氏直と彼の側近たちがどうするべきかについての会議(評定)をしていたんだ。しかし、その会議はなかなか進まず、結論が出ないまま時間が過ぎていった。
そのため、「小田原評定」は長時間にわたって議論が続き、結論が出ない会議や話し合いを指す言葉となったんだよ。
温故知新(おんこちしん)
【意味】
前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすること。古いものをたずね求めて新しい事柄を知る意から。
つまり、過去の学びが新たな知識や視点を生む、ということだよ。
昔のことを改めて振り返ってみると、新たな発見があるかもしれへんやんか。これは、「学び直すことで新たな知識や視点を得られる」ってことを教えてくれるんやな。
【故事】
孔子が弟子たちに言った言葉からこの語ができた。 「温」はたずね求める意。一説に、冷たいものをあたため直し味わう意とも。「故を温て新しきを知る」または「故を温めて新しきを知る」と訓読する。
「温故知新」の言葉は、古代の中国の有名な先生である孔子が生徒たちに言ったことから来ているんだよ。孔子は「故き(昔のこと)を温めて(思い出して)、新しきを知る(新しいことを学ぶ)」と教えました。これは、過去の知識を忘れずに、それを基に新しいことを学んでいくことの大切さを伝えるための言葉だったんだ。
「か行」の故事成語一覧
会稽の恥(かいけいのはじ)
【意味】
戦いや勝負ごとに負け、恥や屈辱を受けること。また、己の名誉に対する侮辱を受けること。
昔、中国で越王勾践が敗戦し、深い恥辱を味わったという話からきているんだよ。
何か大失敗して、みんなから笑われる、そんな恥ずかしい状況のことを指すんやな。これは、「大恥をかくこと」の警告として使われる言葉なんやな。
【故事】
元々は中国の故事であり、『史記』という書物に記されている。中国の春秋時代後期に越の王として天下を取り、後に春秋五覇の一人として名が挙がった勾践が天下を取る以前の話が元になっている。呉の王・夫差と会稽山という中国の紹興市南部にある山で戦うも敗れ、夫差から様々な屈辱を与えられる。その時の苦しくも悔しい想いを“会稽に恥”と勾践が表現したことから転じてきている。
「会稽の恥」の元の話は、昔の中国の王で、越の国の王の勾践(こうせん)についてだよ。彼はある時、敵の国、呉の国との戦争に負けてしまったんだ。そこで彼は、会稽山(かいけいざん)に逃げて、とても恥ずかしい思いをした。
でも彼は、ただ逃げるだけじゃなくて、敵の王、夫差(ふさ)の家臣になるという約束をしたことで、なんとか生き延びることができた。このことが彼にとっては、とても大きな恥だったんだ。
後に勾践は自分の国、越に帰ることができた。そして、その恥を忘れないために、彼は動物の胆(きも)をなめることで、その恥をいつも思い出したんだ。それは彼が、いつか呉の王に復讐するためのモチベーションにもなった。
だから「会稽の恥」という言葉は、大きな恥を忘れずに、それを力に変えるという意味を持つようになったんだよ。
隗より始めよ
【意味】
大きな事業をするには、まず手近なことから始めよ。また、物事は言い出した者から始めるべきだということ。
また、物事を進めるには、まず自分から始めるべきだとも言っているんだ。
要するに、身の回りのことをちゃんとやることから大事業が始まるんやな。そして、言い出したもんが行動を起こすんが大事やってことも教えてくれてるわけやな。
【故事】
中国の戦国時代、燕 の昭王から賢者を招く方法を聞いた郭隗 が、昔、死んだ馬の骨を五百金で買った話をたとえにして、「まず凡庸なこの私を優遇することから始めてください。そうすれば、よりすぐれた人材が次々と集まるでしょう」と答えたという。
「隗より始めよ」という言葉の起源は、昔の中国の燕の国の昭王の話に基づいているんだよ。昭王は自分の国にたくさんの優れた人々を集めたかったので、一人の男、郭隗に助けを求めたんだ。
郭隗は昭王に対して、「私、郭隗を大切に扱ってください。そうすれば、私のような普通の人間がここまで大切にされているのを見て、私よりもっと賢い人々は、もっと大切にされるだろうと思って、他の国からもやってくるでしょう」とアドバイスしたんだ。
昭王はそのアドバイスを取り入れ、郭隗を大切に扱った。そして、その結果、他の国からたくさんの優秀な人々が燕に来るようになった。それによって「隗より始めよ」という言葉は、大切なことを始めるときは身近なところから始めるべきだという意味を持つようになったんだよ。
学問に近道無し(がくもんにちかみちなし)
【意味】
学問を修めるためには、一つ一つの基礎を積み重ねて学んでこそ初めて習得するものであり、裏技は存在しないという意味。
うまい具体や手短な方法を求めてもダメで、ゆっくりと頑張って覚えていくしかないってことか。学ぶことは時間と努力が必要やと教えてくれてるんやな。
【故事】
「学問に近道なし」には数多くの説がある。最も有力的な説は2つあり、1つ目は「幾何学の父」と称された古代ギリシャの数学及び天文学者のユーグリット(希:エウクレイデス)説である。ユーグリットはエジプトの王・プレイマイオス1世(英:トレミー)に幾何学を教えていたところ、王が「もっと簡単で楽に学べる方法はないのか?」と彼に尋ねたら、「幾何学に王道なし」と言ったという説。2つ目は、数学史上初の円錐曲線を作図したとして有名な古代ギリシャの数学者メナイクモスが、弟子であるマケドニアの王・アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に「もっと簡単に幾何学を学べる方法はないのか?」と尋ねられた問いに対し「幾何学に王道なし」と言ったという説である。
「学問に近道なし」という言葉の由来は、古代ギリシャの数学者たちのエピソードに関連しているんだよ。その話は2つの有力な説があるよ。
1つ目の説は、ユーグリット(エウクレイデス)という人物の話だよ。彼は「幾何学の父」とも呼ばれていて、古代エジプトの王、プレイマイオス1世に幾何学を教えていたんだ。その時、王が「もっと簡単で楽に学べる方法はないのか?」と尋ねたところ、ユーグリットは「幾何学に王道なし」と答えたという話だよ。
もう1つの説は、メナイクモスという古代ギリシャの数学者の話だよ。彼は円錐曲線を作図したことで有名で、彼の弟子にはマケドニアの王、アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)がいたんだ。アレクサンダー大王が「もっと簡単に幾何学を学べる方法はないのか?」と尋ねたところ、メナイクモスは「幾何学に王道なし」と答えたという話だよ。
これらの話から、「学問に近道なし」という言葉は、学問を学ぶためには時間をかけて一つ一つを理解するしかない、という意味になったんだよ。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
【意味】
目的を達成するために機会を待ち、苦労を耐え忍ぶこと。
例えば、復讐したい場合や、何かを成功させたいときに、そのために苦労に耐え続けることを表すように使われるんだ。
【故事】
薪の中に寝て、苦い胆を嘗めることの意味。春秋時代、呉王夫差は、父の仇を忘れないために、薪の上で寝ることにより自分自身を苦しめ、その屈辱と志を忘れないようにして、越王勾践を破った。また、敗れた勾践も苦い獣の胆をなめることにより、その復讐心を忘れないようにして、その後、見事に呉王夫差を打ち破った。
「臥薪嘗胆」の由来は、古代の中国の戦国時代の話に基づいているんだよ。
まず、呉という国と越という国が戦った時、越の王の勾践(こうせん)は呉を勝ち取り、呉の王の闔慮(こうりょ)は戦傷が元で亡くなったんだ。その時、闔慮(こうりょ)の息子の夫差(ふさ)は父の復讐(ふくしゅう)を誓ったよ。そのために、毎日痛い薪の上で寝ることで、越に対する復讐を絶対に忘れないようにしました。
そして、夫差は呉の新しい王となり、見事に越の王の勾践(こうせん)を負かし、彼を会稽山(かいけいざん)に追い詰めた。しかし、勾践は彼の家臣になることで呉に降伏し、命を救ったんだ。
その後、勾践が越に戻った時、彼は動物の胆(きも)をなめて、会稽山での恥を決して忘れないようにしました。そして、最終的に勾践は夫差を打ち負かしました。
これらの物語から「臥薪嘗胆」の言葉が生まれ、それは「とても苦しい経験をすることで、目標や決意を強くする」という意味になったんだよ。
苛政は虎よりも猛し(かせいはとらよりもたけし)
【意味】
民衆を苦しめる政治は、性質が荒く乱暴な虎よりも恐ろしいという意味。
これは、悪政がもたらす問題を戒めるための表現なんだ。
虎に襲われるよりも、ひどい政治の方が人びとにとって大変なダメージを与えるってことやな。これは、政治の大事さと、その影響力を教えてくれるんやな。
【故事】
元々は『礼記』という書物に記された中国の故事である。孔子は中国の山東省泰安市にある泰山を歩いていると、一人の女性が墓の前で泣き崩れているところ見かける。孔子は女性に涙の分けを聞くと、女性は家族を虎に殺されたという。孔子はそのような危険な土地から去るように勧めるが、女性は「別のとこでひどい政治に苦しめられるよりもここにいる方が何倍も良い」と答えたという。
「苛政は虎よりも猛し」の由来を簡単に説明すると、ある時、先生の孔子がお墓の近くで泣いているお母さんを見つけたんだよ。そのお母さんは、父さんも夫さんも息子さんも虎に食べられてしまったって言ったの。それで、孔子が、なんでこんな危険な場所に住んでいるのかと聞いたら、お母さんは「でも、ここでは悪いことをする政府がいないから」と答えたんだって。それで、この言葉が生まれたんだよ。つまり、悪い政府の方が虎よりも怖いってことなんだ。
火中の栗を拾う(かちゅうのくりをひろう)
【意味】
自分ではなく他人の利益のために、そそのかされ危険をおかし、酷い目にあうことのたとえ。
この言葉は、ラ・フォンテーヌの寓話から来ていて、猿にだまされた猫が火中の栗を拾って火傷を負う話を元にしているんだ。
自分が火傷するリスクがあるのに、他人のために火中の栗を拾うんは中々でけへんよな。
【故事】
火中の栗を拾うの語源になったといわれているのが、十七世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌによるフランスの寓話「猿と猫」(Le singe et le chat)。『イソップ物語』をもとにした童話だといわれている。内容としては、一匹の猿と猫が暖炉の前で栗が焼けるのを見ていた。猿は猫をそそのかし、猫に暖炉の中の栗を取らせた。猫はひどい火傷を負った上に、火傷をしながら取った栗は猿に食べられてしまったという猫が踏んだり蹴ったりな話。
株を守りて兎を待つ(かぶをまもりてうさぎをまつ)
【意味】
偶然うまくいったことに味をしめて、同じようにしてもう一度成功しようとするたとえ。時勢が移り変わっていることを知らずに、かたくなに旧を守ることのたとえ。融通がきかないこと。
一度だけうまくいったことに固執して、新しいことに挑戦せずに待ちぼうけや。これは、過去にとらわれずに前に進むことの大切さを教えてくれる言葉やな。
【故事】
中国戦国時代の法家である韓非の著書『韓非子』 から。
宋の農夫が畑を耕していると、近くにあった木の切り株に一匹のウサギが走って来てぶつかり死んだ。苦労もなくウサギを手に入れた彼は、それ以来、農作業をやめ、またウサギがぶつかるのを待って切り株を見守ったが、ウサギは手に入らず、国中の笑い者になったという故事から。
「株を守りて兎を待つ」という言葉の由来は、中国戦国時代の韓非の書物『韓非子』から来ているんだ。
昔の中国に、農夫が畑を耕していると、近くの木の切り株にウサギが突っ込んできて、死んでしまったんだ。そんな偶然にもウサギが手に入った農夫は、それからは畑仕事を辞めて、切り株の近くでずっと待って、またウサギが走ってきて死ぬのを期待したんだ。でも、そんなことは二度と起きず、その農夫はみんなから笑われることになったんだよ。この話から「株を守りて兎を待つ」という言葉が生まれ、偶然の成功を当てにすることや古い方法を頑固に守ることの間違いを教えてくれるようになったんだ。
画竜点睛(がりょうてんせい)
【意味】
事を完成するために、最後に加える大切な仕上げのたとえ。また、物事の最も肝要なところのたとえ。
また、文章や話などで最も重要なポイントを強調して、全体をより際立たせるという意味もあるんだ。
これは、「最後の仕上げの大切さ」や「重要なポイントを強調することの価値」を教えてくれる言葉やで。
【故事】
梁の画家である張僧ヨウが、金陵の安楽寺の壁に四頭の竜の絵を描いたが、「ひとみを描けば竜が飛び去ってしまう」と言い、ひとみは描きこまなかった。人々は、でたらめだといい、無理やりにひとみを描かせた。すると、たちまちいなずまが壁を突き破り、ひとみを描いた二頭の竜は天に昇っていってしまった。ひとみを描きこまなかった二頭は、そのまま残っていたという話から。
「画竜点睛」の由来は、昔々、梁(リョウ)という国に張僧縣(チョウソウヨウ)という絵が上手な人がいたんだよ。彼は寺の壁に二匹の龍を描いたけど、なぜか目(ひとみ)を描かなかったんだ。
それで、人々が「なぜ、目を描かないの?」と聞いたら、張僧縣(チョウソウヨウ)は「目を描くと、龍が本当に飛んで行ってしまうから。」と答えたんだ。
でも、人々はそれを信じなかったよ。だから、彼が本当に龍に目を描いてみると、ほんとうに龍は壁から飛び出して空へと飛んで行ってしまったんだって。
それから、「画竜点睛」という言葉が使われるようになったんだよ。これは、最後の大切な仕事が物事を完全にする力を持っていることを表しているんだ。
邯鄲の夢(かんたんのゆめ)
【意味】
人の世や、人生の栄枯盛衰ははかないというたとえ。
【故事】
中国、趙の都・邯鄲で、盧生という貧しい若者が宿で呂翁という道士から不思議な枕を借りて寝た。すると、出世して50年余りの栄華を極めて一生を終えるという体験をした。しかし、目が覚めてみると宿の主人が炊いていた粟もまだ煮え切らないほどの、短い時間だったということから。
「邯鄲の夢」の由来は、唐の時代にある人、廬生(ロセイ)の話から来ているんだよ。
彼は邯鄲(カンタン)という土地で、呂翁(リョオウ)という老人から不思議な枕を借りて、茶店で昼寝をしたんだ。そして夢の中で、彼はたくさんのお金を得て高い地位に上がり、豪華な一生を送ったんだ。
でも、夢から覚めると、彼が寝る前に茶店の人が作っていたものがまだできていないほど、短い時間だけ夢を見ていたことに気づいたんだ。
これを通じて、廬生(ロセイ)は人生のはかなさ、つまり、どんなに素晴らしいことがあってもそれが一瞬で終わることがあるということを悟ったんだ。それから、「邯鄲の夢」という言葉が使われるようになったよ。この話は、人生の変わりやすさと一時的な成功の象徴として語られることが多いんだ。
管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)
【意味】
お互いのことを理解して、信頼しあうこと。利害のあるなしに関わらず、親密な交際のたとえ。
【故事】
「晋書」王敦管鮑は、中国春秋時代の斉の、管仲と鮑叔のこと。若い時から二人はとても仲が良く、管仲が貧しかったときには鮑叔は援助を惜しまなかった。そればかりではなく、管仲を斉の宰相に推薦した。管仲は「我を生みし者は父母、我を知る者は鮑叔なり」と、鮑叔を称賛した。二人の親交は、終生変わることなく続けられたと故事にあることに基づく。
「管鮑の交わり」の由来は、昔、斉(セイ)という国に管仲(カンチュウ)と鮑叔(ホウシュク)という二人の男がいたんだよ。この二人は本当に仲が良くて、一緒に商売をしていたんだ。
管仲(カンチュウ)は少し貧しかったから、鮑叔(ホウシュク)よりももうけを多く取ったんだ。そして、鮑叔(ホウシュク)を儲けさせようとして逆に大損をさせることもあったよ。でも、鮑叔(ホウシュク)は一言も怒らなかったんだ。彼は自分の利益よりも、二人の友情を大切にしたんだよ。
そして、結局、管仲(カンチュウ)は斉の国の宰相(さいしょう=国を治める大臣)となった。でもその時も、鮑叔(ホウシュク)は管仲(カンチュウ)の部下として彼を助けたんだ。この二人はどんなに立場が変わっても、ずっと友情を保ち続けたんだよ。
その話から、「管鮑の交わり」という言葉が生まれたんだ。それは、どんな状況でも友情を大切にするという意味があるよ。
間髪をいれず(かんはつをいれず)
【意味】
事が差し迫っている状況、また、間をおかずに直ちにするたとえ。
【故事】
髪の毛一本入れる余地もないことから。前漢の時、呉王・劉濞(りゅうひ)が漢に恨みを持ち謀反を起こそうとした。すると、郎中の枚乗(ばいじょう)がそれを諌めてこう言った。「王の行為は、糸に千鈞もの重りをつけ、際限なく高いところから計り知れないほどに深い淵に吊り下げるようなものです。一旦糸が切れてしまうと二度と出られないでしょう。出ようにも、【その隙間は髪の毛一本も入らないほどです】」(『説苑』正諌より)
「間髪を入れず」の由来は、前漢の時代の話から来ているんだよ。
その時、呉王・劉濞(リュウヒ)は漢に対して恨みを持っていて、反乱を起こそうと考えていたんだ。でも、彼の部下である枚乗(バイジョウ)はそれを止めるために劉濞(リュウヒ)に対してこんな風に言ったんだ。「王さまの考えは、とても重い物を紐に結んで、とても高い場所からとても深い淵(ふち)に吊るすようなものです。もし紐が切れたら、二度と出られないでしょう。出ようにも、その隙間は髪の毛一本も入らないほどです」。
つまり、「間髪を入れず」とは、髪の毛一本も入らないほどの非常に短い時間、すなわち、時間がほとんどないという状況を表しているんだよ。
疑心暗鬼(ぎしんあんき)
【意味】
心に疑いを抱いていると、なんでもないことまで疑わしく不安に思えてくること。疑いがつのり何でもないことにおびえるようす。疑いの心が膨れ上がると、何でもないことにも不安や恐れを抱くものである。
【故事】
「疑心暗鬼」は中国の春秋戦国時代に書かれた『列子』という書物にある話が元となってできた故事成語です。『列子』という道家(道教)の本にあるお話です。ある人が斧をなくしてしまいました。隣の息子が盗んだのじゃないかと疑います。きっとそうだ。あの歩き方、あの顔色、あのしゃべり方、あの態度…どれもこれも斧を盗んだ人間のものだ。ところがふと気がついて窪地を掘ってみるとそこから斧が出てくるではありませんか。その後その隣の息子をまた見てみると動作も態度も斧を盗んだ人間の様子には見えなかったといいます。
「疑心暗鬼」の由来は、昔の中国の本『列子』に出てくる話から来ているんだよ。
その話によると、ある人が自分の斧をなくしてしまった。それで、隣の少年が斧を盗んだのではないかと疑い始めたんだ。その少年の歩き方、顔色、話し方、態度…全部が、まるで斧を盗んだ人のように見えたんだ。
でも、彼がもう一度よく見てみると、自分の斧が穴の中に落ちているのを見つけた。斧が見つかってから、再び隣の少年を見てみると、もう斧を盗んだ人のようには見えなくなったんだ。
この話から、「疑心暗鬼」という言葉が生まれた。つまり、自分が何かを疑うと、本当は何も問題がないことまで心配してしまうという意味があるんだよ。
木によりて魚を求む(きによりてうおをもとむ)
【意味】
物事の一部分や細部に気を取られてしまうと、全体を見失うという事。手段を誤れば、何かを得ようとしても得られないという事。また、見当違いで実現不可能な望みを持つ事。
【故事】
中国の儒学者・孟子の逸話・問答を集めた書『孟子』の『梁恵王・上』より。「土地僻き秦楚を朝せしめ、中国に莅んで四夷を撫せんと欲するなり。若き為す所を以て若き欲することろを求むるは、猶お木に縁りて魚を求むるがごときなり」 から。武力で天下統一を企んだ斉の宣王に、武力のみで天下を取るのは不可能であり、ずは仁政によりて民の生活を安んずることが肝要であるということ、まるで木に登って魚を捕らえようとしていること、と指摘した言葉から。
「木に縁りて魚を求む」という言葉は、中国の有名な思想家である孟子が昔、斉の国の宣王に話した言葉が由来だよ。
孟子は、斉の国の宣王に「武力を使って天下の王になろうとするのは、木に登って魚をつかまえようとするものだよ。そんなことは絶対にできないよ」と教えたんだ。これはつまり、宣王が力ずくで他の国を征服しようとしても、それは木の上で魚を探すような間違った方法なので、成功することはないということを説明したのさ。
ちょっと考えてみてね、木の上で魚を探すことができる?無理だよね。だから、武力を使って天下の王になろうとしても、それは無理なことなんだよ。孟子はそう教えたんだ。これが「木に縁りて魚を求む」の由来なんだよ。
杞憂(きゆう)
【意味】
心配しなくてもよいことを、むやみに心配すること。取り越し苦労。「憂」は心配する意味。
【故事】
昔、中国の杞(き)の国の人が天地が崩れ落ちてきたらどうしようと心配して、夜も寝られず、食事もしなかったという故事による。「列子」より。
「杞憂」の言葉の由来は、中国の昔の話に出てくる杞という国からきているんだよ。
「杞」というのは、中国の古い時代、周の時代に存在した小さな国の名前だったんだ。その国の人が、空から地面が落ちてきたらどうしよう、地面が壊れたらどうしようと心配して、寝ることも食べることもできなくなってしまったという話があるんだ。
でもね、空から地面が落ちてくることなんて、普通はありえないよね。だから、この話から「杞憂」という言葉が生まれて、本当には起こらないことを心配すること、つまり取り越し苦労をすることを指すようになったんだよ。それが「杞憂」の由来なんだよ。
牛耳を執る(ぎゅうじをとる)
【意味】
ある団体や組織などの主導権を握る。
【故事】
「左伝哀公十七年」にある故事から。諸侯が同盟を結ぶ儀式で、盟主が牛の耳を割いて血を採り、これを順番にすすったということから。
「牛耳を執る」という言葉の由来は、昔の中国の習慣から来ているんだ。
昔の中国では、色々な国の王様たちが集まって、お互いを信じ合い、仲良くするために同盟を結ぶときに、特別な儀式をしていたんだ。その儀式では、牛の耳を切り、その血を飲むということをしていたよ。
そして、その牛の耳を切る役割を果たすのは、全ての国王の中で一番地位が高く、一番強い国の王様がやっていたんだ。だから、その強い王様が集団をリードする、つまり牛の耳を持つことが、「牛耳を執る」という言葉の由来となっているんだよ。これは団体や集団のリーダーになることを表しているんだ。
窮鼠猫を噛む(きゅうそねこをかむ)
【意味】
追いつめられた鼠は猫に食いつく。絶対絶命の窮地に追い詰められて必死になれば弱者も強者を破ることがある。
【故事】
中国前漢時代の討論会(塩鉄会議)の記録を、政治家・学者の桓寛が60篇にまとめた書物『塩鉄論・詔聖』より。「死して再びは生きずとなれば、窮鼠も狸(野猫)を噛む(死に物狂いになった鼠は猫を噛むこともある)」という記述から。
「窮鼠猫を噛む」の言葉の由来は、中国の前漢時代のある記録に基づいているんだ。
昔の中国の前漢時代に、「塩鉄会議」という大きな討論会があって、その時の話を政治家で学者の桓寛が本にまとめたんだ。その本の名前は『塩鉄論・詔聖』。
その本の中に、「死して再びは生きずとなれば、窮鼠も狸(野猫)を噛む」という言葉が書かれているんだ。これはつまり、「もう死ぬしかないと思ったら、追い詰められたネズミでも猫を噛むことがある」という意味。つまり、どんなに困った状況でも、必死になれば弱い者でも強い者に立ち向かうことができる、ということを教えているんだよ。それが「窮鼠猫を噛む」の由来なんだよ。
玉石混淆(ぎょくせきこんこう)
【意味】
優れたものと、劣ったものが混じっていること。
【故事】
晋(しん)の国の葛洪(かっこう)という人が「近ごろは大人物があらわれず、真と偽が逆になり、宝石と石とが入り混じって本当 になげかわしい。」と批判(ひはん)したことからこの語ができた。(抱朴子 ほうぼくし)
「玉石混淆」の言葉の由来は、昔の中国の晋の国にいた葛洪という人の言葉からきているんだ。
葛洪は、その時代には偉い人がいなくて、本当のことと偽のことが逆転してしまい、宝石(つまり良いもの)とただの石(つまり普通のもの)が混ざってしまっていることをとても残念に思っていたんだ。
それで彼は、「近ごろは大人物が現れず、真と偽が逆になり、宝石と石とが入り混じって本当になげかわしい」と言ったんだ。それが「玉石混淆」の言葉の由来となっているんだよ。つまり、良いものとそうでもないものが混ざっている状況を表すようになったんだ。
漁夫の利(ぎょふのり)
【意味】
双方が争っているすきにつけこんで、第三者が利益を横取りすること。
【故事】
『戦国策』から。
シギとハマグリが争っているところに、通りかかった猟師が、簡単に両方ともとらえたという中国の故事から。
「漁夫の利」の言葉の由来は、昔の中国の話に基づいているんだ。
昔、中国の人、蘇代という人が燕という国の王様、恵王に話した話があるんだ。その話はこうだよ。
ある日、ハマグリが口を開けていると、シギという鳥が来てハマグリを食べようとしたんだ。でも、ハマグリは口を閉じてシギのくちばしを挟んでしまったよ。それで、ハマグリとシギがお互いに手を引こうとせず、争っている間に、漁師が来て、簡単にハマグリとシギを捕まえてしまったんだ。
それで、「漁夫の利」は、他の人たちが争っている間に、それを見ている別の人が利益を得る状況を表すようになったんだよ。だから、もし友達が何かで争っているときに、別の友達がその争いを利用して何かを得るような場面があったら、「あれは漁夫の利だね」と言うことができるよ。
鶏口となるも牛後となるなかれ(けいこうとなるもぎゅうごとなるなかれ)
【意味】
鶏の口になっても牛の尻にはなるなということで、大きな集団の中の下にいるよりも、小さな集団の先頭に立てといういましめ。人に従属するよりも独立したほうがよいとするたとえ。
【故事】
「史記(しき)」蘇秦(そしん)戦国時代に、六国「韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)・燕(えん)・楚(そ)・斉(せい)」が合従(がっしょう)して、大国秦(しん)に対抗すべきだと主張した蘇秦は、韓の宣王に「小国であっても、一国の王として権威を保つべきである。秦に屈服してその家臣に成り下がってはいけない。」と、説いたということに基づく。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」の言葉の由来は、昔の中国の戦国時代の話から来ているんだ。
中国の昔の時代、戦国時代という時期に、秦という強い国が他の国を圧倒しつつあったんだ。その時、蘇秦という人がいて、彼は韓、魏、趙、楚、斉、燕という六つの国の王に対して、秦に従うのではなく、それぞれが一つの独立した国の王として、秦に立ち向かうべきだと主張したんだ。
つまり、蘇秦は、大きな秦の国に従うよりも、自分たちの小さな国でリーダーになる方が良いと考えたんだ。そしてその考えが「鶏口となるも牛後となるなかれ」の言葉の由来となったんだよ。だから、この言葉は、自分でリーダーになり、自分の考えを大切にすることの大切さを表しているんだ。
蛍雪の功(けいせつのこう)
【意味】
蛍(ほたる)の光や雪明かりによって勉強することで、苦労して学問に励むという意味。
【故事】
「晋書」より。貧しくて灯火用の油が買えないため、車胤は蛍を集めた光で、孫康は窓辺の雪明かりで読書したという中国の故事から。
「蛍雪の功」という言葉の由来は、昔の中国の晋の国にいた車胤と孫康という二人の物語から来ているよ。
昔、中国の晋という国に、車胤と孫康という二人の男がいたんだ。車胤はとても貧しくて、夜勉強するための明かりにするランプの油すら買えなかったよ。でも彼は、代わりに蛍を集めてその光で勉強をしたんだ。一方、同じく晋の国の孫康は、雪の明かりを使って書物を読んで勉強をしたんだよ。そして、これら二人は、困難を乗り越えて勉強を続けたおかげで、最終的には高い地位の役人になったと言われているんだ。だから、「蛍雪の功」は、どんなに困難な状況でも勉強を続けると、その努力が報われるということを教えてくれる言葉なんだよ。
逆鱗に触れる(げきりんにふれる)
【意味】
目上の人を激しく怒らせてしまうこと。
【故事】
「逆鱗(げきりん)」とは、竜のあごの下に逆さに生えた鱗(うろこ)のこと。人がその鱗に触れると、竜が必ず怒ってその人を殺してしまうという伝説があった。「韓非子(かんぴし)」税難(ぜいなん)より。「その喉下に逆鱗径尺なる有り、若し人これにふるる者あらば、則ち必ず人を殺さん。人主も亦た逆鱗有り、説く者は能く人主の逆鱗にふるること無くんば、則ち幾からん」(君主にも逆鱗というものがあるので、君主に意見を述べるときには、その逆鱗に触れないように気を付けることが大切だ)と説いたことから由来している。
「逆鱗に触れる」の由来は、竜の話から来ているんだよ。竜は、大きな、強い、そして怖い生き物として想像されているよね。
この竜のあごの下には、逆さに生えたウロコ(鱗)があると言われていて、それを触ると、竜はすごく怒るんだって。そして、ウロコを触った人は、必ず竜に攻撃されるとされているよ。
だから、「逆鱗に触れる」という言葉は、「すごく怒らせてしまう」って意味になったんだよ。これを使うときは、大人や先生などが、本当に怒ってしまうほどのことをしたときに使われることが多いんだ。
月下氷人(げっかひょうじん)
【意味】
仲人。媒酌人。縁を取り持つ人。
【故事】
「月下」は、党の韋固が月明かりの下であった老人の予言通りの女性と結ばれた故事。「氷人」は、東晋の令孤策が氷の下の人と話した夢を「結婚の仲立ちをする前触れだ」と占われ、その通りになった故事から。「月下老人」と「氷人」の二つの故事を踏まえた合成語。
「月下氷人」は二つの昔話から来ているんだよ。
一つ目の話は「月下老人」の話。これは、古代中国の人、党韋固が月明かりの下で出会った老人の話だよ。この老人は、韋固がある特定の女性と結ばれると予言し、その通りになったんだ。
二つ目の話は「氷人」の話。これは、東晋の時代の人、令孤策が夢で氷の下の人と話す話だよ。彼はその夢を占い師に話したら、「それは結婚の仲人をする前触れだ」と言われ、その通りになったんだ。
これら二つの話を合わせて「月下氷人」という言葉ができたんだ。それは「人々が友達になったり、結婚したりするのを手伝う人」の意味になるよ。
捲土重来(けんどちょうらい)
【意味】
一度敗れた者が、再び勢いを取り戻して巻き返すこと。
【故事】
唐の詩人杜牧が、漢の劉邦に敗れた楚の項羽の死を惜しんで、「江東の子弟才俊多し、捲土重来未だ知るべからず」と詠んだ詩から。江東の子弟には優れた人材が多い。再び兵を起こし、土を捲く勢いで来たならば勝敗はどうなったかわからないのに、という意味。
「捲土重来」の由来は、古代中国の有名な詩人、杜牧の詩からきているんだよ。
杜牧は、項羽という王が故郷に戻って再び戦いを続けていたら、どうなっていたか想像して詩を書いたんだ。項羽は、戦いに敗れて悲劇的な最期を迎えた人物で、彼が再び戦いに挑む姿を描いたのが、「捲土重来」の部分なんだ。
その詩の一部を訳すと、「項羽の故郷にはたくさんの才能ある人がいて、彼が再び戦いに挑んでいたら、この戦いの結果はどうだったか、わからない」という意味になるよ。
つまり、「捲土重来」は、「一度敗れたけど、もう一度元気になって再び戦いに挑むこと」を表す言葉として使われるようになったんだよ。
呉越同舟(ごえつどうしゅう)
【意味】
敵同士が、同じ場所に居合わせたり。協力したりすること。
【故事】
春秋時代、敵同士の呉と越の人でも、乗り合わせた舟が嵐で転覆しそうになれば互いに協力し合うだろうという孫子の言葉からきている。
「呉越同舟」の由来は、古代中国の春秋時代の話から来ているよ。
その頃、揚子江の下流には呉と越という二つの国があって、二つの国はいつも戦争をしていたから仲がとても悪かったんだ。でも、揚子江を渡るためには船を使うしかなかったから、呉の人と越の人がたまに同じ船に乗ることがあったんだよ。
そのような時には、普段は敵対している彼らもけんかはしなかったんだ。つまり、普段は敵でも一緒に船に乗るときは平和に過ごしていたのが「呉越同舟」の由来となっているんだよ。だから、この言葉は「普段は仲が悪い人たちが同じ場所にいること」や「敵同士が一緒に困難な状況を乗り越えること」を表すようになったんだよ。
五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)
【意味】
少しの違いはあることはあるが、本質的には同じことだという。
【故事】
「孟子・梁恵王上」から。50歩退却した兵が100歩逃げた兵を臆病だと笑ったが、逃げた点では同じだから笑う資格はない、というたとえ話から。
「五十歩百歩」の由来は、昔の中国の賢人、孟子と梁の恵王との間の話から来ているんだよ。
恵王は自分の国が良い政治を行っているのに、隣の国と人口があまり変わらないことについて、なぜだか理由を孟子に尋ねたんだ。そのとき、孟子は「戦場で50歩逃げた者が、100歩逃げた者を臆病者と笑ったらどう思いますか?」と聞いたんだよ。
恵王は、「どちらも逃げたことには変わりない」と答えた。すると、孟子は、「王の言う国民のための良い政治も、隣の国とあまり変わらない」と答えたんだ。
この話から、「五十歩百歩」は「違うように見えても、実際はほとんど同じだ」という意味で使われるようになったんだよ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず(こけつにいらずんばこじをえず)
【意味】
虎の子を捕らえるには虎のいる洞穴に入らなければならないように、危険を冒さなければ大きな利益や成功は得られないということ。
【故事】
漢の国の武将の班超が軍を率いて西域に送られた。西域の国では手厚く接待されていた のに、ある日を境に冷たくされるようになった。調べてみると、漢の国の敵である北方の匈奴の国の使者が来ているためとわかった。班超は、「虎の穴に入らなければ、虎の子をとらえることはでない。」といって部下を励まし、匈奴の軍の中に突撃をし、全滅させたことから、この語ができた。(後漢書)
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の由来は、古代中国の武将、班超の話から来ているんだよ。
班超は、漢の国から西域に軍を送り、現地で手厚く接待されていた。だけど、ある日突然冷たくされるようになったんだ。それで調べてみると、北方の匈奴(敵国)の使者が来ていたからだったんだよ。
この状況に対して、班超は部下に対して「虎の穴に入らなければ、虎の子をとらえることはできない」と言って励ました。そして、彼は部下を率いて匈奴の軍に突撃をかけ、敵を全滅させたんだ。
この班超の話から、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉が生まれ、それは「大きな危険を冒さなければ、大きな成功は得られない」っていう意味で使われるようになったんだよ。
五里霧中(ごりむちゅう)
【意味】
物事の状況や手掛かりがつかめず、判断に迷うこと。事情がわからない中、手探りで行動すること。
【故事】
後漢の張楷という道士が、五里四方を霧で閉ざす「五里霧」という仙術を使った故事から。後漢(ごかん)の時代に張楷(ちょうかい)という人がいた。張楷(ちょうかい)という人は五里四方(ごりしほう)にわたる霧(きり)をおこす術を知っていた。世間に出るのをいやがる張楷(ちょうかい)は集まってくる人に会いたくないときには、この術を使って姿をかくしたという。もともとは、自分の姿をかくすものであったが、現在の意味のようにつかわれるようになった。(後漢書)
「五里霧中」の由来は、昔の中国の後漢の時代に張楷という人がいたことから来ているんだよ。
張楷は特別な力を持っていて、彼の周りに大きな霧を発生させることができたんだ。これは五里四方に広がる大きな霧だったよ。張楷は人々と接するのを避けたがる性格だったから、たくさんの人が集まってくるときには、この霧を使って自分の姿を隠したんだ。
その話から、「五里霧中」は元々は「自分の姿を隠す」っていう意味だったんだけど、今は「何をすべきかわからない、迷っている」っていう意味で使われるようになったんだよ。
コロンブスの卵(ころんぶすのたまご)
【意味】
一見簡単そうなことでも、初めて行うのは難しいという例え。どんなに素晴らしいアイデアや発見も、ひとたび衆目に触れた後には非常に単純あるいは簡単に見えることを指す成句である。
【故事】
アメリカ大陸の発見はだれでもできることだと批判する人々に対して、コロンブスは卵を立てることを試みさせ、だれにもできないのを見て、卵の尻をつぶして立ててみせたという逸話から。
「コロンブスの卵」の由来は、クリストファー・コロンブスの有名な逸話から来ているよ。
あるとき、コロンブスの偉大な発見、つまり新大陸の発見は誰でもできたことだと言う人たちがいたんだ。それに対して、コロンブスは一つの卵をテーブルの上に立てるように皆に挑戦させた。でも、誰も卵を立てることができなかったんだ。
それから、コロンブスが卵を受け取り、卵の一方の端を軽くテーブルに押しつけて潰し、それを立てた。その行動によって彼は、アイデアが一度他の誰かによって示されれば、それは簡単に見えるかもしれないが、そのアイデアを最初に思いついた人が真の発見者だということを示したんだよ。
それ以降、何かが一見簡単に見えるが、実際には誰もがそれを最初に思いつくことが難しい状況を、「コロンブスの卵」と言うようになったんだ。
「さ行」の故事成語一覧
塞翁が馬(さいおうがうま)
【意味】
人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。塞翁失馬。
【故事】
中国北辺の塞の近くに住む塞翁という老人の馬が逃げたが、やがて駿馬を連れて帰ってきた。塞翁の息子がこの馬から落ちて足を折ってしまったが、そのために兵役を免れて命を長らえたという故事による。
「塞翁が馬」の由来の話は、遠い昔のおじいさんと馬についてだよ。そのおじいさんは、国の境界に近い所に住んでいたんだ。
ある日、おじいさんの馬が逃げてしまった。これはつまり、おじいさんにとって大変なことだったんだよね。でも、驚いたことに、その馬は帰ってきたんだ。それだけではなく、新しい、とても立派な馬も一緒に連れてきたんだよ。
この時点で、人々はおじいさんがとてもラッキーだと思ったよ。でも、その後、おじいさんの息子が新しくやってきた立派な馬に乗っていて、落ちて足を折ってしまったんだ。これはまたおじいさんにとって不運だったね。
でも、その後、戦争が始まって、若い人たちはみんな兵隊として戦いに行かなければならなくなった。おじいさんの息子も行かなければならなかったけど、足を折っていたから行くことができなかったんだ。結果、おじいさんの息子は戦争で命を失うことなく助かった。
だから、「塞翁が馬」は、悪いことが起こったかと思えば、その後で良いことが起こるかもしれないし、良いことが起こったかと思えば、その後で悪いことが起こるかもしれない、という意味なんだよ。だから、人生で何が起こるかは本当に予測できないんだね。
先んずれば人を制す(さきんずればひとをせいす)
【意味】
・人よりも先に物事を実行することによって、相手を抑え、有利な立場に立つことができる。
・先手を取ることができれば、相手を圧倒し、抑えつけることができる。
・何事も、先手を取ることで成功の糸口をつかめるが、後手に回っては勝ち目がない。
【故事】
史記に由来する言葉。江西のひとびとが、秦に対して反乱を起こした時に、殷通(いんとう)という長官が項羽に対して、「先んずれば即(すなわ)ち、人を制し、後(おく)るれば、則(すなわち)人の制するところとなる。」と、言ったことが由来。人よりも先に行動を起こすことで、人の先頭に立ち指示を出すことができるが、人の後から行動を起こしてしまえば、人に指示をされて支配されてしまう。という言葉からできた故事成語。
昔々、秦(しん)という国で反乱が起きたときの話だよ。その時、殷通(いんとう)という人が自分の仲間たちにこんなことを言ったんだ。
「先に行動を始めれば、自分が指導者になれるよ。でも、遅れて行動を始めると、他の人に従わなければならなくなるよ。」
つまり、何をするにも早く始める人が、自分で考えたことをやることができるんだ。でも、遅く始めると、他の人が既に考えたことをやらなければならなくなる。それが「先んずれば人を制す」の意味だよ。
例えば、クラスでのプレゼンテーションを考えるとき、一番最初にアイデアを出す人がプレゼンテーションの進行をコントロールできるよね。でも、最後にアイデアを出す人は、他の人が決めたプレゼンテーションに合わせなくてはならない。だから、何事も早めに行動を起こすことが大切なんだよ。
四面楚歌(しめんそか)
【意味】
周りを敵に囲まれて苦しい立場に陥ったこと。誰の助けもなく孤立すること。
【故事】
「史記」項羽本紀より。「項王の軍、垓下に壁す、兵少く食尽きぬ、漢の軍および諸侯の兵、之を囲むこと数重、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞きて、項王乃ち大いに驚いて曰く、漢皆己に楚を得たるか、是何ぞ楚人の多きやと。」楚の項羽が垓下に囲まれた時、夜更けて東西南北四面の漢軍の中から楚国の歌が聞こえ、楚の民が全て漢に降伏したのかと驚いたという故事から。
昔々、楚(そ)という国の勇敢な戦士で項羽(こうう)という人がいたんだ。彼は一度は強大な秦(しん)という国を倒したんだけど、その後、別の強大な国、漢(かん)の国の劉邦(りゅうほう)という人に戦いを挑んだんだ。
ある夜、項羽の軍は劉邦の軍に囲まれてしまった。その時、劉邦の仲間である韓信(かんしん)が漢(かん)の兵士たちに、楚の国の歌を歌わせたんだ。
その歌を聞いた項羽は、自分の国の兵士たちが敵に降伏(投降)してしまったと思って、とてもショックを受けてしまったんだ。それはまるで、四方向(四面)どこを見ても楚の歌(敵)ばかり、という状況だった。
だから、「四面楚歌」は、どこを見ても敵ばかりで、全然助けてくれる人がいないような状況を意味するようになったんだよ。
自暴自棄(じぼうじき)
【意味】
自らその身を損ない、自らその身を棄てること。やけくそになること。
【故事】
孟子はこう言いました。「自分自身をだめにする人間とは共に語ることはできない。自分自身を捨てるような人間とは共に何かをすることはできない。その言葉で礼儀をそしる者、これを自暴と言う。自分自身を仁の中に置いたり、義に基づくことができない者、これを自棄と言う。仁とは安心して住める家のようなものである。義とは人が正しく歩める道のようなものである。その家を空き家にして住まず、その道を捨てて歩まないとはなんと哀れなことだろうか」
昔々、中国の賢い人、孟子という人がこんなことを言ったんだ。「自分をだめにしてしまう人とは話ができないよ。自分を捨ててしまう人とは一緒に何かをすることはできないよ。」
「自暴」とは、自分の行動で自分をだめにすること。「自棄」とは、自分を大切に思わないで捨ててしまうことだよ。孟子は、人間が大切にすべきは「仁」と「義」だと言っていたんだ。「仁」は人間が安心して住むことができる家のようなもの。「義」は人間が正しく歩くことができる道のようなものだとね。
だから、自分自身を大切にしないで、自分をだめにしてしまったり、自分を捨ててしまう行動は、自分の「家」を空き家にしてしまったり、「道」を捨ててしまうようなものなんだ。それって、とても悲しいことだよね。そんな考え方から「自暴自棄」という言葉が生まれたんだよ。
だから、どんなに困ったことがあっても、「自暴自棄」にならないで、自分を大切にすることが大切なんだよ。
出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)
【意味】
弟子が師よりもすぐれた才能をあらわすたとえ。
【故事】
「荀子」の言葉から。 青色の染料は藍から取るものだが、もとの藍の葉より青くなることからいう。「藍」は、たで科の一年草。「青は藍より出いでて藍よりも青し」ともいう。
昔々、中国の賢い人で、荀子(じゅんし)という人が、こんなことを言ったんだ。「学びは深くて終わりがないよ。だから、勉強をさぼらず、ひたむきに努力することが大切なんだよ。青い色は、藍(あい)という草から作られるけど、その色は藍よりももっと青いんだ。そして、氷は水から作られるけど、その氷は水よりももっと冷たいんだよ。」
この言葉は、「青色の染料は藍という草から作られるけど、その染料の方が草よりももっと青い。氷は水からできるけど、氷の方が水よりもっと冷たい」ってことを説明してるんだ。つまり、「元になったものよりも、それから作られたものの方がすごい」ってこと。
だから、学びも一緒で、どんどん学んでいけば、元の知識よりももっと深く知識を増やすことができるんだよ。そして、その学びの成果で、自分が先生よりもすごくなったら、「出藍の誉れ」って言えるんだよ。
この話を通じて、学びは絶えず進むべきで、その努力が認められる時がくるってことを覚えておこうね。
食指が動く(しょくしがうごく)
【意味】
食欲がおこる。また、あることをやってみたいという気がおこる
【故事】
楚の人が、鄭の霊公にすっぽんを献上しました。公子(貴族の子)である子公と子家が、ちょうどそのとき霊公の屋敷を訪れようとしていました。その時子公の人差し指がぴくりと動いたので、子公は子家にそれを示してこう言いました。「私の人差し指がこうなる時は必ず珍味にありつけるんだ」。二人が霊公の屋敷に入ると料理人がちょうどすっぽんをさばいているところでした。
「食指が動く」のお話の出所は、昔々の中国の話なんだよ。これは少し長い話だけど、一緒に聞いてみようね。
ある日、楚という国の人が、すっぽんという珍しいおいしい料理を、鄭の霊公という国の王様に差し上げました。そのすっぽんを見て、王様はとても喜びました。
その時、子公と子家という二人の王子が、ちょうど霊公のお城を訪れようとしていました。子公は手の人差し指がふと動いて、そのことを子家に見せながらこう言いました。「私のこの指がぴくっと動くときは、いつもおいしいものが食べられるんだよ」。
二人がお城に入ってみると、なんと料理人がすっぽんを調理しているところでした。子公の指が動いた通り、おいしいすっぽんの料理が出てきたのです。
だから、「食指が動く」という言葉は、自分が何か食べたいと思った時や、何かをやりたいと思った時に使うんだよ。
白い目で見る(しろいめでみる)
【意味】
憎しみをこめて見る。冷淡な目つきで見る。
【故事】
三国時代末期、魏に「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」と呼ばれる人たちがいました。今の時代でいう知識階層の人のことで、社会批判などを行う重要人物でした。その「竹林の七賢」の指導的な立場であった阮籍(げんせき)という人物がいました。「白眼」は、この阮籍が客人に対する態度を使い分けているという逸話がもとになっています。
「白い目で見る」という表現の由来は、昔の中国の時代の話なんだよ。
その昔、三国時代という時期に、「竹林の七賢」という7人の知識人がいました。彼らは社会を批判したり、人々に大切な教えを伝えたりしていたんだ。その7人の中で、阮籍という人が一番影響力があったよ。
阮籍は、訪れる客人に対してどのように接するかで評価を下すことが知られていました。彼は客人によっては冷たく接することもあったんだ。その様子を見た人々は、彼が冷たい目つきで見る様子を「白眼(白い目)を見せる」と表現しました。
それから、この「白眼を見せる」が「白い目で見る」という言葉として使われるようになったんだよ。つまり、誰かを嫌いな気持ちで、冷たく見る様子を示す表現なんだね。
助長(じょちょう)
【意味】
①その傾向を伸ばすこと。
②結果として、よくない傾向を強めてしまうこと。
【故事】
「孟子」より。中国、宋の人が苗を生長させようとして無理に引っ張って枯らしたという故事から。
「助長」の言葉の由来は、孟子という昔の中国の賢者の話によるものなんだよ。
孟子は弟子に対してこんな教えを伝えたんだ。「心を育てるのは、ちょうど作物を育てるようなものだよ。大切なのは、自然に成長するのを待つことなんだ。無理に早く成長させようとすると、逆効果になるよ。」
そして、孟子はその説明のために、こんな話をしたんだ。「宋という国に、農夫がいました。この農夫は自分の作物が早く大きくなるのを待ちきれず、苗を引っ張って無理に伸ばしてしまったんだ。でも、その結果、苗はみんな枯れてしまったよ。」
この話が、「助長」の言葉の由来になったんだよ。つまり、「助長」は、無理に手伝ったり応援したりすることで、逆に悪い結果を引き起こすことを表す言葉なんだね。
水魚の交わり(すいぎょのまじわり)
【意味】
水と魚が切っても切れない関係にあるように、きわめて親密な友情や交際のたとえ。
【故事】
「三国志」より。蜀の劉備が、諸葛孔明と自分との関係について「自分に孔明が必要なのは、魚にとって水が必要なのと同じだ」と、腹心の部下である関羽と張飛に語ったという故事による。
「水魚の交わり」という表現の由来は、中国の歴史上の有名な人物、劉備と諸葛孔明の関係から来ているんだ。
劉備は、蜀という国の王で、諸葛孔明はその王の軍師、つまり戦略を考える重要な人物だったんだよ。彼らはとても親密な関係で、劉備はその関係を「水魚の交わり」と表現しました。
なぜ「水魚」なのかというと、魚は水なしでは生きられないように、彼らの関係もまた密接で切っても切れないものだったからなんだ。このエピソードがあるから、「水魚の交わり」という表現は、とても親密な関係を表す言葉として使われるようになったんだよ。
推敲(すいこう)
【意味】
詩や文章などの語句を何度も練り(ねり)直しよりよいものにすること。
【故事】
唐(とう)の国の詩人賈島(かとう)は、自分の作品中の語句の「僧は推す(おす)月下の門」の一句を「僧は敲く(たたく)月下の門」にするべきか迷っていた。ロバに乗って考えにふけっていた賈島(かとう)は、有名な詩人の韓愈(かんゆ)の行列につっこんでしまった。韓愈(かんゆ)は、その非礼(ひれい)を怒るどころか、「敲く(たたく)」の方がよいと教えてくれたことから。
「推敲」という言葉の由来は、中国の唐という時代の詩人、賈島のエピソードからきているんだよ。
ある時、賈島は自分の詩の一節、「僧は推す月下の門」を「僧は敲く月下の門」に変えるべきかどうかをとても悩んでいました。そのことばかり考えているうちに、彼はロバに乗っていて、偶然にも有名な詩人の韓愈の行列にぶつかってしまったんだ。
それは大変な失礼だったけれども、韓愈は怒るどころか、賈島の詩のことを聞き、「敲く(たたく)」の方が良いと教えてくれました。このエピソードがあるから、「推敲」という言葉は、詩や文章を何度も練り直し、より良くする作業を表す言葉として使われるようになったんだよ。
杜撰(ずさん)
【意味】
①著作で、誤りが多く、いい加減なこと。
②いい加減なやり方で、手落ちの多いこと。ぞんざい。
【故事】
中国の故事で、詩人である杜黙(ともく)の詩が定型詩の格式にほとんど合わなかったことから。
「杜撰」という言葉の由来は、中国の宋時代の詩人、杜黙の名前と、詩文を作ることを意味する「撰」という言葉に関連しているんだよ。
杜黙は詩人だったけれども、彼の作った詩はしばしば詩の規則に従っていなかったという話があるんだ。つまり、彼の詩はあまりにも自由すぎて、伝統的な詩の形式に合わせていなかったんだよ。
それから、「杜撰」という言葉が生まれ、それはおおざっぱで不正確なもの、または間違いや誤りが多いものを指すようになったんだね。
席の暖まる暇も無い(せきのあたたまるいとまもない)
【意味】
一か所に落ち着いていられないくらい、非常に忙しい様子。
【故事】
《韓愈「諍臣論」から》忙しくて、腰をかけている暇がないので、席があたたまる事がない、という意味から。
「席の暖まる暇も無い」という表現の由来は、中国の詩人であり政治家でもあった韓愈の文章、「諍臣論」から来ているんだ。
この表現は文字通り、「腰を下ろして座るほどの時間がない」という意味で、つまりとても忙しくて、ほとんど一か所に留まる時間がない状況を描写しているんだ。それからこの表現は、非常に忙しい状況を表す言葉として使われるようになったよ。
折檻(せっかん)
【意味】
主君をきびしくいさめること。きびしく叱る(しかる)こと
1つ目の意味は、子供や部下を厳しく叱ったり、時には体罰を加えたりすることを指す。たとえば、「先生が生徒を折檻する」のように使うことができる。
【故事】
漢(かん)の国の皇帝の成帝(せいてい)のとき、朱雲(しゅうん)という家臣が上役の悪だくみを知り、成帝(せいてい)に何とかするようにといさめた。成帝(せいてい)はたいへん怒り、朱雲(しゅうん)を御殿(ごてん)から引きずりおろそうとした。朱雲(しゅうん)は、欄檻(らんかん…てすり)につかまって必死に訴えた。欄檻(らんかん)は折れ、地面に落とされても朱雲(しゅうん)は訴え続けたことから、この語ができた。(漢書)
「折檻」の由来は、中国の漢の国の皇帝、成帝の時代の出来事に関連しているんだ。
昔々、中国の皇帝の時代に、「朱雲」という人がいてね、この人が自分の上司の悪い計画を知っちゃったんだ。それを皇帝に報告しようとしたんだけど、その皇帝はすごく怒って、朱雲をお城から追い出そうとしたんだよ。
でも、朱雲は逃げ場所を探して、手すり(これを漢字で「欄檻」というんだよ)にしっかりとつかまったんだ。でもその手すりは折れてしまって、朱雲は地面に落ちてしまった。でも彼はあきらめず、皇帝に訴え続けたんだ。
そしてその後、「折檻」っていう言葉が生まれたんだって。それは「手すりが折れてもあきらめずに正しいことを言い続ける」っていう意味があるんだよ。
切磋琢磨(せっさたくま)
【意味】
学問・道徳に、励みに励むこと。また、仲間同士互いに励まし合って向上すること。
【故事】
「切磋」骨角玉石などを切り磨くこと「琢磨」玉などを擦り磨くことから、学問などを磨き励むこと。五経の一、詩経より「有斐君子、如切如嗟、如琢如磨」
「切磋琢磨」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。この言葉は二つの部分からできていて、「切磋」っていう部分と「琢磨」っていう部分があるんだ。
「切磋」の部分は、骨や角を刀で切ったり、やすりで磨いたりして細工することから来ているんだ。それは時間をかけてじっくりと物を作り上げることを示しているんだよ。
そして「琢磨」の部分は、宝石を打って形を整えたり、石を使って磨いたりすることから来ているんだ。これもまた、じっくりと時間をかけて、きれいに仕上げる作業を表しているんだ。
だから、「切磋琢磨」はじっくりと時間をかけて、自分自身を磨き上げること、そして友達と一緒に励まし合って上達することを意味しているんだよ。
千里眼(せんりがん)
【意味】
千里も先のことまで知ることのできる能力(がある人)。人の心をさぐりあてる能力(をもつ人)。
【故事】
魏(ぎ)の揚逸(よういつ)と言う人は、広い情報網をはりめぐらしていて、部下の行動をすべて心得ていた。人々は揚逸が千里もかなたのことまで見ぬく眼を持っていると言って恐れたという。(魏書)
「千里眼」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。
昔々、中国に「揚逸」というすごく賢い人がいて、彼はたくさんの情報を集めるために、たくさんの人とつながっていたんだ。彼の部下たちが何をしているか、彼はいつも知っていたよ。
それを見た人々は、「揚逸は遠くのことまで見ることができる目を持っているんだ」と思って、彼を尊敬したり、ちょっと怖がったりしたんだよ。だから、「千里眼」は「遠くのことを見ることができる力」の意味になったんだよ。
「た行」の故事成語一覧
大器晩成(たいきばんせい)
【意味】
偉大な人物は、大成するまでに時間がかかること。
【故事】
崔林(さいりん)はあまり目立たず、人々からはおろか者と言われていた。しかし、いとこの崔えん(さいえん)という人だけは、「大きな鐘は、そうそう、やすやすとはできない。大きな才能もそれと同じで完成までに年月がかかる。」と言った。崔林は成人すると、その才能をりっぱに開かせ、地位の高い人物になった。(老子)
「大器晩成」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。
昔々、崔林という人がいて、彼はあまり目立たなかったんだ。だから、人々は彼を少し見下していたんだけど、彼のいとこである崔えんだけが彼を理解していたんだ。
崔えんは、「大きな鐘はすぐには作れないよね。大きな才能も同じで、すごくなるまでには時間がかかるよ」と言ったんだ。そして崔林が大人になると、彼の才能が花開き、高い地位につくことができたんだ。
それで、「大器晩成」っていう言葉が生まれたんだ。それは「大きな才能を持つ人も、その才能が開花するまでには時間がかかる」っていう意味があるんだよ。
太公望(たいこうぼう)
【意味】
魚釣りをする人。釣り好きな人。
【故事】
呂尚(りょしょう)という人物の号。「太公」とは、祖父のこと。周の文王が狩りに出かけたとき、渭水で釣りをしていた呂尚に出会い、「わが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」として見出され、太公望と名付けられた。これにより、釣りをする人のことを意味するようになる。【出典】史記[斉太公世家]
「太公望」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。
昔々、周の国の王である西伯が狩りに出かけたとき、釣りをしているおじいさんに出会ったんだ。そのおじいさんの名前は呂尚。西伯が呂尚と話をしているうちに、彼の知識が豊富で、品行方正な人物だとわかったんだよ。
それを知った西伯は、自分の父が以前「すごい人物が現れて、国が栄えるだろう」と言っていたのを思い出したんだ。そして西伯は、そのすごい人物こそがこの呂尚だと思い、彼を敬って先生として尊敬したんだ。そして、西伯は呂尚を「太公望」と呼んだんだよ。
だから、「太公望」は釣りをしている人や釣りが大好きな人を指すようになったんだよ。
大同小異(だいどうしょうい)
【意味】
細かい違いがあるが、ほぼ同じであること。
【故事】
「大同小異」の故事は、中国の戦国時代に書かれた『荘子』(そうし・そうじ)の中に出てきます。『荘子』は荘子、つまり荘周によって書かれた思想書で、故事成語「大同小異」はこの本の第3部「雑編」の最後の項目「天下」に出てきます。「大同而与小同異、此之謂小同異。万物畢同畢異、此之謂大同異」がそれです。意味は「世の中には大同にして小同と異なるものがあり、これを小同異という。これに反して万物ことごとく同じく、ことごとく異なるものがあってこれを大同異という」ということ。
「大同小異」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。
昔々、荘子という偉大な思想家がいて、彼は「荘子」という本を書いたんだ。その本の中で、「大同小異」という言葉が使われていたよ。この言葉は、「世の中には大体は同じだけど、小さい部分で違うものがある」という意味だったんだ。
また、その反対に、「すべてのものが同じで、同時にすべてのものが違う」という意味の「大同異」もあるよ。だから、「大同小異」とは、大体は同じだけど、小さい部分で違うということを表しているんだよ。
他山の石(たざんのいし)
【意味】
他人のやったことは、間違っていることでも、自分のために役立てることができるということ。知徳を磨いたり、反省材料にする際に参考になるという事。
【故事】
中国最古の詩編『詩経』の『小雅・鶴鳴』篇にて、「他山の石、以て玉を攻むべし」とあるのに基づく。「よその山から出た粗悪な石でも、自分の玉(宝となるもの)を磨く砥石として利用できる。」という意味から。
「他山の石」の由来を簡単に説明すると、こんな感じだよ。
「他山の石」は、「他の山から取った石」を意味するんだ。たとえその石が自分が持っている宝石より価値が低いものでも、その石は自分の宝石を磨くのに使えるんだ。つまり、それが自分の成長や向上に役立つことを示しているんだ。
だから、「他山の石」という言葉は、他人の行動や話から学び、それを自分の成長のために使うという考え方を表しているんだよ。
蛇足(だそく)
【意味】
よけいなつけ足しのこと。また、なくてもよい無駄なもののこと。しなくてもいいこと。
【故事】
「戦国策・斉」より出典。中国の楚(そ)の国で、祠(ほこら)の司祭者が召使に大杯に盛った酒を振る舞った。しかし、召使たちはみんなで飲むには酒が足りないので、地面に蛇の絵を描き、早く描き上げた者が酒を飲もうと提案し、さっそく蛇の絵を描き始めた。最初に蛇を描き終えた者が、酒を引き寄せながら、自分の早さを自慢するために、ついでに足まで描けるぞと描いているうちに、もう一人の者が蛇を描き終えて杯を奪い取った。「蛇に足はない。だから、酒を飲む権利は私にある。」そう言って、その酒を飲んでしまった。
昔々、ある国に何人かの人々が集まって、1つの酒の入った壷をもらったんだ。その酒をみんなで分けて飲むと少しずつしか飲めないから、早く蛇の絵を描いた人がその酒を全部飲むことにしたよ。
最初に蛇の絵を描いた人は、時間が余ってしまったから、本当の蛇にはない足を描いて足してしまったんだ。それでみんなから「その絵は蛇の絵じゃない」と言われ、せっかく描いた絵が認められず、2番目に描いた人に酒を取られてしまったんだ。
だから、「蛇足」は「余計なもの」や「必要ないもの」を指すようになったんだよ。
断腸の思い(だんちょうのおもい)
【意味】
はらわたが千切れてしまうほどに、深く悲しいことのたとえ。
【故事】
「世説新語(せせつしんご)」黜免(ちゅつめん)より出典。「桓公(かんこう)蜀(しょく)に入り、三峡の中に至る。部伍(ぶご)の中に猨子(えんし)を得る者あり。其(そ)の母岸に縁(よ)りて哀合し、行くこと百余里にして去らず。遂に跳りて船に上り、至れば便即(すなわ)ち絶ゆ。其の腸中を破り視れば、腸皆寸寸に絶えたり。」中国、晋(しん)の武将桓温(かんおん)が蜀へ行こうとして、舟で三峡(長江中流の大渓谷で、古来航行の難所)を通った時に、従者が猿のこどもを捕らえて舟に乗せた。母猿は悲しい鳴き声をあげながら、岸に沿ってどこまでも追いかけてきて、百里以上ついてきたけれどあきらめようとせずに、ついに舟に飛び乗ってきた。しかし、途端に息絶えてしまった。そこでその腹を裂いてみると、悲しさのあまりに腸がずたずたにちぎれていたということに基づいている。
「断腸の思い」の由来をもっとわかりやすく説明すると、こんな感じだよ。
昔、中国の晋の国の指導者、桓温という人が船で谷を通り過ぎているときの話だよ。その時、桓温の家臣が、猿の赤ちゃんを捕まえてしまったんだ。その猿の母親は、自分の子どもを取り返すために、100キロ以上も追いかけてきたけど、家臣はその赤ちゃん猿を殺してしまったんだ。
母親の猿は、その光景を見て悲しみで泣きながら死んでしまったんだ。人々がその猿のお腹を調べてみると、悲しみで腸がちぎれていたんだよ。だから、「断腸の思い」という言葉が生まれ、とてもつらい、深い悲しみを表すようになったんだよ。
朝三暮四(ちょうさんぼし)
【意味】
目の前の違いに心を奪われて、結果が同じになることに気がつかないこと。また、ことば巧みに人をだますこと。
【故事】
宋の狙公(そこう)が飼っていた猿に橡(とち)の実を与えるとき、朝に三つ、夕方に四つやろうと言うと怒ったので、それなら朝に四つ、夕方に三つやろうと言うと大喜びしたという、『列子』『荘子』にある寓話に基づく。
昔々、遠い国に狙公(そこう)という人がいて、彼はたくさんの猿を飼っていたんだ。でもある日、猿たちに食べさせるトチの実が少なくなってきて、困ってしまったんだ。
だから狙公は、食べ物を少なくしなければならないけど、でも猿たちに怒られたくないと思ったんだ。だから彼は猿たちに「これからは朝にトチの実を3つ、夕方には4つあげるよ」と言ったんだ。でも猿たちがすごく怒ったんだよ。
そこで狙公は考えて、「じゃあ朝にトチの実を4つ、夕方には3つあげるよ」と言ったら、猿たちはすごく喜んだんだ。でも実はね、朝3つでも朝4つでも、1日であげるトチの実の数は変わらないんだよ。猿たちは、それに気づかなかったんだ。
だから「朝三暮四」って言葉は、見え方がちょっと変わるだけで全然違うように思えてしまうこと、あるいはそんな風に人をだますことを意味するんだよ。
長者の万灯より貧者の一灯(ちょうじゃのまんとうよりひんじゃのいっとう)
【意味】
金持ちが見栄をはって差し出す大量の寄進より、たとえわずかでも貧乏人が心を込めて捧げる寄進の方がまさっているということ。
【故事】
「阿闍世王受決経」から。阿闍世王は、招待したお釈迦様がお帰りになる時に、宮殿から祇園精舎沿いにたくさんの灯火をともしました。それを見た貧しい老婆がなんとかお金を工面しやっと一本の灯火をともします。阿闍世王の灯火が消えた後も、老婆がともした一本の灯火はずっと消えなかったというお話です。
昔々、あるおおきなお城の王様が、すごく大切なお客さん(お釈迦様)をお家に招いたんだよ。お客さんがお城を出るときに、王様は道の両側にたくさんの明かりをつけて、すごく明るくしました。
そのころ、お金がないけど心の優しいおばあさんがいました。彼女もお釈迦様にちょっとでも何かしてあげたいと思って、お金をためて一つだけの明かりを道につけました。
驚いたことに、王様がつけたたくさんの明かりはすぐに消えてしまったけど、おばあさんがつけた一つの明かりはずっとずっと明るく輝いていました。これが、「長者の万灯より貧者の一灯」の話の由来だよ。この話から、「どれだけたくさん出すか」ではなく、「どれだけ心をこめて出すか」が大切だってことを教えてくれるんだよ。
敵は本能寺にあり(てきはほんのうじにあり)
【意味】
真の目的は別のところにある意。
【故事】
明智光秀が備中の毛利勢を攻めると称して出陣し、織田信長を本能寺に攻めた故事。
「敵は本能寺にあり」のお話は、昔の戦国時代の出来事からきているんだよ。
ある日、明智光秀という侍が、他の侍たちに「毛利」という敵を攻撃しに行くと言って、出陣したんだ。でも、本当に攻めに行ったのは、彼の大将である織田信長がいる「本能寺」という寺だったんだ。
つまり、みんなが思っていた「敵」(毛利)とは違って、本当の「敵」(目的)は全く違うところ(本能寺)にあったんだよ。これから「敵は本能寺にあり」という言葉が生まれて、本当の問題や目的が予想とは違う場所にあることを表すようになったんだよ。
天知る地知る我知る人知る(てんしるちしるわれしるひとしる)
【意味】
誰も知るまいと思っても、天地の神々も私も君も知っている。隠し事は必ず露頭するものであるということ。四知。
【故事】
出典は「後漢書」です。後漢の学者に推薦(すいせん)されて役人になった人が賄賂(わいろ)を贈ろうとしたとき、「夜なので誰にも気づかれません」と言ったところ、学者が「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂(い)わんや=天の神も知っている、地の神も知っている、わたしもあなたも知っている。だからひそかにやっているつもりでも不正はいつかきっと露見(ろけん)する」と答えたという故事に基づいています。
「天知る地知る我知る人知る」のお話は、古い中国の本、「後漢書」から来ているんだよ。
昔、ある賢い人が他の人に役人になるようにすすめられたんだ。でも、その人がその賢い人にお金をあげる(これを「わいろ」と言うんだよ)と提案したときの話だよ。
その人が「夜だから誰にも見つからないよ」と言ったら、賢い人は「でも、天も地も、私もあなたも知っている。だから、どんなに隠そうとしても、悪いことはいつか必ずばれるよ」と答えたんだ。
それから、「天知る地知る我知る人知る」という言葉が使われるようになったんだよ。つまり、この言葉は、どんなに秘密を隠そうとしても、結局は誰かにわかってしまうということを教えてくれるんだ。だから、正直に行動することが大切なんだよ。
天高く馬肥ゆる秋(てんたかくうまこゆるあき)
【意味】
秋の快適な気候のこと。
【故事】
秋は空気が澄んでいて、空が高く感じられる。馬が肥えるような収穫の季節でもあることから。
「天高く馬肥ゆる秋」の由来は、秋の季節がどんな感じかをうまく表しているんだよ。
秋になると空気がすっきりしてきて、空がとても高く感じられるんだ。それを「天高く」と言っているんだよ。
さらに、秋は収穫の季節で、たくさんの食べ物ができる時期。そのため馬が太るほど食べ物がたくさんあるということを、「馬肥ゆる」と言っているんだ。
つまり、「天高く馬肥ゆる秋」は、秋がきれいで、食べ物も豊かでとても気持ちのいい季節だよ、という意味になるんだよ。
桃源(とうげん)
【意味】
今住んでいる社会の悩みや心配ごとからはなれた別の天地のこと。
【故事】
晋(しん)の時代のこと。武陵(ぶりょう)のある漁師が川をさかのぼっていくと、桃の花の咲く林に出た。さらにさかのぼると、思いがけない別天地にたどり着いた。そこには、戦争もなく、幸福にくらせる生活があった。後日、もう一度、漁師はそこに行こうとしたが、とうとう見つからなかったという。このことから、この語ができた。(桃花源記)
「桃源」は、昔の中国のお話に由来しているんだよ。
あるとき、武陵という場所に住んでいる漁師が川を遡って行ったんだ。そうすると、とってもきれいに桃の花が咲いている林に出たんだよ。
そしてもっと先に進んでいくと、すごく平和で誰もが幸せに暮らしている、まるで夢のような場所に辿り着いたんだ。そこでは戦争もなく、みんなが安心して生活していたんだよ。
でも、その漁師がもう一度その場所に行こうとしたとき、どうしてもその場所を見つけられなかったんだ。それから、「桃源」という言葉が生まれて、現実の世界から離れた平和で美しい場所を表すようになったんだよ。
登竜門(とうりゅうもん)
【意味】
立身出世、成功のための関門。
【故事】
黄河の上流に龍門があり、ここをのぼることができた鯉は龍なることができたという伝説がある。漢の国の李膺(りよう)はりっぱな役人で、彼の目にかなった者は立身出世(りっしんしゅっせ)を約束されたようなものだから、たとえの鯉が龍門をのぼったのと同じようなものだということから、この語ができた。
「登竜門」のお話は、昔の中国のお話からきているよ。
黄河という大きな川の上流には「龍門」という場所があって、伝説ではここを上ることができた鯉は龍になることができたんだって。
それから、中国の昔の国、漢の時代に「李膺」という立派な役人がいて、彼が気に入った人はきっと成功することができたんだよ。それはまるで鯉が龍門を登るようなものだと思われたんだ。
だから、「登竜門」という言葉は、大きな試練を乗り越えて成功するという意味になったんだよ。
蟷螂の斧(とうろうのおの)
【意味】
自分の力が弱いことに気づかずに大敵に刃向かうこと。向こう見ず。はかない抵抗。
【故事】
出典は「韓詩外伝(かんしがいでん)」です。斉(せい)の荘公(そうこう)が狩りに行ったときにカマカリが前足を振り上げ車の輪を打とうとしたので「これは何の虫だ」と問うと、「カマキリという虫で、進むことしか知らず、退くことを知りません。自分の力量をかえりみず相手に立ち向かっていきます」と答えたことから。
「蟷螂の斧」の由来は、昔の中国のお話に出てくるよ。
ある日、斉という国の王様が狩りに行ったときのこと。王様の車が進んでいると、小さなカマキリが前足を振り上げて、車の輪を止めようとしたんだ。
王様が「これは何の虫だ?」と聞くと、「これはカマキリといいます。カマキリは前に進むことしか知らなくて、後ろに下がることを知りません。自分が弱いかどうか考えずに、大きな相手に立ち向かうんです」と答えたんだ。
その話から、「蟷螂の斧」は、力のない者が大きな力に立ち向かうこと、それが無駄でも戦いを挑むことを表すようになったんだよ。
怒髪冠を衝く(どはつかんむりをつく)
【意味】
怒ったために頭髪が逆立って、かぶった冠を突き上げるという意味で、尋常ではない、すさまじい怒りの形相のこと。
【故事】
漢(かん)の国の王の劉邦(りゅうほう)と天下を争った楚(そ)の国の王の項羽(こうう)は、会見の時に項羽(こうう)の軍師の范増(はんぞう)の指示に従って、剣の舞(けんのまい)にかこつけて劉邦(りゅうほう)を殺そうとした。それを知った劉邦(りゅうほう)の家臣の樊かい(はんかい)が髪をさか立てて、怒りの顔つきで目をらんらんとかがやかせ、項羽をにらみつけていたので、劉邦は殺されずに助かったということから、この語ができた。
「怒髪冠を衝く」の由来はね、昔昔、中国に二人の王様がいたんだよ。一人は劉邦(りゅうほう)、もう一人は項羽(こうう)だよ。二人はどちらがもっと強い王様かを競っていたんだ。
ある日、項羽のお助け人、范増(はんぞう)という人が、「剣の舞を踊るふりをして、劉邦を攻撃しよう」と企んだんだ。でも、劉邦の側近で、樊かい(はんかい)という人がその計画を知っちゃったんだ。
樊かいはすご~く怒って、頭の髪をビュンビュン立てて、項羽をにらみつけたんだよ。そんな樊かいを見て、項羽はビビッてしまって、結局劉邦を攻撃できなかったんだ。
だから、「怒髪冠を衝く」という表現は、この話から生まれたんだよ。つまり、すごく怒っている様子を表すんだね。
虎の威を借る狐(とらのいをかるきつね)
【意味】
有力者の権勢をかさに着ていばるつまらぬ者のこと。
【故事】
中国前漢時代の学者・劉向が戦国時代の言説、国策、献策、その他の逸話をまとめあげた書『戦国策』の『楚策』より。「虎が狐を食おうとしたところ、狐は自身が天帝から百獣の王に任命されているため、食べたら天帝の意にそむくことになると伝えた。嘘だと思うならついて来い、と言われた虎は、狐の後に続くと、行き合う獣たちはみな逃げ出していく。虎は獣たちが自分を恐れていたことに気づかず、狐を見て逃げ出したのだと思い込んだ。」という記述から。
「虎の威を借る狐」の由来は面白い話があるんだよ。昔々、虎が狐を捕まえた時のこと。狐は怖くて怖くて、どうにかして逃げ出したかったんだ。
だから狐は虎に対して、「実はぼく、天から全ての動物をまとめる長に任命されたんだよ。だから僕を食べちゃダメだよ。信じられないなら、後ろからついてきて見てよ。他の動物たちは僕を見て皆逃げていくよ。」と言ったんだ。
虎はその言葉を信じて、狐の後ろからついて行ったよ。そして、他の動物たちが狐を見て逃げていくのを見たんだ。でも実は、動物たちは虎を見て逃げていたんだけど、虎はそれに気づかなかったんだ。
だから、狐は虎の威勢を借りて、他の動物たちを怖がらせていたんだよ。その話から、「虎の威を借る狐」って言葉が生まれたんだ。つまり、他人の力を借りて、自分が強く見せることを意味しているんだよ。
「な行」の故事成語一覧
泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)
【意味】
ルールを守るためには、たとえ肉親や親しい人であろうと己の情を捨て、切り捨てないといけないという意味である。
【故事】
中国の三国時代を書き連ねた歴史書『三国志』(さんごくし)の蜀書・董劉馬陳董呂伝に記されてある逸話が語源とされている。蜀の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)は、親友・馬良(ばりょう)の弟であり愛弟子でもある武将・馬謖(ばしょく)が街亭の戦いで諸葛亮の命令に背いたために大敗に終わったことから、責任を取り涙ながらに馬謖を斬罪したと言われている。
「泣いて馬謖を斬る」の由来は、昔の中国のお話に基づいているんだよ。
その昔、蜀(しょく)という国に馬謖(ばしょく)という武将がいてね。彼は宰相(さいしょう)、つまり国の大事な仕事を任されている諸葛孔明(しょかつこうめい)から、とても信頼されていたんだ。
ある日、馬謖は諸葛孔明の命令で戦いに行ったんだけど、諸葛孔明の戦いの作戦をちゃんと守らなかったんだ。その結果、敵国である魏(ぎ)に大敗してしまったよ。
諸葛孔明は、軍のルールを守ることの大切さをみんなに伝えるために、信頼していて大切に思っていた馬謖を、とても悲しくて泣きながらでも死刑にしなければならなかったんだ。
だから、「泣いて馬謖を斬る」は、心が痛むけれどもルールや法律を守るためには、個人的な気持ちを抑えて行動しなければならないことを表す言葉になったんだよ。
鳴かず飛ばず(なかずとばず)
【意味】
三年もの期間、じっと機会の来るのを待って何もしないこと。
【故事】
「史記」より。中国の春秋時代、即位して何もせずに三年間が過ぎた楚の荘王に伍挙が言ったことばで、これを聞いた荘王は「この鳥は飛べば天まで昇り、鳴けば人を驚かすだろう」と言って国政に力を入れだしたという故事による。
「鳴かず飛ばず」の由来は、中国の歴史書「史記」から来ているんだよ。
昔々、中国の春秋時代に、楚という国の荘王という王様がいたんだ。彼は即位したものの、何もせずに三年間が過ぎてしまったんだ。
そこで、伍挙という人が荘王に対して、「鳴かず飛ばず」のことを言ったんだよ。それを聞いた荘王は、この言葉に触発されて、「この鳥が飛べば空まで昇り、鳴けば人々を驚かせるだろう」と感じたんだ。そして、国政に力を入れることを決めたんだ。
だから、「鳴かず飛ばず」は、長い間待ち機会を伺っているが、その待つ間には何もしないという意味を表すようになったんだよ。
「は行」の故事成語一覧
敗軍の将は兵を語らず(はいぐんのしょうはへいをかたらず)
【意味】
戦争に敗れた将軍はその戦いについてあれこれ言うべきでないし、兵法の理論などを説く資格もないという意味。失敗した者は沈黙すべきだというたとえ。「兵」は、「戦い」を意味する。
【故事】
「史記・准陰候」に「敗軍の将は以て勇を言うべからず。亡国の大夫は以て存を図るべからず(戦に負けた将軍は武勇について語る資格がない。滅んだ国の家老は国の存立を考えるべきではない)」とある。 戦いに敗れた者は、戦いの経緯や武勇について語る立場ではないという意味から、失敗した者が弁解がましく発言したりすべきではないという戒め。
「敗軍の将は兵を語らず」の由来は中国の歴史書、「史記」にあるお話から来ているんだよ。
そのお話は、「敗軍の将は勇を語るべからず、亡国の大夫は存を図るべからず」という言葉で、これは「戦に負けた将軍が武勇について語る資格はないし、滅ぼされた国の高官が国の存続を考えるべきではない」という意味だよ。
この言葉から、「敗軍の将は兵を語らず」ということわざが生まれた。これは、失敗した人がその失敗について語ったり、弁解したりするべきではないという意味を教えてくれているんだよ。失敗したことは認めて、それから学ぶべきだよね。
背水の陣(はいすいのじん)
【意味】
背後に川などがあると後退できないので、軍勢は必死に戦う。同じように一歩も退けない覚悟で全力を尽くして事に当たること。
【故事】
「史記」より。中国、漢の韓信が趙の軍と戦った際に、川を背にして陣取って大勝したという故事から。
「背水の陣」の由来は、中国の昔の話から来ているんだ。
昔々、中国の漢の国の王である劉邦の下に、とてもすごい武将である韓信という人がいたよ。韓信はある時、趙という国と戦うことになったんだ。
その時、韓信はとても賢い戦術を使った。彼は自分たちの陣地を川や沼の向こう側につくったんだ。これによって、自分たちの後ろは川になり、逃げ道がなくなる。つまり、戦士たちは敵に向かって戦うしかない状況をつくったのさ。
この戦術のおかげで、韓信は趙との戦いで見事な勝利を収めたよ。それから、「背水の陣」という言葉が生まれ、後に逃げ場がなく、全力で戦うという意味を表す言葉となったんだよ。
白眼視(はくがんし)
【意味】
人を冷やかに見つめること。白い眼で見ること。
【故事】
晋書より。中国、晋の阮籍が、気に入った人は青眼(黒眼)で迎え、気に入らない人は白眼で迎えたという故事による。
「白眼視」の由来は、中国の昔の人物、阮籍(げんせき)の行動から来ているんだ。
阮籍は、気に入らない人を見る時、自分の目を上に向けて、白い部分(白眼)を見せていたんだよ。これは、彼がその人を冷淡に見ている、つまり、その人を軽蔑していることを示していたんだ。
それから、「白眼視」という言葉が生まれ、他人を冷淡に見る、軽視するという意味で使われるようになったよ。
白眉(はくび)
【意味】
多くの中で最も優れているもの。
【故事】
白い眉毛という意味。三国時代、蜀にいた馬氏の5人兄弟はいずれも優秀で、兄弟すべての字(あざな)に「常」という字があったことから「馬氏の五常」と言われていた。その中でも、眉毛に白い毛があった長兄の馬良は特に優れていたため、最も優れているものの例えとされている。【出典】蜀志[馬良伝]
「白眉」の由来は中国の歴史上の有名な人物、馬氏の一族の話から来ているんだ。
馬氏には五人の子供がおり、皆秀才で知られていて、「馬氏の五常」と呼ばれていたよ。その中でも長男の馬良さんは特に優れていて、彼の眉には白い毛があったため、「白眉」に見えたんだ。
そのため、彼のことを指して「白眉」って言うようになり、その後は「最も優れた人」を指す言葉として広く使われるようになったんだよ。
そして、「泣いて馬謖を斬る」の話の中の馬謖さんは、実はこの「馬氏の五常」の一人、つまり馬良さんの弟さんなんだよ。
破天荒(はてんこう)
【意味】
未開の荒れ地を切り開くように、それまで誰もなし得なかったことをやりとげること。
【故事】
北夢瑣言。「天荒」は天地が分かれる前の混沌とした状態。中国の唐時代、官吏になるための試験に合格者を出したことのない、荊州(現在の湖北省)は天荒と呼ばれ、そこから合格者が出た時に天荒を破ったと言われたという故事による。
「天荒」っていう言葉は、まだ明るくならない夜明け前みたいな、何も新しいことが起こらない状態のことを指すんだよ。昔、中国の唐という時代に、荊州という場所からはなかなか人が役人の試験に合格しなかったから、そこは「天荒」みたいなところだと言われていたんだ。
でもあるとき、劉蛻という人の家族が初めて試験に合格したんだ。それはまるで「天荒」を「破る」みたいなことだったから、みんなはとても感動して、その人をほめちぎったよ。それから、「破天荒」っていう言葉が使われるようになったんだよ。つまり、「破天荒」は今まで誰もやったことのないようなすごいことをやる、という意味になったんだよ。
ひそみに倣う(ひそみにならう)
【意味】
善し悪しも考えずに、やたらに人のまねをする。また、他人にならって物事をするのを謙遜していう言葉。
【故事】
「顰み」とは、眉間にしわを寄せること。 「荘子」「天運」より。美女の西施が、心臓の病のために苦しげに眉をひそめたのを醜女が見て、美しいと思い、自分もそのまねをしたが、それを見た人は気味悪がって門をとざしたことから。
「ひそみ」は顔をしかめること、「倣う」はまねをすることを意味するよ。
「ひそみに倣う」は、昔、越という国に西施という美しい女性がいて、彼女が胸の病気で時々顔をしかめることがあったんだ。でも、その顔をしかめる姿が何となく魅力的で、村の男たちはそれを評判にしたんだよ。
それを聞いた一人の主婦が、家に帰って西施の顔をしかめる姿を真似しようとしたんだけど、うまくいかなくて、逆に村の人たちを怖がらせてしまったんだ。
この話から、「ひそみに倣う」という言葉が生まれて、他人の行動をただ真似してもうまくいかないこと、つまり、真似するだけではなくて、その人がなぜそうしているのか、その意味を理解することが大切だという教訓が込められているんだよ。
髀肉の嘆(ひにくのたん)
【意味】
功名を立てたり実力を発揮したりする機会のないことを嘆くこと。「髀肉」は股の肉。
【故事】
「三国志」蜀志より。蜀の劉備が志を得ず、寄寓の生活を送っていたころ、長く戦場に出ないため、股に肉が付きすぎ、功名も立てずに時間ばかりが過ぎていくのを嘆いたという故事から。
昔、中国に劉備という戦士がいて、後に彼は蜀という国を作ったんだよ。でも、あるとき、劉備は荊州の劉表という人のところに身を寄せて、しばらくの間、戦争に出ることがなかったんだ。
そのため、劉備は戦争に出ないでいる間に、股に肉が付きすぎてしまったことをとても残念に思ったんだ。彼はそのことを「髀肉の嘆」と言って、自分の戦士としての能力を使えないことを嘆いたんだよ。
そこから、「髀肉の嘆」っていう言葉が使われるようになったんだ。つまり、「髀肉の嘆」は自分の才能や力を発揮できないことを残念に思う、という意味になるんだよ。
百聞は一見に如かず(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
【意味】
何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうがまさる。
【故事】
中国の「漢書趙充国伝」にある言葉が由来。「百聞は一見に如かず。兵はるかに度り難し。臣願わくは馳せて金城に至り、図して方略をたてまつらん。」
昔の中国で、皇帝が戦の作戦を相談したところ、将軍が、「戦のことは遠く離れたところにいたのではわかりません。私が金城に駆け付けて状況を探り、図に書いて作戦計画を奏上いたしましょう。」と答えたという話から。
「百聞は一見に如かず」の由来は、中国の古い本「漢書」の「趙充国伝」に出てくる話から来ているんだよ。
その話では、老齢の将軍、趙充国という人が戦争のことを考えている時に、自分が遠く離れたところにいては戦の状況がよくわからないと言いました。だから彼は、自分が直接、戦争が行われている場所「金城」に行って、その場所を自分の目で見て、その状況を図に書いて作戦計画を立てることを提案しました。
これは「何回も人から聞くよりも、一回自分の目で見る方がいい」っていう意味と同じだよ。だから、この話から「百聞は一見に如かず」という言葉が生まれたんだよ。
風林火山(ふうりんかざん)
【意味】
時勢や情勢に合わせた対処の方法のこと。もとは軍を指揮するときの四つの心構えのこと。風のように速く行動して、林のように静かに機会を待ち、火のように激しく襲い掛かり、山のように動かずに構えるという意味。孫子の中の句を略した言葉で、武田信玄が旗印に使ったといわれている。
【故事】
日本の戦国武将・武田信玄の軍の旗印として有名な「風林火山」ですが、これは元々『孫子』の中に出てくる言葉です。『孫子』の軍争篇で孫子は、戦術の基本は敵をあざむくことだ、と言っています。そしてその行動は変幻自在のものでなければならない、と。風のように行動したかと思えば、林のようにシーンと静まり返り、燃え上がる火のように襲いかかったかと思えば、山のように微動だにしない。ここがいくさでの変幻自在を説いた「風林火山」の部分です。
「風林火山」の言葉の由来は、日本の戦国時代の武将、武田信玄が戦の旗印として使ったことから知られているね。でも、この言葉はもともとは中国の古い戦術の本「孫子」から来ているんだよ。
「孫子」の中では、孫子が「戦いの基本は敵を欺くことだ」と教えているんだ。そして、そのためには自分の行動をとても変化させる必要があると言っているよ。風のようにすばやく動いたり、林のようにじっと静かに待ったり、火のように激しく攻撃したり、山のようにじっと動かなかったりすることを教えているんだ。
それが「風林火山」の元々の意味で、これは戦いの中での様々な戦略を表しているんだよ。
覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず)
【意味】
一度離縁してしまった夫婦の仲は元に戻らない事。また、一度してしまった失敗は取り返しがつかないという事。
1つ目は、一度やってしまったことは、もう元に戻せないよ。たとえば、大切なものを壊してしまったら、それを元通りにするのは難しいね。
【故事】
中国・後秦の王嘉による志怪小説集『拾遺記』 より、「周の太公望は、若い頃貧乏なのに働かず読書ばかりしていたので、妻は愛想を尽かし出て行った。後に太公望が出世して高位につくと、出て行った妻が復縁を求めてきたが、そのとき太公望は盆の水をこぼして「この水を元に戻せたら復縁に応じよう」と言った。」という記述から。
「覆水」とは、こぼれた水のことを表す。
「覆水盆に返らず」の由来は、古代中国の周の国に住んでいた呂尚という人物の話からきているよ。
呂尚は毎日、読書ばかりして働かなかったので、彼の妻は呂尚に愛想を尽かし、離婚してしまったんだ。でも、その後、呂尚は周の国の王、西伯に見出されて、大きな出世を果たし太公望と呼ばれるようになったんだよ。出世した呂尚の元に、離婚した妻が戻ってきて復縁を願ったんだけど、呂尚はお盆に水をこぼしてみせ、「この水を元通りに戻せたら、希望通り、復縁しよう」と言ったんだ。
でも、一度こぼれた水は元に戻せないよね。だから、結局、呂尚の妻は彼と復縁することができなかった。これが「覆水盆に返らず」という言葉が生まれた由来なんだよ。
刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)
【意味】
「刎頚」とは、首をはねることで、その友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの、親しい交わりの事。きわめて親密な付き合いの事。
「刎頸」は、文字通りには首を切ることを意味していて、この表現が使われるときは、あなたのためなら自分の命を捧げるほど、とても親密で深い関係を意味しているんだ。
【故事】
中国前漢時代に歴史家・司馬遷によって編纂された中国の歴史書『史記』より。「春秋時代、趙の将軍・廉頗は、功績により自分より上位になった名臣・藺相如を恨んだ。しかし相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた廉頗は、自分の考えを恥じ、深く反省した。そして廉頗は相如へ謝罪をし、二人は互いのために頸を刎ねられても悔いはないとする誓いを結んだ。」という記述から。
「刎頸の交わり」の由来は、中国の古い歴史書「史記」の中の話から来ているんだよ。
その話は、春秋時代の趙の国の将軍、廉頗が、自分より功績で上位になった藺相如をねたんでいたことから始まるんだ。でも、藺相如は自分たちが争って国が困ることを心配していたんだ。
このことを聞いた廉頗は、自分がねたみから出た考えを恥じて、深く反省したんだよ。それから、廉頗は藺相如に謝罪して、二人はお互いのためなら自分の首を刎ねても悔いはないと誓ったんだ。
この誓いが「刎頸の交わり」で、つまり、とても親密で深い友情を示しているんだよ。
蛇を描きて足を添う(へびをえがきてあしをそう)
【意味】
よけいなつけ足しのこと。また、なくてもよい無駄なもののこと。しなくてもいいこと。
【故事】
「戦国策・斉」より出典。中国の楚の国で、祠の司祭者が召使に大杯に盛った酒を振る舞った。しかし、召使たちはみんなで飲むには酒が足りないので、地面に蛇の絵を描き、早く描き上げた者が酒を飲もうと提案し、さっそく蛇の絵を描き始めた。最初に蛇を描き終えた者が、酒を引き寄せながら、自分の早さを自慢するために、ついでに足まで描けるぞと描いているうちに、もう一人の者が蛇を描き終えて杯を奪い取った。「蛇に足はない。だから、酒を飲む権利は私にある。」そう言って、その酒を飲んでしまった。
「蛇を描きて足を添う」の由来は、中国の古代の話「戦国策・斉」から来ているよ。
その話では、楚の国の祠(ほこら)の司祭者が大きな杯に入った酒を召使に振る舞ったんだ。でも、その酒はみんなで分けるには量が足りなかったから、召使たちは地面に蛇の絵を描く競争をしようと提案したんだ。最初に蛇を描き上げた人が酒を飲むというルールだったんだよ。
ある人が最初に蛇を描き終えたんだけど、その人は自分の速さを見せつけるために、余計なことをして蛇に足まで描いてしまったんだ。その間に、もう一人の人が蛇を描き終えて、その杯を奪い取ったんだ。「蛇に足はない。だから、酒を飲む権利は私にある。」と言って、その人は酒を飲んでしまったんだよ。
だから、「蛇を描きて足を添う」という表現は、必要以上のことをして結果を悪くする、あるいは不必要なものを付け足すことを指しているんだよ。
洞が峠を決め込む(ほらがとうげをきめこむ)
【意味】
自分にとって都合が良い方につこうとして、どちらつかずな態度で様子をみることのたとえ。
【故事】
「豊臣秀吉」と「明智光秀」が争ったとき、「筒井順慶」が京都と大阪の境にある「洞が峠」で陣を張り、どちらか戦況が有利な方に味方しようとしたという故事から出た言葉。
昔々、豊臣秀吉と明智光秀っていうすごい強い人たちが争っていたんだ。その時に、筒井順慶という人が、京都と大阪の間にある場所、「洞が峠」でじっと待っていたんだよ。
筒井順慶は、豊臣秀吉と明智光秀のどっちが強いか分からなかったから、どちらが勝つか見て、勝つ方に味方しようと思ったんだ。
これが「洞が峠を決め込む」っていう言葉の由来なんだ。これは、自分が得する方につくために、どっちがいいかじっと見て待つっていう意味になっているんだよ。
「ま行」の故事成語一覧
枕を高くして寝る(まくらをたかくしてねる)
【意味】
すっかり安心して眠ること。
【故事】
中国の戦国時代に張儀が、魏王に秦と連合することを説いた話から。「高枕」ともいう。
昔々、中国の戦国時代っていう時代があったんだよ。その時、張儀さんという人が、魏王さんに、「秦と一緒になれば、もう戦争を心配しなくてもいいよ」と説いたんだ。
それを聞いた魏王さんは、もし秦と一緒になれば、もう戦争の心配をしなくていいから、枕を高くして安心して眠れるんだって思ったんだよ。
だから、「枕を高くして寝る」または「高枕」という言葉は、「すっかり安心して眠ること」を意味しているんだよ。
右に出る者はいない(みぎにでるものはいない)
【意味】
その人より優れている者がいない。
【故事】
漢の時代、高官が並ぶとき右の方から偉い人の席にしたため。
昔、中国の漢の時代には、重要な人たちが集まるとき、右の方から偉い人の席を決めていたんだ。だから、一番右の席は一番偉い人の席だったんだよ。
そのことから、「右に出る者はいない」っていう表現が生まれたんだ。「右に出る」つまり、「もっと偉い席に座る人はいない」という意味で、その人よりすごい人がいないっていう意味になったんだよ。
矛盾(むじゅん)
【意味】
つじつまが合わないこと。
【故事】
楚の人が、人を突く武器である矛(ほこ)と身を守るための盾(たて)を売っていた。そして、「この盾は頑丈で、どんな武器でも突き通すことができない。」と言い、また「この矛は鋭く、どんなものも突き通すことができる。」と言った。その時、ある人が「それでは、あなたの矛であなたの盾を突いたらいったいどうなるのか」と尋ねたところ、その人は何も応えることができなかった。
昔、楚という国に、矛(ほこ)と盾(たて)を売って歩く人がいたんだ。その人は自慢して、「私の矛はどんなに固い盾でも突き通すよ。でも、私の盾はとっても頑丈で、どんな矛でも防げるよ」と言っていたんだ。
だけど、ある人がその人に質問したんだ。「じゃあ、あなたの矛であなたの盾を突いたらどうなるの?」と。それにはその売り手は答えられなかったんだ。
これから、「矛盾」っていう言葉が生まれたんだ。「矛盾」は、自分の言ったことやしたことが一致しない、つまり、つじつまが合わないことを意味するようになったんだよ。
明鏡止水(めいきょうしすい)
【意味】
心が清く澄み切っていて邪念のない心境のたとえ。「明鏡」は曇りが一点もないきれいな鏡のこと。「止水」は止まっていて澄み切った水のこと。
【故事】
「荘子」徳充符より。「明鏡(めいきょう)」とはくもりのない鏡のこと。「止水(しすい)」とは波の立たない静かな水面のこと。どちらも、ありのままに姿や形を写し出すことができたことから、この語ができた。
「明鏡止水」のことばの由来、それは「明鏡」っていうのは曇りのない、とてもきれいな鏡のことを指していてね。一方、「止水」っていうのは波が全く立っていない、すごく静かな水面のことなんだよ。この二つはどちらも、物事をそのまま、ハッキリと映し出すことができるんだ。だから、そういう特性からこの「明鏡止水」という言葉が生まれたんだよ。
孟母三遷(もうぼさんせん)
【意味】
子どもは周りの影響を受けやすいので、子どもの教育には環境を整えることが大事であるということ。
【故事】
「列女伝」鄒孟軻母より。孟子の母親は、孟子への悪い影響を避けるため墓地の近くから市場の近くに引っ越し、さらに学校に近くに引っ越した。その結果、孟子は勉学に励み偉大な儒者になったという故事から。
「孟母三遷」の話の出どころは、「列女伝」に書かれている鄒孟軻(もうしこう)のお母さんの話なんだよ。「孟子」って名前でも知られている彼のお母さんは、彼に悪い影響が及ばないように、墓地の近くから市場の近くに家を引っ越したんだ。でも、そこでもまた良くない影響があると感じて、次に学校の近くに家を移したんだよ。その結果、孟子は一生懸命に勉強することができて、偉大な学者になったんだっていう話から来ているんだよ。
元の木阿弥(もとのもくあみ)
【意味】
苦労して一度はよくなったものが、またもとの好ましくない状態に戻ること。せっかくの苦労や努力が無駄になること。
【故事】
戦国時代、大和郡山(やまとこおりやま)の城主、筒井順昭(つついじゅんしょう)の病死を隠しすため、顔や声がよく似た木阿弥(もくあみ)という平民を替え玉とし、順昭の子が成人するまで、城主として人の目をあざむきました。その後、順昭の子が成人するとそれまで城主として生活していた木阿弥は、元の身分に戻されてしまったという故事から。
「元の木阿弥」の話は戦国時代の大和郡山の城主、筒井順昭のお話なんだよ。順昭が病で亡くなったとき、それを人々に知られないようにするため、顔や声が順昭に似ている木阿弥という普通の人を順昭のかわりに城主にしたんだ。でも、順昭の子が大人になると、それまで城主としていた木阿弥は、また普通の人に戻されてしまったんだ。だから「元の木阿弥」は、せっかく良くなった状態が、結局また最初のよくない状態に戻ってしまうこと、って意味になったんだよ。
「や行」の故事成語一覧
病膏肓にいる(やまいこうこうにいる)
【意味】
不治の病にかかること。転じて、ある物事に熱中してどうしようもなくなること。
【故事】
「膏」は心臓の下、「肓」は横隔膜の上部にあたり、ここに病気が入ると治療できないとされた。「春秋左氏伝・成公十年」にある故事に基づく。晋の景公が病気になり、秦から名医を呼んだところ、医者が着く前に景公は、病気の精が二人の童子となって、膏と肓の間に逃げ込む夢をみた。医者が到着し、景公を診察すると「膏と肓の間に病気があり、薬も針も届かないので治療のしようがありません」と言ったので、景公はその医者を厚くもてなした。まもなく景公は亡くなった。
「病膏肓にいる」という言葉の出どころは、昔の中国の晋の国の王、景公の話からきているんだよ。
景公が病気になったとき、夢に病気の精霊が現れたんだ。その精霊は二人の子供で、医者が来て自分たちを見つけないように、膏と肓の間、つまり体のとても深いところに隠れることにしたんだよ。
そして本当に医者が来た時、その病気は体の深いところ、膏と肓の間に入ってしまっていて、手が届かないほどだった。だから、それは治すことのできない重い病気だと医者は言ったんだ。
それで、「病膏肓にいる」は、とても深刻な問題や状況に陥っていて、解決が難しい状態を表すようになったんだよ。
有終の美を飾る(ゆうしゅうのびをかざる)
【意味】
「有終」は最後をまっとうする、しかっり締めくくるという意味。最後まで物事をやり遂げて、しかも立派に締めくくること。
【故事】
『詩経』の中にある滅びゆく周王朝について述べた部分が元となってできた故事成語。原文は『詩経』大雅・蕩と名付けられた詩です。この詩は全8章で、「有終の美を飾る」はこの第1章の最後に出てきます。ただこの言葉と同じ文字は出てきません。原文の最期にある「鮮克有終」が「有終の美」の元になった言葉です。この歌は西周が滅びようとするのを周の文王に託し、殷の紂王になぞらえて傷み歌ったものとされています。
「有終の美を飾る」の言葉の由来は、中国の古代の詩集『詩経』から来ているんだよ。『詩経』の中には「大雅・蕩」という部分があって、そこでは滅びつつある周の王朝のことが詠まれているんだ。
その詩は全部で8章からなっていて、「有終の美を飾る」という言葉は、その最初の章の最後に出てくる「鮮克有終」という句からきているんだ。でも、そのままの形で「有終の美を飾る」という言葉が詩の中に出てくるわけではないんだよ。
その詩では、滅びつつある周の国を救うために、文王という偉大な王を願っているんだ。そして、その文王を前の国、殷の王、紂王と比べて詠っているんだ。だから、「有終の美を飾る」は、最後までしっかりと物事をやり遂げ、美しく締めくくること、という意味になったんだよ。
羊頭狗肉(ようとうくにく)
【意味】
見せかけばかりがりっぱで、実質がともなわないことのたとえ。
【故事】
「羊頭を掲げて、狗肉を売る」の略。羊の頭を店の看板に掲げて、犬の肉を売るという意。【出典】無門関[第六]
「羊頭狗肉」の話の出どころは、昔の商人のずるいやり方から来ているんだよ。商人は店先に羊の頭をぶら下げて、人々をお店に引き寄せたんだ。でも、実際には売っていたのは羊の肉ではなく、もっと安い犬の肉だったんだよ。
だから、「羊頭狗肉」は、見た目だけ立派で、中身がその見た目に見合っていない、つまり外側と中身が一致していないことを表す言葉になったんだ。
「ら行」の故事成語一覧
李下に冠を正さず(りかにかんむりをたださず)
【意味】
人から疑われるような、まぎらわしい行動は避けよというたとえ。
【故事】
「李下」は、スモモの木の下のこと。スモモの木の下では、冠をかぶりなおそうと手を上げないほうがよい。なぜなら、人からスモモを盗んでいるのではないかと疑われないためである。【出典】古楽府[君子行]
「李下に冠を正さず」の由来は、昔の人々の話から来ているんだよ。
それによると、すもも(李)の木の下を歩いていて、自分の冠(かんむり)が傾いていたとして、その場で直そうとしたら、他の人にはそれがすももを木から盗もうとしているように見える可能性があるんだ。だから、そういう誤解を招くような行動は避けた方が良いという教えから、この言葉が生まれたんだよ。
つまり、「李下に冠を正さず」という言葉は、他人に誤解されるような行動は避けるべきだという意味を持つようになったんだよ。
遼東の豕(りょうとうのいのこ)
【意味】
世の中のことを知らずに、自分だけが得意になること。独りよがり。
【故事】
「後漢書(ごかんじょ)」朱浮(しゅふ)昔、遼東に住む男の家に、頭の毛が白い豚の子が生まれた。これは珍しいからと王に献上しようと思い、河東まで行ったところで豚の群れを見たら、そこの豚はみんな頭の毛が白かった。そこで男は恥ずかしくなって、こそこそ引き返してきたという故事に基づいている。
「遼東の豕」の由来は、昔の中国の話から来ているんだ。
遼東(りょうとう)という場所に住んでいた人が、頭が白い豚(豕)を見つけて、これは珍しいからと思って皇帝にプレゼントしようと都に持って行ったんだ。でも、都に着いたら、そこには頭が白い豚がたくさんいて、全然珍しくないことがわかったんだ。その人は恥をかいて遼東に帰ったという話から、「遼東の豕」という言葉が生まれたんだ。
この話から、「遼東の豕」は自分だけが正しいと思い込み、他人の意見や視点を全く考えない態度を指す言葉となったんだよ。
良薬は口に苦し(りょうやくはくちににがし)
【意味】
良い薬は、苦くて飲みにくい。人の忠言は聞きずらいものだが、ためになる。という事のたとえ。
【故事】
『史記(司馬遷による、中国の歴史書)』「留侯世家」より。都を占領してすっかり気の緩んだ劉邦(りゅうほう)に対して、軍師の張良(ちょうりょう)が、人の戒めを聞くよう忠告した時の言葉。
「良薬は口に苦し」の由来は、中国の古い歴史書『史記』に出てくる話からきているんだ。
その話によると、劉邦(りゅうほう)という人が都を占領して、ちょっと自分の力を見せつける気になってしまったんだ。それを見た軍師の張良(ちょうりょう)は、劉邦に対して、人の忠告を聞くことの大切さを教えようとした。その時に、良い薬は苦くても飲むべきだということを例えて「良薬は口に苦し」という表現を使ったんだ。
だから、「良薬は口に苦し」は、たとえそれが厳しい意見でも、自分のためになる忠告は受け入れるべきだという意味を持つようになったんだよ。
「わ行」の故事成語一覧
禍を転じて福となす(わざわいをてんじてふくとなす)
【意味】
・身にふりかかる災難(さいなん)を活用(かつよう)して、自分に役立(やくだ)つものとして利用するさま。
・不幸なことが一転して幸福に転じるさま。
【故事】
前漢時代の「戦国策」(せんごくさく)の「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し(かをてんじてふくとなし)、敗に因りて功を為す」と、「史記」蘇秦列伝(そうさいれつでん)の「臣聞く、古の善く事を制する者は、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」からきています。
「禍を転じて福と為す」の由来は、聖人(せいじん)の行動について述べられている考え方から来ているんだ。聖人とは、道徳的に非常に優れた人を指す言葉だよ。
聖人は自分に降りかかってきた困難や不運を、視点を変えて考えることによって、幸せにつながるきっかけにすることができるとされている。このような聖人の賢明な対処法から「禍を転じて福と為す」という表現が生まれたんだ。
つまり、この言葉は、何が起きても前向きに考えて、問題を解決する力を育てることの大切さを教えてくれるんだ。
和して同ぜず(わしてどうぜず)
【意味】
人と争わず仲良くするが、自分の意見はしっかり守っていてむやみに人に同調したりしないという意味。
【故事】
「論語」「子路」から。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」君子は人と協調するが、安易に同調したり雷同したりすることはない。主体的に人とつき合うべきであるという言葉。
「和して同ぜず」の由来は、孔子の教えから来ているんだ。孔子は、人々との関わり方について「和」(調和)と「同」(同調)という二つの概念を提唱したよ。
「和」は、主体性を保ちつつ他人と親しく交流し、互いに助け合うことを指している。つまり、他人との関係を大切にしつつ、自分自身の考えや意見もしっかり持つことだよ。
一方、「同」は、自分の考えがないままに他人の言動に無意識に同調することを指している。これは、ただ他人に従って行動するだけで、自己の主体性や意見がない状態を示しているんだ。
孔子は、君子(道徳的に優れた人)のふるまい方として、「お互いに助け合いながらも、無闇に同調して従ったりはしない」と述べている。これが「和して同ぜず」の語源となっているよ。つまり、他人と協調しながらも、自己の主体性を保つことの重要性を示しているんだ。
今では、全体の中でも最もすばらしい部分を指す言葉として使われているんだ。