ことわざとは人々の知恵を、だれもが知っているたとえで表したものです。
昔から多くの人によって伝えられてきたものですから、ことわざを使って表現すると人の共感を得やすくなります。
この記事では、多くのことわざの中から、まず最初に知ってほしい「ことわざ100選」をご紹介します。
「ことわざ100選」は、ことわざ研究者・北村孝一先生に、収録項目の選定とコラムを書いていただきました。
「有名なことわざ100選」の選定の基本方針は、次の3つです。
1.多くの人によく知られているもの
2.日常生活で使われるもの
3.ことわざのレトリックになじみ、センスを磨けるもの
当サイトのことわざ一覧は、ことわざ一覧(五十音順)をご覧ください。
目次
「あ行」の有名なことわざ
後の祭り(あとのまつり)
意味:なにかをしたり言ったりするのが遅すぎて、手遅れになった状態のこと。
雨降って地固まる(あめふってじかたまる)
意味:悪いことや困難な状況が起きたあとに、かえってものごとがよい方向に進み、結果的にものごとがしっかりと安定すること。
由来:雨が降ったことによって地盤が締まり、土地が固くなることから。
案ずるより産むが易し(あんずるよりうむがやすし)
意味:ものごとは、むやみに心配して悩むよりも、実際にやってみると案外かんたんにできるということ。
由来:あれこれと心配するけれども、お産はそれほど難しいものではないことから。
石の上にも三年(いしのうえにもさんねん)
意味:つらくてもがまんして努力を続ければ、やがて報われるということ。
由来:冷たい石の上にも、三年すわり続ければ暖まることから。
急がば回れ(いそがばまわれ)
意味:急いでいるときほど、危険な近道よりも安全で確実な道を選ぶほうがよい。なにごとも急ぐとリスクが増すので、落ち着いて着実な手段をとることが大切ということ。
一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)
意味:夢、特に初夢に見ると縁起がよいとされるものを並べたことば。
コラム:初夢と「一富士二鷹三茄子」
「一富士二鷹三茄子」は、毎年お正月になると「一年の計は元旦にあり」とともに、よく耳にする表現です。
初夢に見ると縁起がよいとされるものを順に並べていますが、ここでは、このことわざについて、その背後にあるものを含めて、研究者の視点から日頃考えていることを書いてみましょう。
私の幼い頃(1950年代)も、正月になると年上の人たちはいつも初夢を話題にし、このことわざも口にしていた記憶があります。
当時は、年齢を数え年(生まれたときに一歳とする)でいうのがふつうで、大晦日には「年取り」の食膳をかこみ、新年になると一つ年をとるとされていました。
新年を迎えるのはいまも変わりませんが、その意味は昔のほうが重いものがあったわけです。
多くの人が新たな年に期待をこめ、一年を占うものとして初夢にも大きな関心をよせていたといえるでしょう。
さらに江戸時代にさかのぼると、よい初夢を見ようと、七福神が乗った宝船などの刷り物を枕の下に入れて寝る習わしもありました。
「一富士二鷹三茄子」は、いつの頃から縁起のよい初夢とされるようになったのでしょうか。
17世後期には、初夢と「一富士二鷹」を結びつけた俳諧(俳句)があり、18世紀になると、実用的な字典で「一富士二鷹三茄子」の夢を最上とするものもありますから、17世紀末期から18世紀初期には、ひろく知られるようになったものと推定できます。
「富士」は日本一高い山で、その姿が優美で気高く感じられ、山岳信仰の霊山ともされてきました。
「鷹」は眼光するどい猛禽で、狩猟能力にたけ、古くから鷹狩りに用いられています。
ことわざの世界でも「能ある鷹は爪かくす」や「鷹は飢えても穂はつまず」のように、俊敏で力強く、誇り高いものとされています。
この二つは、瑞夢(縁起のよい夢)にふさわしいものと多くの人が納得できるでしょう。
では、三番目の「茄子」はどうでしょうか? 最初の二つと違って、なぜ縁起がよいのか、ぴんとこないかもしれません。
茄子は花が咲くと、ほとんど徒花(あだばな)がなく実がなるので、「親の意見と茄子の花は千に一つも徒はない」ということわざがあります。
子や孫にめぐまれ、繁栄につながるものとみてよい、と私は考えています。
「一富士二鷹三茄子」がなぜ縁起がよいのか、その理由について考えてみましたが、江戸時代の人びとはどう思っていたのでしょうか。
これをたしかめるために、当時の夢合わせ(夢うらない。見た夢の意味を教えてくれるもの)の本を少し見てみましょう。
「新版絵入ゆめあはせ」(安永4年〔1775〕)では、次のように説明されています(浅間神社社務所編『富士の研究』一による。わかりやすく書きかえました)。
身分制度のきびしかった江戸時代と今日では少し感覚がちがうところもありますが、大筋では私たちが感じていることに通じる内容ですね。
念のため、『夢合延寿袋大成』(安永6年〔1777〕序)など、夢合わせについてさらにくわしく書かれた本も参照してみましたが、基本的なとらえ方は変わりません。
夢に見たことをどう解釈するかは、人によって違う面もありますが、「一富士二鷹三茄子」の場合は、いずれも縁起のよい夢としてとらえられています。
そして、思いがけない幸運がおとずれ、えらくなったり、見る目のある人にかわいがられて望みがかない、子宝にもめぐまれ、家族が健康で子どもとともに繁栄するというイメージが、一般に受け入れられていたとみてよいでしょう。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
一寸の虫にも五分の魂(いっすんのむしにもごぶのたましい)
意味:どんなに小さく弱い存在であっても、自分なりの誇りや意地を持っているということ。
犬も歩けば棒に当たる(いぬもあるけばぼうにあたる)
意味:①積極的に行動する者は、ときに災難に遭う。(災難説)②いろいろやっているうちに、思いがけない幸運に出合うこともある。(幸運説)
由来:(意味①)犬もふらふら歩いていると、棒でぶたれることがある。(意味②)のちに、よいことにありつくという意味に変わる。
コラム:「犬も歩けば棒に当たる」の2つの意味
「犬も歩けば棒に当たる」は、“江戸いろはかるた”(「いろはがるた」とも発音します)の「い」の札としてよく知られています。
このかるたのことを「犬棒かるた」と呼ぶことは、みなさんもご存じですね。
このことわざは、いろはの「い」だから印象が強いだけでなく、二つの相反する意味があることも大きな特徴です。
たとえば、『広辞苑』では「犬」の項で次のように説明されています。
犬も歩けば棒に当る
物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。
(『広辞苑』7版)
失礼ながら、「物事を行う者」というのは、あまりぴんときませんね。
私なら「積極的に行動する者」とでもしたいところです(見方によっては、出しゃばって物事を行う者とみなされることもあります)。
そういう者は、とかく禍(わざわい)にあうということになります。
「やってみると」というのも、やや舌たらずで、ことわざの「犬も歩けば」という表現にそって比喩を考えると、「あちこち出歩いていると」あるいは「いろいろやっているうちに」ということでしょう。
こちらは、思いがけない幸運にあうことになります。
同じ「犬も歩けば棒に当たる」の意味が、一方では「禍」にあうことになり(災難説)、もう一方ではまったく逆に、幸運にあうことになる(幸運説)というのは、不思議ですね。
どうして、そんなことがおこるのでしょうか。
現代人がこのことわざの意味をよく知らずに、「犬も歩けば棒に当たる」という文を見ると(聞くと)、幸運にであうとは思えないでしょう。
かるたの絵を見ても、たいてい犬が棒を投げつけられた場面がえがかれていて、痛そうに片足をあげていますから、禍と思うのがふつうの感覚です。
しかし、このことわざは、江戸時代中期(18世紀初期)から用例がのこっていて、当時から幸運にあうという意味でも使われていたことがわかっています。
この受け取りかたのちがいは、どこから生じるのでしょうか。
ここで、いちばん注目したいのは「犬」です。
犬は江戸時代もいまも変わらないと思いがちですが、犬の比喩的な(つまり、たとえとしての)意味やイメージは、時代によって大きく変わっています。
徳川家康は、新参の(侍にとりたてられたばかりの)身分の低い者に「犬々三年人一代、人々(ひとひと)三年犬一代」という古いことわざをよく引いて、教えていたといいます(本居宣長『玉勝間』)。
最初の三年は、人に犬といわれても堅実(けんじつ)に倹約(けんやく)して暮らし、仕事にはげみ借金をしなければ、その後は人として恥ずかしくない生活が一生できる。
しかし、酒や宴会をこのんで人にふるまい、派手な生活をしていると、欲のない気前のよい人ともてはやされるが、三年もすると金もなく馬ももてず、人に借りたものも返せず、武士の務めがはたせなくなって、世間からばかにされ、一生笑い者になってしまう、ということです。
この家康のエピソードから、当時の「犬」は、まずしく身分の低い人々やその生活ぶりのたとえとして使われていたことがわかります。
「犬」は、生命力が強く、安産とされ、活動的で、主人や家を守るなど、プラスのイメージもありますが、身分制度がきびしい時代には、身分の低い者をさしていたことは間違いありません。
これは、「犬も歩けば…」ということわざの二つの意味(二重の意味)を解き明かすうえで、重要なカギになると私は考えています。
少しむずかしい話になりましたが、大まかにいうと、「犬も」といったときに、「犬」を見下して、自分は「犬」ではないと思っている人は、災難説にかたむきます。
むやみに動いて、よけいなことをするから、禍にあうと考えるのです。
もちろん、人間は犬ではありませんが、ある意味で、自分は「犬」だ、身分の低い者、貧しい者だと思っている人(特権のない庶民といってよいでしょう)は、どちらかというと幸運説に共感します。
しがない庶民だって、ツキがまわってくることもある、と暗にいいたいのです。
「犬も歩けば棒に当たる」の二つの意味については、多くのことわざ辞典や本がふれていますが、いま述べた身分の視点をわすれている(避けている?)ために、なぜ二つの意味・用法が並行して使われるのか、解明されていないのではないでしょうか。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
命あっての物種(いのちあってのものだね)
意味:何事も命があってこそ初めてできる。だから、命にかかわる危険なことは避けよという戒め。
井の中の蛙(いのなかのかわず)
意味:自分の周りの、ごく限られた範囲のことしか考えない、見聞の狭いこと。世間知らず。
由来:井戸の中に住む蛙は、その井戸のほかに大きい海があることを知らないでいることから。
魚心あれば水心(うおごころあればみずごころ)
意味:一方が好意を持てば、相手も自然と好意を持つことのたとえ。
由来:魚が水の中にすみたいと願えば、水もそれにこたえて、すみよい水になろうとすることから。
馬の耳に念仏(うまのみみにねんぶつ)
意味:いくらよいことを言っても、相手がまるで理解できなかったり、まともに耳をかたむける気がない場合、なんの効果もないことのたとえ。
由来:馬が念仏などを聞いても、少しもありがたく感じないことから。
噂をすれば影がさす(うわさをすればかげがさす)
意味:人の噂をすると、その人がちょうどやって来るものである。
海老で鯛を釣る(えびでたいをつる)
意味:わずかな労力や元手で、大きな利益や収穫を得ることのたとえ。小海老の餌で鯛を釣り上げることから。
由来:海老を餌に釣りをして、より高価な鯛を釣ることから。この海老は、小さくて安いものを表す。
縁の下の力持ち(えんのしたのちからもち)
意味:目立たないところで他人を支えたり、陰で重要な役割を果たしている人やものを指す。
由来:大阪四天王寺の経供養で催された舞楽が由来とされる。経供養とは、日本にお経が伝来したことを記念して行われた舞楽法要のことであり、当時の舞楽は舞台上ではなく、非公開で演じられていた。
負うた子に教えられて浅瀬を渡る(おうたこにおしえられてあさせをわたる)
意味:自分より劣った者や年下の者から物事を教わることのたとえ。
鬼に金棒(おににかなぼう)
意味:強い上に、さらに強さを加えることのたとえ。ただでさえ強い鬼に、鉄の棒を持たせる意から。
帯に短し襷に長し(おびにみじかしたすきにながし)
意味:中途半端で、役に立たないことのたとえ。物の使い道や人間の能力を評価する場合などに用いる。
溺れる者は藁をも掴む(おぼれるものはわらをもつかむ)
意味:困難に直面している者は、どんな物にでもすがりついて救いを求めようとすることのたとえ。溺れて死にかけている者は、藁のように頼りにならないものでも、掴んで助かろうとする意から。
思い立ったが吉日(おもいたったがきちじつ)
意味:何かをしようと思い立ったら、すぐに取りかかるのがよいという教え。思い立ったその日を吉日と考えよという意から。
親の心子知らず(おやのこころこしらず)
意味:子を思う親の気持ちがわからずに、子は勝手なことをするものだということ。また、親にならなければ、親の気持ちは推しはかれるものではないということ。
「か行」の有名なことわざ
蛙の子は蛙(かえるのこはかえる)
意味:子供の才能や性質は親に似るものだということのたとえ。特に、凡人の子はやはり凡人である意に使う。おたまじゃくしが、成長すれば親と同じ蛙になることから。
壁に耳あり(かべにみみあり)
意味:隠し事はとかく漏れやすいから、注意せよという戒め。こっそり話しているつもりでも、だれかが壁に耳をつけて聞いているかもしれないし、だれかが障子に穴をあけてのぞいているかもしれないという意から。
亀の甲より年の功(かめのこうよりとしのこう)
意味:年長者の人生経験や知恵は尊重しなければならないというたとえ。
かわいい子には旅をさせよ(かわいいこにはたびをさせよ)
意味:可愛い子供には苦しいことを体験させたほうがよいということ。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥(きくはいっときのはじきかぬはいっしょうのはじ)
意味:知らないことは積極的に質問したほうがよいという教え。知らないことを聞くのは、そのときは恥ずかしいが、聞かずに知らないままでいれば、一生恥ずかしい思いをして過ごすことになるということ。
腐っても鯛(くさってもたい)
意味:価値があるものは、どんな状態になっても本来の価値を失わないというたとえ。腐ったとしても鯛は魚の王者に変わりはない意から。
苦しいときの神頼み(くるしいときのかみだのみ)
意味:自分が困ったときにだけ、他人に頼ろうとすること。ふだんは神や仏をおがんだことのない者が、苦しいときにだけ、神仏に祈って助けを求めることから。
怪我の功名(けがのこうみょう)
意味:失敗・過失が意図しなかったよい結果をもたらすことのたとえ。あやまちが思いがけなく生んだ手柄という意から。
後悔先に立たず(こうかいさきにたたず)
意味:すんでしまったことをあとでいくら悔やんでも、取り返しがつかないということ。
弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)
意味:名人や達人と呼ばれる人にも、失敗はあることのたとえ。弘法大師のような書の名人でも、書き損じをすることがあるという意から。
転ばぬ先の杖(ころばぬさきのつえ)
意味:失敗しないように、あらかじめ十分な準備をしておくことのたとえ。
「さ行」の有名なことわざ
猿も木から落ちる(さるもきからおちる)
意味:その道に秀でて名人や達人と言われる人でも失敗することがあるというたとえ。木登りが上手な猿でも、木から落ちることもあるという意から。
三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)
意味:凡人でも三人で集まって相談をすれば、文殊菩薩のようなよい知恵が出るものだということ。
地震雷火事親父(じしんかみなりかじおやじ)
意味:世の中で、とくに怖いと思われるものを順に並べたことば。
コラム:「地震雷火事親父」のレトリック
“地震雷火事親父”--ほとんどの人が知っている表現で、こわいもの、恐ろしくて抗(あらが)えないものを並べたてています。
「地震」の恐ろしさは、今年(2024年)の元日におきた能登半島地震でもあらためて思い知らされました。
大地震がおきると、建物が倒壊して死傷者が出たり財産が失われるばかりでなく、鉄道や道路も寸断され、水道や電気・ガスにも被害がおよんで、日常生活ができなくなってしまいます。
しかも、地震の後に津波が押し寄せたり、火事がおきると消火できなくなったりして、さらに被害が大きくなることもあります。
日本は国土が狭いのに、世界の大地震(マグニチュード6以上) の20%以上が日本でおきていて、昔から繰り返し大きな地震におそわれてきましたから、こわいものの筆頭に地震をあげるのは当然でしょう。
二番目は「雷」--これも、直撃されると命にかかわります。
昔は、夕立の季節に稲光がして、ゴロゴロと雷が鳴ると、雷さまにへそをとられると言って、子どもを家のなかに入れ、へそを押さえさせたりしました。
雷の正体が電気とわかり、避雷針やアースによって落雷による事故は少なくなりましたが、屋外では油断できません。
登山やグラウンドでの部活では、雷について正しい知識と警戒が必要です。
三番目の「火事」は、地震や雷が天災(自然による災害)であるのに対し、人災(人によっておきる災害)の要素が大きくなります。
落雷や火山の噴火によるものもありますが、大半は人間の不注意からおきるといってよいでしょう。
火は料理や暖房などに使われ、とても便利なものですが、火事になると、「盗人(ぬすびと)の取り残しはあれど、火の取り残しはない」というように、財産すべてを焼きつくし、自分の家だけでなく隣近所まで灰にしかねない恐ろしいものとなります。
最後の「親父(おやじ)」は、前の三つの災害とはちがって、意外性があります。
自分の父親、あるいは仕事場の親方や名主など年令や地位が上の人をさして言うこともありました。
こわいのもたしかですが、親しみもあって、ちょっと皮肉を込めた軽いユーモアでオチをつけたともいえます。
このことわざは、「地震雷火事親父」とただ怖いものを並べただけのようですが、声に出して読んでみると、とても口調がよく、自然に印象に残る表現です。
なぜ、そうなるのか、レトリック(表現技法)について少し考えてみましょう。
「じしん」は3音、「かみなり」は4音で、合わせて7音。
「かじ」は2音、「おやじ」は3音で、合わせて5音。
これは七五調といって、古くから詩や歌によく使われた形式で、日本人の耳に心地よく響くものです。
しかも、このことわざは、「雷」と「火事」の語頭(単語のはじめの部分)の音(頭韻)がともに「か」で、同じです。
「火事」と「親父」の最後の音(脚韻)もともに「じ」で、共通しています。
つまり、「地震雷火事親父」という短い文句のなかで、音声の面で二カ所韻を踏み、内容もちょっとした意外性があるので、一度聞いただけでも耳に残るのではないでしょうか。
このことわざは、古くは『尾張童遊集』(1831年)の「幼児口遊(くちずさみ)」に収録されていて、江戸後期には名古屋近辺の子どもたちがよく口ずさんでいたようです。
いまでは、全国どこでもよく知られていて、幼い子どもたちに世の中には怖いものがあることをさりげなく教える役割をはたしているといってよいでしょう。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
親しき仲にも礼儀あり(したしきなかにもれいぎあり)
意味:どんなに親しい間柄でも、礼儀は守らなければならないということ。親しみが過ぎて礼を失すると、不和となりやすいということ。
釈迦に説法(しゃかにせっぽう)
意味:釈迦に仏法を説くように、その道のことを熟知している人に、それを教えることの愚かさのたとえ。
朱に交われば赤くなる(しゅにまじわればあかくなる)
意味:人は、交際する仲間や環境によって、よくも悪くもなるというたとえ。
知らぬが仏(しらぬがほとけ)
意味:真実を知れば、心配したり、悲しんだり、腹を立てたりして穏やかではいられないが、知らずにいれば仏のような平静な心でいられるということ。また、当人だけが知らないで平気でいることをあざけったり冷やかしたりするときにもいう。
好きこそ物の上手なれ(すきこそもののじょうずなれ)
意味:好きなことは熱心に努力するので、上達も早いということ。
コラム:「好きこそ物の上手なれ」 の眼差し
今回取り上げる「好きこそ物の上手なれ」は、皆さんも耳にしたことがあるでしょう。
趣味でも仕事でも、好きなことが大切で、好きであってこそ上手になる。
いまは下手(へた)でも、ほんとうに好きなら大いに上達する望みがある、ということです。
初心者やなかなか上達しない人にとっては、とても温かく励みになることわざですね。
しかし、ただ温かいばかりでなく、見方によっては、なかなか厳しいことばともいえます。
器用なだけではダメで、稽古熱心だけでも大成はしないとも受け取れるのです。
なんとなくわかるけど、ちょっと古くさく、あまりよくわからないという人もいるでしょう。
わからないのも無理はありません。
「~こそ~なれ」という、いまではふつう使われない“係り結び”が出てくるからです。
ここでは、係り結びの文法的説明には深入りしませんが、「~こそ」と強調したとき、これを受ける「~なり」の語尾が已然形(いぜんけい)の「なれ」になることを頭の隅に入れておいてください。
「好きこそ物の上手」という言い方もしますが、現代でも「好きこそ物の上手なれ」と言う人のほうが多く、それだけ印象深い形ともいえるでしょう。
ことわざでも滅多に使わない係り結びですが、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」にも顔を出しています。
後者の場合も、「こそ」があるので「あり」が「あれ」になっていますね。
話を本題にもどすと、「好きこそ物の上手なれ」は、「好き〔な人〕は物の上手なり」を強調したもの、と受け取ってよいことになります。
この「物の」は、「物のはずみ」のように、漠然として、さほど意味のないことばです。
「上手」は、かつては「名人上手」と続けて言うことも多く、現在の上手のニュアンスと微妙に異なり、名人に次ぐ優れた技量の人を敬意を込めて呼ぶことも少なくありませんでした。
でも、好きな人こそ(本当に)上手な人だというのは、どういうことでしょうか?
たとえば、楽器をひくのは大好きだけれど、まだ習いはじめたばかりで自分でも下手だと思っている人もたくさんいることでしょう。
この表現には、ことわざ特有の誇張があり、また文字どおりに受け取ると、論理的にはいくぶん飛躍があることも否定できません。
いったい、どういうことなのか、このことわざがひろく使われるようになった江戸時代にさかのぼって考えてみましょう。
このことわざ(異形を含む)の初出は、俳人宝井其角(たからいきかく、1661~1707)の十七回忌に編まれた『其角十七回』(1746)で、次のように書かれています。
「器用さとけいことすきと三つのうちすきこそものの上手なりけれ」と口ずさみせられけるが、将棋の宗匠(そうしょう)宗桂もこの狂歌を折りふしず(誦)しられけるとぞ
(其角は「器用さと稽古と好きと三つのうち好きこそものの上手なりけれ」と口ずさんでいらしたが、将棋の宗匠大橋宗桂も折にふれ同じ狂歌を口にされていたという)
大橋宗桂の名は江戸幕府が公認した将棋所の初代名人が始まりで、其角の時代には五代目が活躍していました。
「狂歌」は、滑稽味やユーモアのある和歌のことですが、ここでは、花鳥風月ではなく人間や社会を題材とする和歌をさしています。
この狂歌のいわんとするところは、芸道の名手となる上で、「器用さ」(生まれもった素質)と「稽古」と「好き」を比べてみると、いずれも大切に違いありませんが、最後の「好き」なことこそ最も肝心な要件だ、ということです。
この狂歌をガイドにして、ことわざを見直すと、ことわざの隠れた文脈が浮かんでくるように思われ、とてもわかりやすくなります。
この狂歌が、其角の時代に俳句だけでなく、ジャンルの異なる将棋の世界でも名人の共感を呼んでいたわけですが、浄瑠璃や歌舞伎にも類似の表現が見出せます。
《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)》(1746)に、「上根と稽古と好きと三つの中(うち)好きこそ物の上手とは芸能修行教えの金言」とあり、「上根」は生まれつきの能力のことなので、手習い(書道)についても同じようなことが言われていたようです。
ことわざは、狂歌の内容を極限まで削って短縮する一方で、結論を誇張した表現とみてよく、だからこそ、いっそう印象深い表現となっているといってよいでしょう。
そして、その背後には、宝井其角や大橋宗桂などの芸道の第一人者による深い洞察力と、後進の者への厳しくも温かい眼差しが感じられるのではないでしょうか。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
過ぎたるは及ばざるが如し(すぎたるはおよばざるがごとし)
意味:物事には程度というものがあり、度が過ぎることは足りないことと同じようによくないということ。
雀百まで踊り忘れず(すずめひゃくまでおどりわすれず)
意味:幼い頃に身につけた習慣は、年をとっても変わらないというたとえ。雀は踊るようにはねる習性を死ぬまで持ち続けることから。
背に腹はかえられぬ(せにはらはかえられぬ)
意味:大事のためには、小事を犠牲にするのもやむを得ないというたとえ。背中を大事な内臓の入っている腹の代わりにはできない意から。
船頭多くして船山へ上る(せんどうおおくしてふねやまにのぼる)
意味:指図する者が多くて統一がとれず、物事がうまく運ばないことのたとえ。一艘(そう)の船に船頭が何人もいると、船が山に登って行くようなことになる意から。
善は急げ(ぜんはいそげ)
意味:よいと思ったことは、ためらわずすぐに実行に移せという教え。
千里の道も一歩から(せんりのみちもいっぽから)
意味:どんな大きな事業も、手近なところから始まり、着実に努力を重ねていけば必ず成功するという教え。
損して得取れ(そんしてとくとれ)
意味:一時的には損をしても、それが将来大きな利益になって返ってくるようにせよということ。
「た行」の有名なことわざ
立つ鳥跡を濁さず(たつとりあとをにごさず)
意味:立ち去る者は、あとを見苦しくないようきれいにしておくべきであるという戒め。また、引き際が潔くきれいであることのたとえ。水鳥が飛び立ったあとの水辺は、濁ることなく澄んでいるという意から。
棚から牡丹餅(たなからぼたもち)
意味:思いがけない幸運が転がり込んでくること。労せずに幸運を得ることのたとえ。棚の下で寝ていたら、牡丹餅が落ちてきて開いた口にはいるという意から。
旅は道連れ世は情け(たびはみちづれよはなさけ)
意味:旅行するときは道連れのあるほうが楽しく頼もしい。同様に、世の中を渡るのもお互いに思いやりをもって仲良くすることが大切であるという教え。
塵も積もれば山となる(ちりもつもればやまとなる)
意味:わずかな物でも、積もり積もれば山のように大変な量になるということ。小事だからといっておろそかにしてはいけないという戒め。また、小さな努力も継続すれば大きな成果を得られるということ。
月とすっぽん(つきとすっぽん)
意味:形は似ているが、実質は比較にならないほどかけ離れていることのたとえ。多くの場合、優劣の差についていう。月とすっぽんは、どちらも丸いという点では共通しているが、まったく違ったものであることから。
鉄は熱いうちに打て(てつはあついうちにうて)
意味:鉄は真っ赤に焼けている柔らかいうち、人間も純粋な精神を失わない若いうちに十分に鍛えることが大切であるということ。また、何事にも時機を逃してはならないという教え。
コラム:「鉄は熱いうちに打て」の常識を見直す
「鉄は熱いうちに打て」は、よく知られたことわざで、自分で使ったことがある人も多いでしょう。
少し古いデータですが、NHK 放送文化研究所の「言語環境調査」(1993)によると、その認知度(知っている人の割合)は92.5パーセントときわめて高く、使用度(使ったことがある人の割合)も17.2パーセントと高めでした。
これほど多くの人びとに親しまれた背景には、かつてほとんどの町や村に鍛冶屋(かじや)があり、真っ赤になった鉄を鎚(つち)で打つ光景が間近に見られたことがあげられます。
「村の鍛冶屋」という文部省唱歌もよく知られていました。
もう一つ、大正時代から昭和前期の小学校4年生の国語教科書で、このことわざの異形(いけい、内容は同じだが、少し違う形)が出てくる「乃木将軍の幼年時代」を教えていたことも影響しています(当時は国定〔こくてい〕教科書で、国がさだめた教科書が全国で使われてました)。
いまでは、このことわざが西洋から入ってきたことも知られていて、ことわざ辞典では、英語から入ったことわざ、あるいはイギリスのことわざなどと説明されています。
ことわざの主な意味は、教育や訓練は柔軟性のある若いうちにやらなくてはならないということで、子どもや若者の教育について使われることが多いといえるでしょう。
私自身、小中学生のころに、先生たちに言われることが多かった印象があります。
こうした理解は、いまでは一種の常識となっていますが、常識といっても、“日本の常識”と限定しなくてはなりません。
研究者としては、常識とされるものや思い込みにとらわれずに、ファクト(根拠)をたしかめ、真実を見きわめていくことがたいせつです。
“鉄は熱いうちに打て”についても常識を疑い、見直すことからはじめてみましょう。
まず、このことわざが英語から入ったというのは本当でしょうか? 英語からも入っているのはたしかですが、単純に英語のことわざが元になっていると断定するのは、早計(早とちり)ではないか、と私は考えています。
というのも、このことわざは古代ローマ時代に用例のある古いもので、ほぼ同じ意味の表現が英語のほか、フランス語やドイツ語、ロシア語など、ヨーロッパの多くの言語でひろく使われてきたからです。
ヨーロッパに共通するものと考えると、英語以外の他の言語から入ってきた可能性も十分にあるでしょう。
日本人が西洋の言語を学んだ歴史をふりかえると、英語やフランス語を本格的に学びはじめるのは19世紀に入ってからです。
それ以前はオランダ語が熱心に学ばれ、18世紀中期にはオランダ語の書物を通じて西洋文化を学ぶ蘭学(らんがく)がさかんになっていました。
オランダ語から先に入ってきた可能性があると私は考え、江戸で出版されたオランダ語の辞典『和蘭字彙』(オランダじい、1855-58)を調べてみると、「鉄は熱き内に鍛(きた)うべし」などと訳されたオランダ語のことわざが3カ所確認でき、異形をふくむ“鉄は熱いうちに打て”の最も古い日本語訳であることが判明しました(くわしくは『ことわざの謎--歴史に埋もれたルーツ』〔光文社〕に書きました)。
“鉄は熱いうちに打て”は、最初はオランダ語から日本語に入り、その後英語やフランス語、ドイツ語などからも入ってきて、日本に根づいた表現だったのです。
次に、ことわざの意味や用法(使い方)はどうでしょうか。
英語やフランス語などの“鉄は熱いうちに打て”を検討すると、意味は好機をのがすなということで、日本語のように特に若者の教育などに限定するような用法は認められません。
じつは、日本語に入ってきたときは、やはり原文と同じように好機をのがすなという意味で使われるのが基本で、いまも同じように使われた例が少なからずあります。
なのに、なぜ、子どもや若者に特化した、柔軟な若いうちに鍛えなくてはならないという意味が主流となり、なかば常識となってしまったのでしょうか。
やはり、国定教科書の「乃木将軍の幼年時代」の影響が大きかったのではないか、と私は考えています。
この話は、泣き虫で体の弱かった幼い乃木を両親がどのようにきびしく育てたか、具体的なエピソード--食べ物の好き嫌いをいうと、嫌いなものを何度でも食卓に出し、寒いと弱音をはくと、井戸端に連れていって冷水を浴びせた--をまじえて語っています。
そしてその教育の結果、数え年十歳のときには、江戸から大阪まで両親とともに駕籠(かご)に乗らずに歩いて行くほど丈夫な子どもになったとし、最後に「実(げ)に鉄は熱いうちにきたえねばならぬ」と、ことわざを効果的に引いていました。
昔の国語教育は、繰り返し音読させ、暗唱するほど読ませるものでした。
このような文脈で、全国の小学校で15年もの長い年月教えられていたのですから、当時の児童や先生たちは、ことわざをこうしたエピソードとともにしっかりと頭にきざみこむことになったものと思われます。
その影響は、国定教科書がなくなった第二次世界大戦後にも残っていて、今日のことわざ辞典にもおよんでいるといえるでしょう。
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
灯台下暗し(とうだいもとくらし)
意味:手近なことはかえってわからず、気がつかないものであるということ。燭台(しょくだい)は周囲を明るく照らすが、その真下は影となって暗いことから。
遠くの親類より近くの他人(とおくのしんるいよりちかくのたにん)
意味:離れた所に住んでいて付き合いのない親戚よりも、近くに住んでいて日常付き合っている他人のほうが頼りになるということ。
時は金なり(ときはかねなり)
意味:時間はかけがえのないものだから、無駄に過ごすなということ。時間は金銭と同様の価値があるという意。
取らぬ狸の皮算用(とらぬたぬきのかわざんよう)
意味:不確実な事柄に期待をかけ、それを当てにしていろいろと計画を立てることのたとえ。まだ狸を捕まえないうちから皮を売ってもうける計算をするという意から。
飛んで火に入る夏の虫(とんでひにいるなつのむし)
意味:進んで危険に身を投じ、災難を招くたとえ。灯火に集まって来る虫が焼け死ぬことから。
「な行」の有名なことわざ
ない袖は振れない(ないそではふれない)
意味:実際にないものはどうしようもないということ。袖のない着物では、振りたくても振れないという意から。金銭的な援助をしたいができないといった場合に使う。
泣きっ面に蜂(なきっつらにはち)
意味:不幸や不運の上にさらに不幸なことが重なって起こることのたとえ。泣いてむくんでいる顔をさらに蜂が刺すということから。
なくて七癖(なくてななくせ)
意味:人はだれでも癖を持っているもので、癖がなさそうに見える人でも七つくらいは癖があるということ。
情けは人の為ならず(なさけはひとのためならず)
意味:善行は結局自分にも返ってくるものだから、人には親切にせよという教え。人に情けをかけると、その人のためになるだけでなく、いつかめぐりめぐって自分にもよい報いが返ってくるものだということ。
七転び八起き(ななころびやおき)
意味:何回失敗してもあきらめずにがんばることのたとえ。また、人生の浮き沈みが激しいことのたとえ。七回転んでも八回起きるということから。
七度たずねて人を疑え(ななたびたずねてひとをうたがえ)
意味:物がなくなったときは、自分で何度もよく探してみるべきで、探しもしないで軽率に人を疑ってはならないという戒め。
習うより慣れよ(ならうよりなれよ)
意味:人から学ぶよりも、実際に経験を積むほうが、しっかりと身に付くということ。
二度あることは三度ある(にどあることはさんどある)
意味:物事は繰り返し起こる傾向があるから注意せよという戒め。同じようなことが二度も起こるときは、さらにもう一度繰り返される可能性があるということ。
コラム:「二度あることは三度ある」と庶民の生活感覚
ことわざでは「二度あることは三度ある」といいますが、本当でしょうか。
文字どおりには、(同じようなことが)二度あったら三度あるということですが、実際には、そうならないこともあるのは皆さんもご存じでしょう。
それなのに、なぜ、昔から「二度あることは三度ある」といい、いまも多くの人がこのことわざを口にしたり思い浮かべたりするのでしょうか。
その原因の一つは、ことわざの好む表現法(レトリック)です。
ことわざは、基本的に断定形で終わります。
「二度あることは三度ある」と言いきって、印象を強めているのです。
実際は三度はない場合があっても、「二度あることは三度あることもあるし、ないこともある」とか、「二度あることは三度あるかもしれない」といったのでは、ことわざらしく感じられませんね。
もう一つ、ことわざが簡潔な表現で、くわしい説明をしないことも挙げてよいでしょう。
ことわざは、使われる場面や状況と密接に結びついているのですが、どんなケースに使われるのか、ことわざ自体は何も語らないことが多いのです。
このことわざの場合、用例をみると、おおむね好ましくないことや不吉なことが二度つづいて、三度目が起こる予兆(きざし)として警戒する場合が多いといえるでしょう。(勝負事などで、二つ勝って次もまた勝てる〔勝った〕というときにも使えますが、ことわざの用法としてはかなり軽く、副次的なものです。)
谷崎潤一郎の名作『細雪』には、次のような用例がありました。
大阪船場の蒔岡家の次女幸子の回想で、妹(三女)雪子の見合いのために妹たちと上京した折に、過去に東京に来るとなぜか心配事が生じたことが二度あったのを思い出し、縁談の行く末に一抹の不安をいだいたことを述べています。
この予感ははからずも的中し、雪子の縁談は破談になります。
「東京」と「ロクでもないこと」を結びつけるのは論理的でなく、直感によるものです。
しかし、嫌なことが二度続いたときに、その二つに共通する背景として「東京」に思いあたり、妹の将来を案じるのは姉として当然の心理でしょう。
一般に、二度あったから三度目がかならず起こるわけではないにしても、重大な結果になりかねない場合は、三度目がありうると思って身構えるのは人としてごく自然な反応です。
「三度ある」というのは、三度あると思って恐れ、そのリスクに備える必要を強調したものと受け取ってよいと思います。
ところで、現代では「二度あることは(かならず)三度ある」と信じるのは、俗信あるいは迷信ということになりますが、笑ってすまされない場合もあります。
たとえば、同じ年に同じ家で二人が亡くなったようなケースです。
少し重い話になりましたが、そんなとき昔の人は、ことわざを引いて三度目の災厄を避けるために、二人目の死者を葬るときににその隣に藁人形や木槌などを三人目の死者の代わりに埋葬しました。
二人の故人をとむらい、これ以上の禍を避けるために区切りをつけ、精神的なバランスを取り戻すことにつながっていたものでしょう。
この風習は多くの地方で確認されていて、一部では近代までのこっていました。
他方で、醤油などを二度こぼしたときに、三度目の大きな被害をまぬがれるために、わざともう一度ほんの少しこぼすようなことも行われていました。
今日では理解しがたい、ちょっとユーモラスな光景ですが、ことわざが庶民の日常生活にそれだけしっかり根づいていたことがうかがわれます。
このことわざは、文献の上では18世紀後期が初出とされていますが、こうした習俗を視野に入れると、さらに数世代前、あるいはもっと古い時代から庶民の間で使われていたと推定され、かつては庶民の生活感覚の一端を占めていたといっても過言ではない、と私は考えています。(2025/2/5)
©2025 Yoshikatsu KITAMURA
二兎を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)
意味:欲を出して同時に二つのことをやろうとしても、どちらも成功しないこと。二羽の兎を同時につかまえようとする者は、結局一羽もつかまえられないという意から。
濡れ手で粟(ぬれてであわ)
意味:何の苦労もしないで多くの利益を得ること。濡れた手で粟をつかむと、つかんだ量以上に粟粒がくっついてくることから。
猫に小判(ねこにこばん)
意味:貴重なものを持っていても、価値を知らないと何の役にも立たないことのたとえ。
寝耳に水(ねみみにみず)
意味:不意の知らせやできごとに驚くこと。
能ある鷹は爪を隠す(のうあるたかはつめをかくす)
意味:実力や才能のある者は、みだりにそれをひけらかすようなことはしないということ。
喉もと過ぎれば熱さを忘れる(のどもとすぎればあつさをわすれる)
意味:苦しいことも過ぎてしまえば簡単に忘れてしまうこと。また、苦しいときに受けた恩を、楽になったときに簡単に忘れること。
暖簾に腕押し(のれんにうでおし)
意味:相手の反応がまったくなくて、張り合いがないこと。のれんを押しても、なんの手応えもないことから。
「は行」の有名なことわざ
花より団子(はなよりだんご)
意味:風流よりも実益、外観よりも内容を大切にすること。また、風流を解さないことのたとえにも用いる。見て美しい桜の花よりも、腹の足しになるおいしい団子のほうがよいという意から。
コラム:「花より団子」に込められた思い
毎年春になると、桜がいつ咲くか話題となり、天気予報では「桜前線」ということばも使われます。
南北に長い日本列島では地域によって桜の開花が1カ月以上ずれ、期日は異なりますが、各地で花見が盛んに行なわれます。
花見は、学校や職場、ご近所などの気の合う人たちと桜が見頃の場所をおとずれ、いっしょに食べたり、飲んだり、歌ったりして楽しむもので、春の国民的行事といってよいでしょう。
そんなときによく耳にし口にするのが「花より団子」です。
いろはかるたの文句にもあり、子どもでも知っているものですが、あらためて見直すと、日本のことわざの特徴がよくあらわれていて、じっくり味わってみたい表現です。
まず、表現がごく短いこと--「ハナヨリダンゴ」と、わずか7音です。
ことわざは短いのが特徴のひとつですが、ことわざのなかでも「糠に釘」の5音や「猫に小判」、「寝耳に水」の6音などに次いで、かなり短いものです。
しかも、短いけれど、聞いたときに具体的で鮮明なイメージ(映像)が浮かんできますね。「花」はお花見の花、つまり桜の花です。
私たちは梅や菊など、季節の旬(しゅん)の花を見に行くこともありますが、ふつうは「花見」といわず、「梅見」や「菊見」などといいます。
「団子」は、やはり花見の団子で、串(くし)にさした団子を思い浮かべるでしょう。
「花」と「団子」のイメージは、具体的なものの映像だけでなく、シンボル(象徴)としても重要な役割をはたし、比喩(たとえ)としての意味を大きくひろげてくれます。
桜の「花」は、比喩として美しいものや趣(おもむき)のある風流(ふうりゅう)なもの、「団子」は食べて満足できるものをそれぞれ意味します。
そして、さらにこの二つの対照的なものは、比喩の意味をひろげ、見た目や品位に対する実質や実利、ということにもなるのです。
ことわざは、文を最後まではっきり示していません(これも日本のことわざによくみられる特徴のひとつです)が、わかりやすくいうと、「花」より「団子」〔がよい〕ということです。
美や風流よりお腹を満たすものがよい、見かけや品位より実質・実利がよいということにもなります。
ただし、このことわざにこめられた思いはかなり複雑で、こうした意味を全面的によしとして使うとはかぎりません。
使いようによってニュアンス(意味あい)が大きく変わり、むしろ逆に好ましくないものとして使うことがあるので、注意が必要です。
たとえば、他人を「あいつは花より団子だ」と言った場合、風流のわからない不粋(ぶすい)な者という皮肉をこめることも少なくないのです。
このことわざが使われはじめたころの古い用例をみてみましょう。
室町時代の終わりころ(1569年)、京都近辺の国々を制圧した織田信長は、将軍足利義昭の二条御所を堅固な石垣づくりにし、自ら音頭をとってお祭り気分で笛や太鼓、鼓ではやしたてながら大人数で藤戸石(ふじといし)という大きな名石を運びこみました。
そのころの落書(らくしょ。だれが書いたわからないもの)の狂歌(風刺する和歌)がつたえられています(「寒川入道筆記」による)。
(花よりも団子の京となってしまったことよ、今日もいしいし明日もいしいしだ)
「いしいし」は、女房詞(にょうぼうことば。宮中の女性たちのことば)で団子をさし、「石々」とかけています。
風流のわからない者(信長)が支配し、連日石を運ぶために騒々しくなった京都を嘆かわしく感じたものといってよいでしょう。
もちろん、ことわざは肯定的に使ってもよく、幼い子どもが無邪気に花より団子がいいという場合もあれば、大人が風流だけでは食べていけないという本音で口にすることもあります。
ただ、花見に「花」と「団子」がともに必要なように、多くの人にとっては、生きていくために実利が欠かせませんが、同時に美しいものに心ひかれるのも真実で、どちらか一方だけではない複雑な思いがあるといってよいでしょう。
俳人の一茶は、その微妙な思いを次のように詠(よ)んでいました。 「有りやうは我も花より団子かな」
©2024 Yoshikatsu KITAMURA
早起きは三文の得(はやおきはさんもんのとく)
意味:早起きは、何かと得をすることがあるということ。
人の噂も七十五日(ひとのうわさもしちじゅうごにち)
意味:世間で人があれこれうわさをするのも一時的なもので、しばらくすると自然に消えてしまうこと。
人のふり見て我がふり直せ(ひとのふりみてわがふりなおせ)
意味:人の姿や行動を見てよいところを見習い、悪いところは自分の姿や行動を改めよということ。
火のない所に煙は立たない(ひのないところにけむりはたたない)
意味:根拠のないところにうわさは立たない。うわさが立つのは、何かしらそれなりの根拠・理由があるからだということ。
百聞は一見にしかず(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
意味:百回繰り返して聞くよりも、たった一度でも自分の目で見るほうが確かであるということ。
瓢箪から駒(ひょうたんからこま)
意味:思いも寄らないことや、あり得ないことが実現すること。また、冗談半分で言ったことが事実になってしまうこと。瓢箪の小さな口から馬が飛び出すという意から。
豚に真珠(ぶたにしんじゅ)
意味:どんなに価値のあるものでも、その価値がわからない者には、何の役にも立たず、無意味であることのたとえ。真珠を豚に与えても、豚はその価値がわからないので何の役にも立たないということから。
下手の横好き(へたのよこずき)
意味:下手なくせに、そのことが好きで熱心であること。多く、自分の趣味などを謙遜する場合に用いる。
仏の顔も三度(ほとけのかおもさんど)
意味:どんなに温厚な人でも、何度も無礼なことをされれば怒るというたとえ。仏といえども、一日に顔を三回もなでつけられれば腹を立てるという意から。
「ま行」の有名なことわざ
負けるが勝ち(まけるがかち)
意味:時には相手に勝ちをゆずって、徹底的に勝負を争わないことが、かえって有利な結果となり、勝ちに結びつくということ。
馬子にも衣装(まごにもいしょう)
意味:身なりを整えれば、どんな人間でも立派に見えるというたとえ。
待てば海路の日和あり(まてばかいろのひよりあり)
意味:今は状況が思わしくなくても、あせらずに待っていれば、必ず幸運が訪れてくるということ。海が荒れていても、待っていれば必ず航海に適した日が来るということから。
ミイラ取りがミイラになる(みいらとりがみいらになる)
意味:人を連れ戻しに出かけた者が、自分もそこにとどまって帰ってこないことのたとえ。また、他人を説得しようとして、逆に相手に説得されてしまうこと。ミイラを取りに行った人が、目的を果たさずに自分がミイラになってしまうことから。
身から出た錆(みからでたさび)
意味:自分自身の行いや過失のために、あとで災いを受けて苦しむこと。刀身から生じた錆が刀身を腐らせてしまう意から。
三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
意味:幼いときの性格は、一生変わらないということ。
餅は餅屋(もちはもちや)
意味:何事も、その道の専門家に任せればまちがいがないということ。また、素人がいくら上手だといっても、専門家にはかなわないということ。餅は、なんといっても餅屋のついたのがいちばんうまいということから。
「や行」の有名なことわざ
焼け石に水(やけいしにみず)
意味:援助や努力がわずかで、何の効果もないこと。焼けて熱くなった石に多少の水をかけても、石をさますことはできないことから。
安物買いの銭失い(やすものがいのぜにうしない)
意味:値段の安い物は、それなりに品質が悪くて使い物にならなかったり、すぐに壊れたりして、かえって損になるということ。
「ら行」の有名なことわざ
楽あれば苦あり(らくあればくあり)
意味:楽をしたあとには必ず苦しいことがある。よいことばかりは続かないということ。また、怠けた生活をしていると、あとになって苦労するという戒め。
良薬は口に苦し(りょうやくはくちににがし)
意味:自分のためになる忠告は聞き入れにくいということ。よく効く薬は、苦くて飲みにくい意から。
論より証拠(ろんよりしょうこ)
意味:議論を重ねるよりも、証拠を出したほうが確かであるということ。
「わ行」の有名なことわざ
我が身をつねって人の痛さを知れ(わがみをつねってひとのいたさをしれ)
意味:何事も自分の身に引き比べて、人を思いやれということ。自分の体をつねると人がつねられたときの痛みがわかるという意から。
禍を転じて福となす(わざわいをてんじてふくとなす)
意味:災難や失敗を上手に処置して、逆に成功のきっかけとしてしまうこと。
渡る世間に鬼はない(わたるせけんにおにはない)
意味:世の中には鬼のように無情な人ばかりでなく、親切で人情に厚い人もいるということ。
笑う門には福来たる(わらうかどにはふくきたる)
意味:いつも笑い声に満ちあふれた家には、自然に幸福がやって来るということ。また、苦しみや悲しみにあっても希望を失わずにいれば、幸せはやってくるということ。